第七話 ホラート・シャフィル 後編
つい先ほどまで見えていた森林たちが嘘のように思えた。
大地は荒れ果て、二度とそこに木々が生い茂ることはないだろう。まさに死の山というべき姿だった。だが、それ以上に驚くべきものがそこにはあった。
爆心地の中央、葉巻を突き刺したかのような縦長の建物がそこにあった。
それが何かは彼らにはわからない。それ故に歩を進めた。そして、縦長の建物との距離が二〇〇メートルを切った時、計測器が警報を鳴らした。
大量の放射能がクレーターの中心、タワーの周囲半径二〇〇メートルを包み込んでいた。いや、タワーが放っているのだ。
歩を進めれば進めるほど、その量は増えていく。防護服を身にまとっているにも関わらず、大量の放射能に恐れた。
それでも、彼らが足を動かしたのはボリスという男に対する信仰だった。
近づいてみるとタワーはより一層巨大であることがわかった。土埃をかぶって薄汚れているはいるが、損傷はない。
そして、ようやっと気が付く。
これは爆発を受けた山の中から生まれたのではない。
これがここへと投下されたのだ。その衝撃で山が吹き飛んだ。そして、これがここにあることが見つかってしまうことを恐れた権力者が隠蔽した。
随分とずさんな隠蔽工作だ。こんなもの衛星写真からすぐにバレてしまうだろう。
と、そこまで予測して男は思い出す。
衛星写真には何も写っていなかったのだ。傷ついた大地が広がっているだけで、その中央にはクレーターがあるだけで、これほど巨大なタワーなど映っていなかったのだ。
見落としなどではない。まぎれもなくそこには何も映っていなかったのだ。
なぜだ。
ロシア領の山脈だ。ボリスにすら隠された秘密。足を踏み入れるまで、知る由もなかった真実。
彼らは初めてルゥカヴァディーチリが、それを隠そうとしているということに気が付いた。
「こちらホラート・シャフィル山探索部隊」
この真実を伝えなければならない。この真実を報告しなければならない。
彼らは写真、映像、手記によって、その事実を手元に残す。そして、その声を高らかに響かせる。
「HQ応答しろ!とんでもないものを見つけたぞ」
彼らの誤算は三つあった。
一つはルゥカヴァディーチリという存在に対する無知である。電波を自在に操ることの出来る彼の力によって、その声はどこへも届かない。それと同時に、ルゥカヴァディーチリは彼らの居場所を知ることになったとは知らなかった。
二つ目は彼らを尾行するものがいたのだ。マンシ族の村を襲い、武装した彼らを遠くから見守る者がいた。そして、それが一斉に飛び出した。
背後に突然現れたそれらの気配に探索部隊は一斉に銃を向けた。
それはドーチカ《鉤爪》である。人が乗るには少し小さすぎる。だが、紛れもない脅威であることに違いはなかった。
空を覆う羽虫の群れのようにそれらは頭上に舞い上がる。
それは諦めにも似た感情だった。だが、フリーズした心とは裏腹に彼らは思考する。
迎撃できるとは考えなかった。かといって走って逃げられるような状況でもない。彼らの体には放射能に対する防護服が覆っているのだ。それは決して自由に動けるほど身軽なものではない。
木々や瓦礫も人が隠れられるほど残っていない。まさに袋小路である。
ここで攻撃を受け、全員が死んでしまえば、ここまでの歩みはすべて無に帰すのだ。
カメラでもいい。あるいはボイスレコーダーのテープ一つでも言い。誰かが生き延びようとは考えていない。たった一つの情報でいい。
それさえ残ればいいのだ。自分たちと同じようにこの道を歩む者がいてはいけない。
その警告の一つでも残すことが出来ればいいのだ。
それ故に思考する。この危機的状況に対する打開策を見出すために。
互いを背にして空を見上げる。今は突発的に打開できる策はない。攻撃手段も限られている。
彼らが取った行動は後手に回ることだった。頭上を覆い尽くそうとする無数の大群。
それが空を黒く染める様をただじっと眺めているしかなかった。
まるで、あざ笑うように風が鳴いていた。しんしんと囁く耳鳴りはそれが悪手だと謳っていた。
「隊長!どうするんです!」
そう声を上げた者がいた。
動くな、と声を返そうとした直後、彼は悲鳴を上げながら体が浮遊した。
それを見たものは、それを戦いとは呼ばなかっただろう。殺戮としか表現のしようがない。だが、彼らはまぎれもなく戦っていた。
発砲をしたのは身を守るためでも、敵を屠るためでもない。
この戦いの意味とはなんだ。
仲間が落としたボイスレコーダーを拾いあげ、ひたすらに足を振り回した。
隣で誰かが悲鳴を上げようと、彼らは足を止めなかった。日誌を握りしめ、少しでもここから離れようと、少しでも危険の少ない場所にそれを届けようと必死だった。
まさに必死である。この戦いは必ず死ぬ。だが、それは敗北ではない。
また一人、また一人と仲間が死んでいく。その体は人間の体液にまみれ、体には無数の傷がいくつも出来ていた。
ようやっとクレーターの端っこにたどり着いた時には、隊長一人しか残っていなかった。
その手には日誌が一つだけ。彼は死を理解した。覚悟ではない。中心地から一〇〇メートルほどの距離。
時間にしてしまえば、一〇秒にも満たない長距離。彼はその事実に安堵した。
跳躍。
切り立った崖のような、めくれ上がった大地を、彼は跳躍する。重たい体を精一杯、空へと近づける。
鳥にでもなったような気分だった。翼などない。ただ、落ちていくだけ。
それなのに、彼の心は飛翔した。彼の目は天を見た。そして、その向こうに嘴を見た。
ウッドペッカーとは違う。見たことのない翼が、目の前を駆け抜けた。
彼は安堵する。翼が生えていなかったのではないという現実を知る。
「これを守ってくれ!」
言葉が通じるのか、そんなことはどうでもよかった。ただ、彼は声を張り上げ、その思いを託した。
それを受け取るように、嘴は触手を伸ばして、日誌を受け止めた。
ただ、それでいいのだ。彼はその身が地面に叩きつけられる直前まで、それを見ていた。
脳みそがマヒするほどの激痛と衝撃。それでも、彼は充足していた。
思いを託したのだ。誰かとは知らない。どこの者とも知らない。ただ、その思いを届けてくれると彼は信じた。いや、信じることしか出来なかった。そうであってほしいと自身の猜疑心すら騙すことにした。
任務完了、と心の中で小さくささやき、彼の頭上を覆い尽くす鉤爪の大群に中指を突き立てる。
グレゴヴィッチは無我夢中に駆け抜けた。
彼らを助けようとした、わけではない。ただ、帰還しようとした。ロシアで見た真実を冴島に知らせようとした。
いつまで経っても音声は通じない。だから、少しでも高いところに行けば通じると思った。
それだけのための飛翔。たまたまその先に彼らがいた。
逃げ惑う人々とそれを追いかける黒い羽虫の大群。
正義のために、などという崇高な思いは微塵もなかった。だが、体は動いたのだ。
彼らを助けるという意思もなく、彼らを助けようとした。そして、救えなかった。
一足も二足も遅かったのだ。それを後悔する時間もなかった。
我武者羅に触手を伸ばす。その時にたまたま日誌を受け止めただけだった。いや、挟まったと称した方が正しいだろう。
機械と機械の隙間にすっぽりと挟まったのだ。それを偶然と呼ぶのは容易い。運命と決めつけることも用意だろう。だが、そんなちっぽけな言葉で片付けられるほど、小さな思いではない。
指名を果たすために燃え尽きえた命の意地。生きるためでも、死するためでもない。
時代を紡ぐための意地。その意地が見せた最期の根性。天をも衝く意思は、そんなちっぽけな事実で終わらない。
些末な記録だとしても、誰の目にも触れることのない意地だとしても、彼らはただ充足していた。
彼らの体を引き裂いた鉤爪を地面へとたたき付ける嘴の姿を、羨むように見ていた。
たまたま傍を飛んでいただけなのでしても、たまたま翼を与えられただけだとしても、その不運とも幸運ともつかない現実を、ただ、羨んでいた。
あそこにいるのが自分だったら、どれほどよかっただろうか。
こうして地面にはいつくばって空を見上げるなんて、なんて悔しいのだろう。
グレゴヴィッチはそれらすべてを知らずに戦うのだ。
冴島という名の男。たまたま上司にいびられ、辺境の地でよくわからない特集記事を組まされた。
挙句の果てには仕事を全うする前に、記憶も自身すらも失った。そして、今も、彼は敵の手のひらの上で踊っている。
それでも、彼は生きていた。そして、次の任務を全うする。
敵を薙ぎ払い、その命を咀嚼し、その翼で駆け抜けた。
彼は怯えていた。だから、逃げ延びることだけを考えた。そして、それは最良の選択だった。
鉤爪は何としても彼を止めようと躍起だった。それもまた、冴島を名乗った男の意思だった。
グレゴヴィッチが、嘴に乗っているということを知った上で、撃墜しようとした。
冴島は怒りに満ちていた。またしても、グレゴヴィッチという男が邪魔をする。そして、グレゴヴィッチは飛翔する。
皮肉にも鉤爪とのやり取りの中で、グレゴヴィッチは覚醒していた。体中に掛かる強い重力もものともせずに、グレゴヴィッチは空の彼方へと消えていく。
「グレゴヴィッチ。お前は何度、私の邪魔をする」
タワーの中から姿を現したあるモノは、じっと空の彼方を睨んでいた。そして、じっとりと笑った。




