殺人幇助 ⑤
決行の日の夜。
草木が眠っているかのように大気は凪いでおり、俺達が井崎の家に乗り付けたトラックのエンジンだけが空気を震わせていた。
井崎の家は閑静な住宅街にある、小さな一軒家だった。小さく、質素な雰囲気こそあるが、仮にも都内の一軒家だ。住もうとすれば見た目からは想像もつかない額の家賃が必要になるだろう。
俺と真依はクロに渡された、引っ越し作業を請け負う業者のような服を着て、これまたクロに運ぶように指示された長方形の木箱を家の中へと運んでいた。
「お、重たいですね……なんなんでしょう、この木箱の中身」
「ろくなものじゃないだろうな」
「そりゃそうでしょうけどっ、と。このあたりでいいですかね」
リビングであろう部屋に辿り着くと、俺達は木箱をそっと床に置いた。
「井崎を探すぞ」
「家に入ってすぐ右の部屋に居ましたよ」
「先に言え」
真依が告げた場所に引き返すと、女が死んだように横たわっていた。クロが何らかの手を使って眠らせているのだ。食事に強力な薬を混ぜたらしいが、どのようにしてそれを実行出来たのかはわからない。
左耳の偶数のピアス。人を惹きつけるその容貌。
井崎で間違いない。
その顔から、以前にはなかった、度を越した厚化粧の女を見た時のような不快な感じを受け取ったが、恐らくそれは俺の怨みが作用してのものだろう。
「さっさと殺しちゃってくださいね。その後に、まだやる事があるんですから」
真依は躊躇いなく殺すという言葉を言ってのけたが、俺はその事に少々面食らっていた。
しかしその理由、そこに躊躇いがなかった理由、理屈を探しても見つかる気はしないので、この場では考えない事にした。
割り切りがしっかりしている、とでもしておこう。
まあ、実際に手を下すのは俺であるわけで、そもそも今この場において俺と真依との間に殺人について多少の意識の差があるのは当然と言えようか。
そう。俺は今からこの女を殺すのだ。
本当に?
殺すべきなのか?この女は死ぬべき人間なのか?そこまでの罪を犯したのか?
否。そこについてはクロが結論を出していた。この女の罪は殺されるほどのものではないのだ。
ではなぜ殺すのか?
俺がこの女を怨んでいるからだ。
この女を憎んでいるからだ。
この女を殺してしまいたいからだ。
井崎の首に手を伸ばし、少し力を込めた。
その華奢な体にしっかりと体温があることが、触れた部分から伝わってくる。
温かい。これは人の温かさだ。
これを今から冷たくしてしまうのだ。
本当に?
本当に俺はこの女を殺したいのか?殺したら何が起こる?
クロを信じるのなら逮捕はされないだろう。
俺と真依の今回の行動は、まずクロへの信用を前提として成り立っている。そこはいい。
俺がこの女を殺せば、この女の人生はここで終わるのだ。
幸せを感じる器官が問答無用で潰れるのだ。
それが俺にとっての幸福であることはひとつ間違いがないだろう。
しかしながら、同時にこの女は今後苦痛を感じることもなくなってしまうのだろう。
付け加えるならば、己が身に死が訪れる瞬間というものは、一説によれば、それは途方もない快楽を感じるものであるらしい。
懸念がある。
こいつを殺すことは俺の刹那的な快楽にしか繋がらず、俺の奥底で今も唸り続けている復讐の獣の腹が満ちることはないのではないだろうか。
行き場のない憤りに一生苦しみ続けることになってしまうのではないだろうか?
実際に殺してみなければ俺の心がどう動くかなどわからないだろう。
わからないが、目の前で眠るこの罪人にとって……死が救済にしかならないのならば、俺のためを考えれば、これが俺自身のための復讐であるならば……きっと、俺はこいつを殺すべきではない。
この熱を奪ってしまうべきではない。
「こいつを殺すべきじゃない」
「はあ?」
呆れ返った、といった具合の真依の声が鼓膜に刺さる。
「何考えてるんですか? ここまで来て」
「殺してそれではい終わり、の復讐なんて、罰として生温すぎるとは思わないか?」
「ああ、そういう……大丈夫ですよ、誰かに殺される時、その死の瞬間の苦痛というのは比類なきものであると聞きました。十分彼女への罰足り得るでしょう」
俺が聞いたものとは真逆の話だ。なんなら今この瞬間にでっち上げたものかもしれない。
真依はこちらへと寄ってくると顔を覗き込んで話を続けた。
「私が協力しています。クロが協力しています。最早あなた一人の気持ちの問題ではなくなっているんです。計画はあなたが井崎を殺さなければ進行しません。ここで日和ったら私達はしばらく刑務所のご飯を食べ続けることになるんです。早く折ってください。貴方が、その女の首を」
矢継ぎ早に言葉を紡ぐ真依の口角は不自然に上がっていたが、その目は、表情は、焦燥こそ感じられるものの、明るさなどとはかけ離れていた。
蛍光灯の光が彼女にだけ差していないようにさえ感じられた。
短い付き合いではあるが、この女が俺の前でこういった、本来持っているはずの小憎たらしくも朗らかな性質からかけ離れた状態になるのは初めてだった。
いや、違う。
俺はこの目を一度見たはずだ。
薬を飲んだことを俺に追求してきた時。同じ目をしていた。
底の抜けたような暗闇を湛えたこの瞳孔を俺に向けてきていた。
「お前」
「早く」
その瞳で、語気を強めて俺を駆り立てる真依に対して、俺は反駁する気を起こせなかった。
理屈はわからないが、ただ従わなければいけないという気にさせられた。
恐怖じゃない。
どちらかといえば、この感情は、憐憫、あるいは同情と呼ばれるものだろう。
こちらに注がれ続ける視線に圧されて、俺は井崎の首を握る力を強めた。
少しして、糸が切れるような感覚に襲われた。
物理的なレスポンスこそなかったはずだが、確かにそう感じた。
首を締められ続けた井崎が事切れたのだと察した。
絞殺、いや、扼殺。
俺が井崎を殺した。
ひとつの生き物から、ひとつの命を取り上げた。
人を殺すという、普通に生きていればまず犯すはずのない禁忌に触れたはずなのに、驚くくらいに、何の感情も湧いてはこなかった。
「終わったみたいですね。よくできました」
場にそぐわない、子供をあやすかのような言葉をかけてくる真依に何かを言いかけたのだが、続く言葉に遮られて、俺の喉からは何も出てこなかった。
「先程の木箱の上にこの死体を運びます。急ぎましょう」
言われるがまま、女の死体をお姫様抱っこして木箱まで運び、そっと上に乗せた。
何を思って俺がこれをこう扱ったのかわからなかった。
「台所にクロの言っていた紐があるのを確認しました。あれに火を点ければこの家が全焼して終わりです。どうぞ」
真依は言葉と共に100円ライターを手渡してきた。
「なあ、真依、代わりに火を点けてくれないか」
「ダメですよ。あなたが実行することに意味があるんです。結果だけが欲しいのなら、はじめからクロだけで事足りているんです」
もっともな話だった。
クロが全てを御膳立てしており、俺はスイッチを押すだけで全てがうまくいくという状況に置かれているのだ。
井崎に死んで欲しいだけだったのなら、眠らせるのに使ったであろう薬を毒薬にするだけでよかった。
俺が井崎を殺すために、井崎の全てを壊すために、この舞台装置が用意されているのだ。
そもそも既に俺は人殺しだ。
しかし。
「なあ」
「薬」
尚も情けなく声を出す俺に対して、真依は初めて聞くというほどの冷たい声でそれを遮る。
「まだ、あるんでしょう。飲んでください」
「置いてきた」
「……私が一錠だけ持っています。飲んでください」
そういえば、真依には薬を二錠渡していたのだった。
真依からやや強引に押し付けられた薬を受け取ると、それを唾液で飲み下した。
また、感情から熱が奪われて、思考が冴えていくのを感じる。前に飲んだときと同じ感覚。
効果はしばらく続くはずだが、どうにも今回はすぐに元に戻ってしまいそうな感じがしたので、俺はすぐにライターで紐に火を点けた。
「1分ほど経った後、一気に燃えるそうです。早いところ家を出てしまいましょう」
真依から声がかかるのだが、不思議なことに、俺の足はまるで動かなかった。
「はあっ……ガキですか、あなたはっ!」
真依は本気で苛立っているようだった。
しかしながら俺を見捨てるなどというつもりはないようで、立ち尽くす俺の手を強く握ってきて、そうすると、これも不思議なことに、俺は手を引かれるがままに足を動かしていた。
家を覆う橙の炎を目にしたのを最後に、俺の意識は薄れていき、そのまま気を失った。
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『────が、東京都内で家屋が全焼した事件に────────』
『────────ぞれの遺体は住人の井崎羽咲さん、及びその交際相手とみられる赫屋茂吉さんのもので────』