1_1_020 【由夏の家庭事情】
「由夏」
バシャッ、と灯油が桶の中で跳ねる。
由夏は洗っていたパーツを雑巾の上に置いてチラリと暗い工場の入り口を見る。
自分より少しだけ背が高いだけの父、良夫の姿がそこにあった。
「今日もこっちで泊まるのか?」
「そう」
由夏はそれだけ答えてもう一度パーツを手に取って灯油で洗浄する。
さっきまでそんなことは無かったのにどれだけ磨いてもあまり汚れは取れない気がした。
「……そうか」
それだけを聞きに来たわけではないだろうに良夫は黙る。
もっと、話さないといけないと思うのは由夏も良夫も同じだが、上手く言葉が出てこない。
「今日、誰か来たか?」
「……その、誰も」
本当は湊と愛生が来た。
しかし、それを言うには由夏にとって何かはばかられた。
父が聞いているのは廃業したこの整備工場に誰か来たかってことだろうし……
「立花さんのオイル交換は終わったのか?」
「うん」
「そうか」
父は頑張って話題を探して話してくれたに違いない。
私も何か話さないと、と由夏は思うが、良い話題は思いつかない。
頭の中で巡るのと言えば、湊と愛生と……今日の会話。
「あの……さ」
「なんだ?」
「新しい仕事、楽しい?」
違う、こんなことを言いたいわけではない。
それもこんな責めているみたいに。
由夏の心がずんっ、と一段下に落ちるが、良夫は少し黙っただけで普通に答えてくれた。
「まだ、慣れないな」
聞かなくて良い質問の答えは聞きたくない言葉だった。
自分が悪い、と思う由夏は反面、そんなことをぬけぬけと言ってみせる父に苛立ちを覚えていた。
その苛立ちを表に出せばただの八つ当たりなことも分かっている。
だからこそ、由夏はもう黙るしかなかった。
「…………」
「……戸締りだけ、ちゃんとしろよ」
良夫はそんな由夏を見ても深入りはしない。
良夫は良夫で今の自分が由夏に受け入れられていないことは分かっていた。
しかし、親として、保護者としての立場がある。
三十年近くチューナーまがいのことをしていた男はやはりそれだけ頑固だった。
「……うん」
由夏がそれだけ答えると良夫は何も言わず、工場を後にした。
もう一度だけ、バシャリ、と灯油が跳ねる。
居なくなった影がそぎ落とされるようにブラシがパーツの上をすべる。
レース始めようと思うんだ。
どうしても、由夏からその一言は出ない。