短編:小さな本 後編
(小さな本 承前)
ーー花は 甘い匂を放ちはじめ 死者のそばに呼び寄せようとしはじめるのですーーとても小さな星々を
ーーなんと 星を!
ーーはい ドゥール教でないかたには それらの姿は見えぬらしいのですが 星が取りついた骸には たしかに蟲はわかず 獣も近寄らないとききます
星々は 人間の骸を ゆっくりと舐めます 珍しい甘いお酒でもあるかのように…… 肉も 骨も かたまった血も すべてを星が舐めとります
人の目に触れぬ場所で ことは進んでいきます
……あとには 服と ながい眠りについた魂だけが残ります そして魂が本のなかへと吸いこまれて 蔵われるのです
ーーふうむ……
ーー本は 土の上や草の上に落ちたまま 回収者を待ちます 雨によって溶けたり 日差しによって焼けたりすることは ありません 山火事に遭ってさえ 本だけは灰のなかに残るそうです
ジョメは 夜の大気を吸いこみ ながく吐きだしました
ーーそれで 残った本をお前さんたちが集めてまわる と…… 回収の役目につくのは お前さんのような 目の見えない者ばかりなのかい?
女は まばたきの少ない目を彼のほうに向けて こたえました
ーーそうです あたしたち盲は 本の回収というおつとめをするかぎり ドゥールの神さまのご加護を受け 生かしてもらえるのです
ーー年寄っておつとめができなくなったら
ーーそのときは あたしたちも本のなかに入りますよ 年を取らなくても いろんな理由で 歩けなくなったら……ドゥールさまが 完全にあたしたちを見捨ててしまわれる前に…… そのために皆 いつでも自分の本を持ち歩いているのですからねえ
そして盲女は 焚火に照らされた顔に 笑みをうかべました
ーーその本のなかは いったいどんな世界なのでございましょうね…… 服も 思いどおりにならない身体も すっかり捨ててしまって 裸の魂の姿で入っていく そこは……
ーーあんがい さびしいところかもしれん
そんな意地悪を気にするどころか かえって女は笑い
ーーあたしも そんなふうに思っています ……ですがね そのさびしさは きっと甘い味のするさびしさじゃないか とも思うのです 遠くから 赤ん坊が泣いたり笑ったりする声がきこえてくるときに 胸のなかでやわらかくふくらんでくる 甘いさびしさで……
しばらくふたりは黙りました それぞれの胸にわき上がってくる感情があったのでしょう
藪のなかでは小柄な獣が火を見つめて 目をきらきらと光らせていました
ふと 女がひっそりと 節をつけて短い唄をうたいました
ーー《ふたり手を取りよろこびきたる 恋の山路でいまひとり》……
ーーなんて唄だね それは
ジョメがきくと 女は いま心に思いうかんだ唄だと言いました
ーー今日 あたしが回収した本は 一冊だけでした 地面から拾いあげるとき ひょっとしてこれは あたしの妹の本じゃないかと……そんな気が ふっと頭をよぎったのです
ーーふむ?
ーーなぜ急に妹のことを思ったのか わかりません 妹はあたしよりも七つ年下で 三年ほど前に 惚れた男といっしょに故郷の町をとび出しております
一冊しかない本に どうして妹を感じたのか…… 本に触れたその一瞬に 指先にとびつくように なつかしいあたたかさが伝わってきたせいでしょうか
妹だとしたら どんな事情で 故郷から遠く離れた こんな山中にまで至って 生を終えたのでしょう? 共にいるべき男は どうしたのでしょう?
小さな本を胸に抱きながら その場でぼんやり考えたり 故郷の唄を 思い出すまま いくつも口ずさんだりしているうちに まわりがいっそう寒くなり 日が落ちてしまったのを知って われに返った次第でございました……
ジョメも女も あまり眠くなりませんでした ジョメが乞うて 女に故郷の唄とやらをきかせてもらい 夜をすごしました
山の夜空に 雲はひと切れもありませんでしたが ちょうどその日は 珍しい雨が降ることに決まっていました
女がうたいだしてまもなく 星が すらり と 流れはじめ ひとつ またひとつと流星が増えてゆき やがて空全体が 光の雨の様相になったのです
ふだんの雨なら 水が地をたたく音がするでしょう しかし 星の雨というのは 音もなく さあさあと さまざまな色の線を引いて 近いようにも遠いようにも思われる辺りを 流れつづけるのでした
小さな本は ドゥール教徒でなくても持っていてよいものらしい
ですから 女が 別れる前に荷から出した新品を ジョメは ドゥール教寺院への喜捨という名目で銭を払い 手に入れました
彼がこの話をしてくれたとき なまいきだったわたしは でっちあげの話と 雰囲気づくりの演技に引っかかって 商品をうまく買わされたのでは? と言いました
しかしジョメは だまされたかどうかが ほんとうにわかるのは 自分が死んだあとのことであるし そのときには 銭などにたいする執着もなくなっているだろうから なに かまいはせんよ と老いた手で小さな本をかかげて わたしに見せながら 笑って言ったものでした
ジョメは 死んだあと ドゥール教でない寺の墓地に 埋葬されました
星は 彼の身体を舐めには来なかったのでしょうか 彼が山中でなく 街の劇場の楽屋で急死したのが なにか影響したのでしょうか
一方 彼の多くはない遺品のなかに あの小さな本があったという話もききません 盲いた女が ふしぎな力にみちびかれ まもられながら 誰にも気づかれずに ジョメの魂が蔵われた本を そっと回収していったのでしょうか
夜空に輝かしくあるも ほんとうの居場所などなくさまよう惑い星と いっときあらわれては去っていく彗星とが 山奥の一箇所で邂逅したという話を 小唄の由来としてお話ししました
小さな本 了
※投稿サイト〈セルバンテス〉に2019年2月24日『セレガノ・バフタールと小さな本』という題で発表したものを、改稿しました。




