殺人幇助 ①
うなだれたまま、どこともわからない暗い路地を歩いていた。
こんな事をしていても何も解決しないのはわかっている。だが、身体を動かしていなければ、闇雲にでも歩いていなければ、胃の中に入ったものを全て戻してしまいそうだった。
全身がだるい。
気持ちが悪い。
顔が熱い。
節々が痛み、足を前に出す度に軋む。
視力は良いはずなのに、靄がかかったように目の前がはっきりとしない。
確証があるわけではないが、俺は何かしらの病魔に冒されているわけではなく、これらは全て、精神面からくる不調であるのだろう。酒だって飲んでいない。
そんなものを飲む余裕さえないのだから。
たん、たん、と、足音のようなものが聞こえる。
こんな場所に人がいるわけもないので、恐らくは幻聴だろう。
クスリを打った、あるいは吸った経験はないが、今の俺は薬物中毒者よりも余程脳がまともに機能していないとみえる。
「君は随分と感情が顔に出るみたいだね? ここまでの激情が表情から伺えるのは珍しい」
後ろから、はっきりと声が聞こえた。中性的だが艶かしい声。今度は俺の認識がおかしいわけではなさそうだ。
先ほどの足音もどうやら幻聴ではなかったらしい。
「……誰だ」
不機嫌であることを隠さずに振り向く。
全身を黒い衣で覆った、長い黒髪を流した女が立っていた。
ほとんど女で間違いないとは思うが、露出の少なさと光の加減に認識を遮られ、断定はできない。
その黒の隙間から覗く、薄暗い空間においても輝いて見えるほどの白い肌が印象的だった。
顔立ちもはっきりと確認することはできないが、目鼻立は整っているように見える。
女。
声をかけてきた人間がただその要素を持っていたというだけで、また俺の煮えたぎった感情は刺激され、更にその温度を高めた。
「その質問に答えることは出来ないかな。企業秘密、或いは禁則事項だとでも言っておこうか」
「企業秘密? どっかの会社の営業か?」
「いいや。私はフリーランスだよ」
「なんで企業なんて言葉を持ち出したんだ」
「その場の雰囲気と言葉の綾だ。細かいことが気になる性格かな? きっとそのはずだ。君が陥ったその面倒な状況も、君のそんな性質に起因する部分があるのだから」
迂遠で殆ど無意味な言葉の羅列にも苛立ちが募る。
しかし、その言葉のひとつ。
俺の陥った状況。
こいつは、この女は、たまたま俺が感情の奔流に溺れているのを見て声をかけようとしたわけではなく、俺のことを以前から知っていたからこそ声をかけたらしい。
「余計なお世話だ。揶揄いたいだけなら帰らせて貰うぞ」
自分の気が長くないことは認識している。この話を続けて、この女を殴り飛ばさない自信がなかった。
「まあ待ちたまえよ。私は君を助けに来たんだ。そのために声をかけた」
「助ける? どうやって? 弁護士に相談するだとか、お前が弁護士だとか言うならナシだ。この件を法に則って解決することはできない。さっきそう言われてきたばかりだ。そういう風に仕組まれたんだ」
言いながら、あの時の、安易に誘いに乗ってしまった自分を殴り飛ばしたくなってくる。
欲望が絡むと思考に靄がかかってしまう。昔からだ。そこに付け入られたのだろう。
そして今、恐らく俺はまた、利用されようとしている。
この感情を。ある種の欲望を。
口では全面的に否定しつつも、この女の口から出る言葉に期待してしまっている。
「法に則るか。君も異な事を言うね。私はそんなものから一番縁遠い人間だというのに……君ももう、凡そ察しはついているだろう。私は今、誰よりも君を理解している。これを聞いた君は、私がどんな人間であるのか理解できるはずだ」
ハスキーだが、色気を感じさせる声だ。
イントネーションだとか、一語の発声にかける時間だとか、その声の揺らぎだとかが巧みにコントロールされているように感じる。
その声は熟練の詐欺師のように俺の心に入り込み、或いはカルト教祖のようにカリスマを感じさせた。
俺は既にある種の、軽度の心酔の状態にあった。
この女の言葉が真実であるならば、この女がどういう存在として俺の前に現れたのか、およそ想像がつく。
日が俺の真上にまで上がる。
もう昼頃だということだろうか。
太陽の位置が動いたことによって、今まではっきりとしなかった女の姿が明瞭に視界に映る。
黒髪黒目。その異常に白い肌が儚げではあるが、どこか人を食ったような表情を作っているようにも見えて気にくわない。
特徴的なのは身に纏ったその漆黒のドレスだろうか。顎の先から足首までを隠すそのドレスは、ゆったりとしたシルエットを作りながら揺らめいている。
所々に青い意匠が組み込まれており、黒い蝶のようにも見える。
「私は黒死蝶……いや、そっちじゃあなくて、クロと呼んでもらおうかな。君と共に事を運ぶ上ではなかなか綺麗な対比として映る名になるだろう、赫屋君」
「どうでもいい」
「冷たいね。まあそれでいい。そのくらいがいいんだ。私達はこれから────」
結論を述べる前に、この黒い服の女────クロは一つ、わざとらしい呼吸を入れた。焦らす意図でもあるのだろうか。
静かな路地で、その意図的に艶を仕込んだ呼吸音が僅かに反響する。
俺に視線を合わせると、その紅い唇を開く。
「────ひとりの女性を殺そうというのだから」
恐ろしいほどによく通る声で発せられたその言葉は、予想通り、俺の欲望にそのままそぐうものだった。
俺は、俺を嵌めた女を無惨に殺してしまいたくて仕方がなかった。
それほどまでに奴の事を憎らしく思っている。憎悪を抱いている。
あの女に愛を囁きまでしたにもかかわらず。
くだらない回想から意識を切り替える。
こいつは俺の殺人を助ける、つまり殺人幇助に手を出すつもりであるらしい。
なぜ?
「お前の動機は、利益はなんだ? お前にとっても殺したいほど憎い女なのか?」
「いや。私の目的はそんなところにはないよ……まあ態々語ることもないだろう。確かにあの女を殺しさえすれば、私も君も幸せになれるんだ」
嫉妬か。怨恨か。
或いは、殺人衝動か。
クロを突き動かすものがなんであるのか、俺に語るつもりはないようだ。
俺にとってもその情報の優先順位は低かった。
この殺意に比べれば。
「……実行するのは俺だ。俺の手で殺させろ」
「素晴らしい志向だ。私の申し出を受諾したとして話を進める。とは言っても、すぐに出来る事はあまりないんだがね……私は必要な時に君の前に現れる。今日一つだけ私の指示に従ったら、後はその時まで待っているといい。これも今日実行しなければいけないわけでもないんだが」
「それなら、あえて今俺に声を掛けなくてもよかったんじゃないか?」
今の俺はまともな思考力を備えておらず、まどろっこしい言葉を並べるクロの話を理解できない可能性は十分にある。後日、精神がある程度安定した後で話をした方がベターであるように思えた。
俺が問いかけると、クロは嘲るように口角を吊り上げて、しかしどこか愉快そうに声を発した。
「言ってしまうけど、まさに今君に声を掛けるべきだったんだよ。君の激情がそのまま残っているうちに、その意思を固める必要があった。口に出させる必要があった。言葉によって君の意思の形成を外側から助ける必要があったんだ……言葉というのはなかなか便利でね、意思によって生み出されたはずなのに、意思を限定してしまう性質を持っている。そして、理屈を聞いて天邪鬼な反感を持ったところで、君にはどうすることもできない。もう君は、あの女をその手で縊り殺す事しか考えられていないのだから」
ペラペラと、また面倒な言葉遣いで語るクロの話には一つ、俺の認識と異なる部分がある。
俺の意思が完全に固まり、そしてそれに従って動くしかなくなっているのは間違いない。
しかし、俺をそうさせたものは、より正確にはクロの言葉ではなく────それの媒体たる声だろう。
クロの声は、物理的には俺の鼓膜を震わせるというプロセスを踏んでいるはずだが、直接俺の脳に、或いは心に響いてくるように感じられた。
その感覚が俺を惚けさせ、思考力を奪い、その音の持つ意味に従わせた。
馬鹿げた思考かもしれないが、間違っているとは思わない。
クロはその声によって、容易く人を洗脳できるのだろう。
「さて、最終確認だ。私はあの女を殺したい。君もあの女を殺したい。目的は一致する。私が提供するのはあの女を確実に殺し、可能な限り君の罪を隠匿するプラン。君が提供するのはその身……つまり立場と労働力だ。問題ないね?」
「ああ」
「うん。じゃあ早速だけど、これから指定する歯科に行ってくれ。予約はしておいたから」
「……は?」
予想を大きく外れた言葉に、間抜けな声が出る。
クロは俺に折りたたんだ紙を手渡しながら、もう一度口を開く。
「歯医者だよ。君に矯正治療を受けてきて欲しいんだ」
「……そんなことして何になるんだ?」
「すぐにわかる。わからなくても構わないけどね。……そうだ、それともう一つ。この薬を渡しておこう」
「毒か?」
「まさか。それは君を救う錠剤だ。困ったら────例えば、緊張で手の震えが止まらず、まともに作業ができないといった状況に陥ったらそれを飲み込んでくれ。ぴたりと震えが止まるだろう」
「……話通りなら影響が大きすぎる。結局ヤバい薬なんじゃないか?」
「なに、死にはしないさ……多分ね。それじゃあ、また会おう。あの女────井崎とは、私の指示があるまで極力接しないように」
言うと、クロは俺に背を向けて去ってしまった。
井崎。
俺を騙し、陥れ────俺が人生を終える判断をするのに十分なほどの負債を生み出すように誘導した人物。
クロの協力を得て、こいつを俺の手で殺すことが出来る。
それを考えると、暗い幸せの予感が俺の中を過ぎっていった。
今既に一切の痕跡もなく消えているクロは泡沫の幻想のようでもあったが、その存在は俺の手に握られた薬と紙切れが証明している。
手を開き、その上の紙切れを開くと、そこには『四ツ谷 青林檎歯科 6/12 14:00』とだけ書いてあった。
確か今日は、6月12日。
現在時刻は昼過ぎ。
「……これ、間に合うのか?」
俺は謎の女への不信感を少しだけ募らせながら、大通りの方へ向かって走り出した。