殺人幇助 ②
「今度のは大きい話です。事の大きさがまるで違います。今までみたいなちまちましたものじゃない、一気に稼げますよ……投資額次第では、一生遊んで暮らせるほどに」
甘ったるい声で紡がれる、怪しげな言葉。
そう。客観的にここだけを見れば、不自然なほどに甘ったるい声音であり、そして内容自体もあまりにもお粗末で信憑性に欠けるものだ。
まともな頭を持った人間はこんな話に乗らないだろう。
洗脳。これも洗脳だったのだろう。
俺はこの女に惚れさせられていたのだ。
最初に持ってきた話に乗ったのは好奇心からだった。
それが欲望にすり替わったのはいつだっただろう。
「私は確実に勝てる銘柄をあなたに教えることができます。少額の投資から試してみませんか?」
初めて顔を合わせたのはあるパーティでのことだった。少々過激な赤いドレスを身に纏い、証券会社の社員を自称した彼女は、会うなり耳元でそう囁いた。
彼女には少々不自然な部分があった。
左耳のみに偶数のピアス。
単なるファッションかもしれないが、それは女性の場合同性愛者であることを示す記号であった。
にもかかわらず、俺を誘惑するように近づいてきた。
性的な格好をしながらも性的な目的を除外して擦り寄ってきた彼女、井崎という存在は、著しく俺の興味を引いたのだ。
どんな手を使ったのか知らないが、事実、彼女の言葉に従って、俺は利益を得ることができた。
一度だけならまだ偶然だと思っていただろう。
それが何度も続いた。
何度やっても勝てるのだ。
そもそもの資金が増えていったこともあり、次第に一度に投資する額も増えていった。
利益もそれに伴って膨らんだ。
俺は有頂天になっていた。
欲望や快感は他の部分をも巻き込んで広がっていき、この女をも手にしたいと考えるようになっていた。
自分から遠いものほど欲しくなってしまうのが人というものだ。
井崎のピアスが目に入れば、より井崎が欲しくなった。
「犯罪すれすれのことですから、他の人に教えることはないんですけどね……赫屋さんには、特別に」
井崎もそれに応えるように聞こえの良い言葉を連ねて、俺を奈落へと誘い込んでいたのだ。
インサイダー取引のようなことをしているのだと思っていたが、あるいは複数人に声を掛け、たまたま勝ち続けた人間をカモにしていただけなのかもしれない。
なぜ彼女が俺にだけ情報を流すという旨の発言をしたのか。
深くは考えなかった。
純粋に、俺への好意からそうしているのだと思い込んでいた。
「借金をしてでも、その株を買うべきなんです。可能な限り。こんなチャンス、もう二度とは訪れないでしょうから」
金と女への欲望が螺旋を描き、俺の行動を縛っていた。
その話を断るという選択肢は、当時の俺の中にはもう存在しなかった。
方々に借りて回った金で株を買って間もなく、その会社は倒産した。
◯◯◯
「────はい、歯型取れましたー。それじゃあ今日はこれでおしまいです。また一週間後にお越し下さいね」
若い女の歯科医が俺の口から粘土と金属で作られたような機器を取り出してそう告げる。
「……一週間後にも来るんですか?」
「あれ? やめちゃうんですか? 治療」
きょとんとした顔で返される。
この女にまでクロが話を通しているというわけではないらしい。
「……いえ、なんでもないです。また、来ます」
「はい、お疲れ様でしたー」
歯科医に笑顔で送り出され、会計を済ませると、エレベーターへと乗り込み、歯科医院のあるビルの外へと出た。
矯正治療には相当な金がかかるらしいが、ここは通院の度に分割で払わせてもらえるらしい。
多額の借金があるにもかかわらず、それなりの現金は持っているというのも少しだけ不思議な感覚だ。
もう3時頃だろうが、白い日差しが眩しい。
蝉が俺を嘲笑うように鳴いている。
道行く人々が俺を指差して笑っている。
いや、彼らはそんなことをしてなどいない。
陰鬱な俺の心が、俺に彼らをそう見せているのだ。
まともな精神状態ではなかった。それを自覚できるうちに手を打たなければならないだろう。
俺は懐を漁るとクロから渡された錠剤の入ったビニールのパックを取り出し、その錠剤を一つ口に含むと、唾液で飲み下した。
数十秒もすると、俺を包んでいた不信と不安は嘘のように消え去り、思考がクリアになる。
蝉の鳴き声は最早夏を思わせるものでしかなく、談笑しながら行き交う人々の姿は微笑ましくさえあった。
異常な効果だ。
俺の精神の支えになることは間違いないだろうが、服用は極力控えた方がいいだろう。
強引にでもこの薬の詳細をクロに聞いておくべきだった。
「お暇ですか?」
唐突に声を掛けられる。
若い女の声だ。最近こういったことが多いような気がする。
四ツ谷という都会で、一人でいる男に声を掛ける人間、それも若い女となると、目的はある程度絞られるだろう。
九割九分、宗教勧誘か、或いは壺のようなものを売りつけられるかだ。
普段なら無碍に断るところであったが、今の俺にはするべき事が何もない。
暇つぶしになるかもしれないと、その女に肯定的な返事を返すことにした。
声のした方へと振り向く。
井崎やクロに比べると劣るが、中々可愛らしい顔立ちをした、ショートカットの女だった。
格好からして大学生だろうか。
「ええ、時間ならありますよ。何か御用ですか?」
「よかったら、一緒にお食事でもいかがですか? 普段一緒に食べる人がいたんですけど、今はいなくて、一人で食べるのもなんですし」
一人で食事をするのが寂しいから、見知らぬ男に声を掛ける。
有り得ない。
その裏に隠した意図に、あるいは事情に、興味を引かれた。
このあたり、クロの言っていた『細かい事が気になる性質』ということなのだろうか。
学習せず、ずっとそれに振り回され続けているということにはなるが、自覚して尚、止める気にはなれなかった。
「ええ、構いませんよ。なんなら僕が奢りましょう」
「いやー、悪いですよ」
「気にしないでください、奢りたいんです」
多少の散財、それも食事一回程度の微々たるものなどもうどうでもいい。
少々格好を付けた方が余程有意義だというものだ。
「そうですか? それじゃあ、お言葉に甘えて」
それなりに強かではある様子だ。
「僕はこのあたりには詳しくないんですが、美味しいお店、ご存知ですか?」
「オムレツが美味しいレストランがあります。そこへ行きましょう」
体を動かしながら、笑顔でレストランのあるらしい方向を指差す。
その方向へと、見知ったばかりのこの女と並んで歩く。
俺もそれなりに若くはあり、今は私服だ。大学生同士のカップルにでも見えているだろうか。
いや、よく周りを見渡せばオフィス街のような場所だ。そうはとられにくいかもしれない。
「私、そこの大学に通ってるんですよ。貴方もそうかと思って声を掛けたんですけど、どうも違うみたいですね?」
この女からは、大学生だと勘違いされていたようだった。
「なぜ違うと?」
「いや、この辺りに詳しくないって言ってたじゃないですか。容貌からして一年生ってこともないでしょうし」
尤もだ。
「大学生のほうが都合が良かった?」
「いや、うーん……都合ってわけでもないんですけど……まあ、本当の事を言えば誰でも良かったんですよね。半分、あてつけみたいなものですから」
こちらもこちらで、彼女の抱える事情についてはある程度分かっていた。
分かっていたが、どうも分からされている、そう思い込むように誘導されているような違和感も同時に感じていた。
自分で言うのもなんだが俺はあまり頭のいい人間でなく、今まであまり経験のない感覚だった。
これもクロの薬の効果なのだろうか。
しかし、誘導されるまま、それに従って導いた答えを口にする。
「彼氏と別れた?」
「そうなんです。よく分かりましたね」
ぱちぱちと、わざとらしい拍手と共に賞賛の言葉が送られる。
「君が僕に伝わるように話してたからね」
「まあ、そうなんですけど」
揶揄うように、あるいは自嘲するように一つ笑うと、彼女は経緯を説明し始めた。
「二股掛けられてたんです、私。優しくて誠実な人だと思ってたのに……私の方が本命じゃなかったらしくて、酷い事も言われて」
ありがちな話だった。
この話自体に興味はなく、真実であるかどうかも半々だと認識していたが、適当に頷いておく。
「私だってあなたの事はなんとも思っていなかった、もっと素敵な人がいる、って言い放って別れて、ぼーっと歩いていたら、どこか今の私と似たような雰囲気の人を見つけて。でもすぐにその雰囲気は消え失せた」
くるり、とこちらを向き、その目を見開いて俺の目に視線を合わせる。
急に彼女の纏う空気が冷たくなる。
目を少し細めると、ゆっくりと口を開いた。
「何、飲んでたんですか?」
どうやら彼女はそこに目を付けた人間だったらしい。