第四話 必要のない戦い 後編
「なんだこのガキ」
声を枯らして眠りについた三浦を見て、真田は嘆息を吐き出す。それに同意するように吉野もまた嘆息を吐き出した。
三浦が泣き疲れて眠った時には、長身と短針が時計の天辺で寄り添うように隣り合っていた。
真田はどかりとソファに座り、吉野は真田にお茶を差し出した。
「なんでお前らまだここにいるんだ?」
ふいに真田は問いかける。
「ある人と行動を共にしていたんです」
ようやっと落ち着くと吉野から警戒の色がにじみ出る。気が付くと彼は手にボールペンを握りしめていた。殺気とは呼べないまでも、それと似たものを真田は感じ取った。
「そうか。そいつは随分と不運だったな」
真田はあっけらかんと笑う。吉野はその姿に少しだけむっとした。
吉野にとってはグレゴヴィッチという男は救世主だ。そんな彼をバカにされたような気がした。
何かを施してくれたわけではない。何かをしてくれたわけでもない。ただ、三浦という荷物を抱えた吉野の隣にいてくれた。
三浦に対して何もできない吉野の傍にいてくれた。ただ、それだけが吉野にとっての救いだった。
「おっと、バカにしてるわけじゃないぞ」
吉野の内心を明確に読み取った真田は両手をあげて降参のポーズを取った。
「このご時世だ。運がいいなんてことはない。どっちに転んでも不運だ。ましてや人のいない街に二人ボッチだろ。待っているのかいないのかは知らないが、そんな時に俺と会っちまったんだ。それこそが不運だなと思ったわけよ」
真田という不穏因子と出会ってしまったこと。電気も水も食料にも宛のない正体不明の男と出会ったのだ。
これ以上の不運などないだろう。だが、それは真田も同じだった。
「俺は真田だ。勝手にお邪魔しといてなんだが、今日だけでも食事と水を分けてもらえるとありがたい」
真田、という言葉に吉野はわずかに反応した。グレゴヴィッチが探していた男。
吉野は思考する。その小さな脳を、幼い知能をフル活用する。
いかにして、グレゴヴィッチの役に立てるのか。
いかにして、この男を捕獲できるのか。
力づくで何とかできる問題ではない、銃口を突きつけられて、ただ怯えるだけの弱い子供である。その幼さを認め、その稚拙さを認める。
そのうえで、自分に使える武器とは何か。今あるものを最大限に活用する。
誰かのために何かをするには、使えるものは何でも使う。己の弱さすらも利用する。
子供であることを利用する。
「い、いいけど。今日だけですか?」
己の脆弱さを最大限に活用する。吉野なりに現実を分析する。先ほどはテンパっていたとはいえ、縋りつく吉野を助けてくれた。
少なくとも助けを求める人間を無下にするほど冷たい人間ではないと判断する。そして、彼は今日の寝床の提供を求めている。そして、先ほどの今日だけでも、という発言。願望としては今日だけの話ではないのだろう。出来ることなら明日、明後日。そんな希望がチラついている。
あとは需要と供給の関係を満たすことが出来ればいい。
「食料もいっぱいあるし、僕たち二人だと不安ですから、出来ることなら今日だけと言わずに何日かどうですか?」
今の吉野はか弱い少年だ。他者に縋りつき、小さな不安すら拭いたい弱者である。
助けを求めている人間なのだ。弱者の叫びを、助けを請う声に耳を傾けることに吉野は賭けた。
「いや、そこまではいい。俺も急ぎの用事がある。それにそっちの嬢ちゃんは不安定だろ?俺がいることで目を覚ました時にパニックでも起こされたら困る」
不安因子は互いにある。真田にとっては食料と寝床というメリットがあり、そして、不確定要素というデメリットがある。
三浦のこと然り、ある人という謎の人物。彼がグレゴヴィッチという名を知っていようといまいと、それが必ずしもメリットを与えてくれるという保証を示すことは出来ない。それどころが、実際はグレゴヴィッチが探していた標的である。グレゴヴィッチが真田をどのようにするかまではわからないが、少なくとも真田にとってプラスの価値があるとは思えない。
「で、でも、僕たち子供だし。せめて、あの人が帰ってくるまではいてくれませんか?」
縋りつけ。プライドを捨てろ。弱さを最大の武器として研ぎ澄ませろ。ちびったっていい、泣きわめいたっていい。
この男をここに縛り付ける。情に訴えることが出来ないのであれば、この男にどれだけのメリットを与えられるか。
それを考えろ。
「あの人とは?」
思考がフリーズした。提供することだけを考えていた。命乞いにも似た思考だった。メリットを与えることばかりを考え、デメリットになる情報の隠ぺいを怠った。
どうして最初に両親と言わなかった。なぜ如何にも伏せるようにあの人などという言葉を使った。
「親とか親戚の叔父さんじゃねぇな。赤の他人、てところか?」
その通りだ。だが、首を縦に振ることは出来ない。それは不信感をあおるようなものだ。だからといって、それを拭うための言葉が出てこない。
どうする。正直に話すか。それを言ってここに残る保証はない。確率的には離れていくことの方が遥かに想定される。では、どうする。
赤の他人というところまで推測された。なんという。名前を明かすことは出来ない。だからいって黙っていることも出来ない。
どうする。
「誰だ?」
賭けに出るか。怪しまれようと自分の浅はかさはバレている。ならば、その隙に付け込もう。
「誰かは言えない」
一手だ。ここからが本当の将棋。王手をかけるまでの歩を進める。
真田もまた、その一手を読み取る。なぜ言えないのか。
口止めされているのか。それはなぜか、真田だからなのか。あるいは、見張られている。だが、先ほどのあの人を庇う様子から目の前の少年とあの人との信頼関係は厚い。
敵対しているとは思えない。見張られているという線は薄いだろう。
他人に誰かを明かすことの出来ない存在。真田と同じような組織の人間か。日本か、ロシアか、アメリカか。
「では、どこの国の人間だ」
真田もまた歩を進めた。攻撃に対し、攻撃の姿勢で迎え撃つ。
その一言に吉野もまた察知する。真田は誰かの目星を絞ろうとしている。そして、ある程度まですでに絞り込んでいる。それがどこまでかまでは吉野には計り知れない。だが、自身と敵対する可能性のあるものを特定しようとしている。
真田の素性を知らない吉野にとっては、その攻めは防御するほかにない。
「日本人」
嘘ではない。だが、真実ではない。彼の見た目は日本人であり、ロシアの工作員である。
吉野の瞳にもそれは映っていた。それ故に、真田はその言葉を信じた。
「どこに行った」
さらに歩を進める。じりじりと吉野の陣地へと攻め入る姿に、吉野は守りへと転じる。
「知らない」
真実だ。逡巡の間もない返答に真田は攻めの手を緩める。
「あなたはどこから来たんですか」
銀将を進める。攻撃は最大の防御である。ようやっと防戦一方の探り合いを終える。
真田にとって、この子供に情報を与える必要性はない。だが、素性のわからない人物を探る必要がある。
アメリカの工作員であれば同志だ。同志であれば無線を使えないという状況を脱する可能性が出てくる。
他国のスパイだとしても、それはそれで脅威だ。人気のなくなった街に少年と少女を囲い、そして、信頼関係を築いた上で、なぜ彼らを放置したのか。
それを探らなければならない。彼らに害がないにしても、自分に害がないとはいえない。その存在が無害であることを判断しなければならない。味方と連絡が取れない以上、不確定要素は減らしたい。
出来ることならば、名前、所属、そして、目的を明確にしたい。
それゆえの情報の需要と供給。吉野がすでに警戒態勢に入っていることも承知。
いかにリスクを軽減した上で、優位な情報を得られるか。
それは小さな、本来争う必要のない二人の戦いだった。
「港町だ。古い友人に会いにな」
嘘はない。元々素人の少年相手に真実と嘘が見破られるほど顔の皮は薄くない。
真田の思惑通り。吉野はその言葉を信じた。だが、それは半分だ。港町の住民とは思えない鋭い眼光。
こちらを飲み込もうとする蛇のような双眸に吉野は警戒を解かない。
「友達って?」
吉野の言葉に真田は攻めの一手を掛ける。だが、真田は吉野の攻撃を攻撃として捉えてはいない。彼らが被害者の側と考えれば、加害者とはゴーストである。それを判別するための唯一の方策。
「グレゴヴィッチ」
実態のある人間としての姿を模した傀儡。彼の体の腐敗の具合から考えた死後数週間。真田は仮定する。
もし、彼が生きた傀儡として彼らと接触し、彼らに何らかの指示を与え、この場に待機させていたとしたら、もし、そうだとしたならば、彼はどのような任を少年に課すのか。
国も人も駒として見ているゴーストにとっては、この少年が危険にさらされようが関係はない。
真田の思惑とは異なっていたが、吉野の表情に映ったわずかな動揺に気付いた。
「ロシアの人?」
ビンゴ。真田は内心でほくそ笑む。真田は見方を変える。彼らが被害者であると断定した。だが、それと同時に違和感が残る。
先ほど、あの人を日本人だと彼は告げた。だが、グレゴヴィッチはどこからどう見てもロシア人だ。腐敗が進んでいたとはいえ、その姿は日本人とは見間違えようはない。
「そうだ。古い友人だ。彼に心当たりが?」
吉野にとっても合点がいく。グレゴヴィッチは真田という男に対する情報を吉野には与えなかった。
それは吉野にとって知るべき情報でないからだと判断した。すなわち吉野が単体で知り合ったとしても、吉野に害を与える人物ではない。
グレゴヴィッチは危険になったら、ここを放置して逃げろと命じた。
それは戦争の傷跡に対するものだ。アメリカ軍が攻めてきた場合、逃げろ、と命じた。それ故に真田に対して注意しろとは明言しなかった。
吉野の警戒が緩んでいく。それが結果としてグレゴヴィッチの使命を手助けになるとは知らずに。それもまた吉野という少年の強みでもあった。
他者を信頼する。他者の言葉を信頼する。それは動物には出来ない人間故の強さと弱さ。相反する力こそが、論争という諍いを制する。
「あります。彼に助けられました」
実直であり、愚直である。その素直さこそが、真田の警戒を解くことに成功する。だが、それ故にあの人という言葉が真田には気になった。
あの人とグレゴヴィッチが一致するとは断定するには早い。
「そうなのか」
なんだ、とばかりにあっけらかんと答える。だが、真田の腹の黒さはここから本領発揮である。
完全に敵意を解き、油断した姿すら見せる。
もしも、殺しのプロがいるとしたら、殺意だけで人を殺せる生物とでも人はイメージしているだろう。だが、真田はそれとは対極の位置に立つ人間だった。
殺意の放ち方など当に忘れてしまっていた。それほどまでに殺しという行為は当たり前だった。傷つけることにも、その命を叩くことにも抵抗はなかった。
吉野がおかしな動きをしようものだったら、命を奪うまでしなくとも、指の二、三本はいただくことになっても仕方ないと思った。
それは他者を傷つけるための覚悟でも、自分を守るための覚悟でもない。
言うなれば、日常。それこそが彼が今も立っている世界だ。
「グレゴヴィッチはどこ行ったんだ?」
「知りません。何も言わなかった」
がっくりと項垂れるように吉野はため息を吐いた。その姿に嘘はないと判断する。
「徒歩か?車か?」
その両方を否定するように、吉野は首を横に振った。
「なんか変な奴」
「変な奴?」
「ヘリじゃないし、戦闘機でもないものでした」
ゆえにそれは空を飛ぶもの。
「でも、見たことない形だった」
ゆえにそれは未知の飛行物体。一般人にヘリも戦闘機も細かな点に置いて見極める術はない。それ故に、吉野が指すヘリでも戦闘機にも該当しないものは限られてくる。
「触手は生えていたか」
真田の言葉に吉野はハッとする。その表情に映るものを見た。
まぎれもない。真田はそれをタロンと判断する。
やはり敵はゴーストが扮したグレゴヴィッチ。
「いつだ?」
明確にすべきは時間。いつからグレゴヴィッチは真田を認識していたのか。最低でも二、三週間前と読んだ。
「ついさっき」
「さっき?」
その言葉が真田の仮定を否定する。その真実が、彼の中の真実をどす黒く覆っていく。
「一時間くらい前」
グレゴヴィッチと他の第三者の存在を彼は理解する。だが、その正解は不正解でもある。彼は日本人とグレゴヴィッチが同一人物を指す言葉であることを見極めることは出来なかった。
「戻ってくるのか?」
問いかけ。それは吉野に対してではなかった。己自身への問いかけ。
目の前で吉野が頷いた。彼にとってはグレゴヴィッチという友人が求めていた友人。すなわち味方の味方は味方である。
その安堵が彼の表情に浮かんでいた。そして、その安堵こそが真田の判断を誤らせた。
「わかった。じゃあ、彼が戻ってくるまで、少しだけ居座らせてもらっていいかな」
確かめなければならない。グレゴヴィッチが彼らと接触した理由を、日本人という存在を。
その好奇心と彼自身に満ちた慢心が、連絡が取れないという危機的状況が、彼の判断を鈍らせる。
自ら死地へと王を差し出すような愚直な判断は、図らずも吉野に王手を取らせた。
残されたのは彼がグレゴヴィッチという名の日本人の危険性に気付くのが先か、グレゴヴィッチがここへと舞い戻ることが先か。
時間という問題が、彼の首をじわりじわりと締め付ける。




