第一話 ブレイン・ブレイク 前編
隔離された病室の中を神崎颯太は歩き回っている。
時折、声を出したり、時折、手を伸ばしたり、時折、笑ったり、時折、泣いていた。
その時聞こえる名前は決まって、天川結衣の名前だった。
桐野柚葉は部屋と廊下を遮る窓ガラス越しにそれを見ていた。その隣には斎藤琢磨が立っている。
「神崎、どうしたんだよ」
悲痛にも映る颯太の姿を見て、斎藤はつぶやいた。
独り言にも似た問いかけに、桐野は答えなかった。ただ、その姿を見つめ、胸の前で両手を握りしめていた。
颯太には人を認識することは出来なかった。その姿はまるで認知症を発症した老人のようだった。
「天川って誰?」
桐野の問いかけも独り言のように掻き消える。二人にとっては疑問しか出てこない。
天川と共に去った颯太は突然行方知れずになり、突然真田と共に帰ってきた。
それから二日間、颯太は寝たきりとなった。幸村理恵が颯太を看病したが、幸村が二人に結果を教える代わりに、ため息が吐き出された。その吐息の重たさが二人を閉口させた。
颯太は誰を見ても天川と呼びかけた。まるで、天川以外の人間を天川以外の人間として認知することが出来ていない様子だった。
その様子を二人は窓ガラス越しに見ていることしか出来なかった。
颯太は複数の人間が来ると錯乱した。すべての人が天川に見えるらしく、そのたびに幽霊でも見たかのような顔で悲鳴を上げていた。
その都度漏れた声は謝罪だった。何に対する謝罪なのかもわからない。ただ、あまりに苦痛を伴う声だった。
桐野はその声から逃げることしか出来なかった。どこまで逃げても、その声は耳から離れなかった。そして、どれだけ逃げても足は必ずここへと帰ってきた。
その時にはいつも斎藤が隣に立っていた。
颯太と別れた日、颯太は戻ってこず、代わりに斎藤が現れた。
港町の医療キャンプで慣れない酒を飲まされて、見ず知らずのおばちゃんと朝まで話していた。
「かんらきくんはろこ!?」
隣に斎藤が座ってから五分ほど経った頃だ。ようやく斎藤の存在に気が付いた桐野は呂律の回らない口で怒鳴り声をあげ、斎藤の胸倉に掴みかかった。だが、すっかり酔いの回った桐野はその勢いのまま床に倒れ込んだ。
「落ち着けよ、嬢ちゃん。すぐ帰ってくるよ」
斎藤に支えられながら椅子に腰を落ち着けると、その隣に真田が腰を落ち着けた。
真田は煙草を吸い、桐野の手元にあった熱燗を奪い取ると気付けとばかりにぐいと飲み干した。
「かんらきくんは?」
すっかり顔を赤くしている桐野は問いかける。その問いかけに斎藤は苦笑いを浮かべ、真田はただぎこちなく笑った。
「なぁ、嬢ちゃん」
「桐野れす」
きりっとして桐野は名前を告げた。真田はため息を吐く。
「いいか、桐野。お前は知らんだろうが、戦争ってのはお前や俺が生まれる前から始まっていた。そして、その戦争を知っている俺でも、その戦争を知らないお前でもなく、神崎颯太にすべてを託されてんだ。お前みたいなガキんちょが鳴こうが喚こうが、俺が銃を突きつけようが、アイツはすべてを終わらせるまで帰ってこねぇんだ。天川と一緒に帰ってくるまで、黙って酒でも飲んで待ってろ」
真田はやれやれと言い、追加の熱燗を再びおちょこに注がずに、そのまま口をつけた。
ゆっくりと一口飲むと胸ポケットから煙草を取り出す。ケントのロングのメンソールだった。
「お前が何も知らずに泣いて喚いている内に戦争が終わるんだから、よかったとでも思ってだな」
真田の言葉にはまだ続きがあった。だが、ライターを探してジャケットのポケットに手を突っ込むと同時に桐野は真田に向けてコップの中の酒をぶちまけた。
頭からびっしょりと濡れた真田は沈黙し、斎藤はその姿に恐怖した。いつの間にか足元にいた子犬のケイが心配そうに、その様子を見守っていた。
「そんらの知ららいもん!かんらきくんに会いたい!やくしょくしたもん!ちょっとだけ、って待ってるって!あんららちじゃない!」
怒号を上げる桐野を見て、真田はため息を吐き出したかと思うと、目の前で舌をもつれさせながら怒鳴る桐野の頭をひっつかみ、力任せに突き飛ばした。幸いその方向に斎藤がいたおかげで、衝撃はすべて斎藤が受け止めることになった。
椅子もろとも倒れた桐野は状況が飲み込めず、ただぽかんと真田を見上げていた。
「斎藤、あとでその嬢ちゃん連れてこい」
そう吐き捨て真田は去っていった。そして、斎藤に手を引かれ、行く宛を失った桐野は斎藤と共にヘリコプターで、エイワックスまでやってきた。
それから三日後には颯太もエイワックスへと運ばれ、桐野は初めて天川結衣という存在を知った。
ウッドペッカーと呼ばれるキツツキの嘴のような形をした戦闘機に乗って彼女は現れた。
まるで、とても偉い人のように、誰もが彼女に敬礼をしていたが、彼女はそれを気にも止めていない様子だった。それがさも当たり前という顔をしていた。
天川は幼い少女のように見えた。誰もが振り向くような容姿にひと際目を引く長い髪、肌のきめ細かさ、その白さは人間とは思えなかった。
彼女はいつも軍服に身を包んでいた。少しサイズの大きい軍服を着こなす天川の姿はなんとも滑稽だった。それでも彼女の美しさは損なわれなかった。
気品すら感じさせる姿に桐野は思わず息を飲んだ。
天川は帰還後、自室にこもると次の出撃まで外に出てくることはなかった。
颯太がどれだけ名前を呼んでも、天川は彼の傍に近づこうとはしなかった。
颯太の身に何があったのか。
天川ならば、その答えを知っているような気がした。だが、肝心の天川は食事と出撃以外には姿を見せない。それ以上に他人を受け付けようとしない姿勢を見せていた。
親し気に声を掛けた幸村でさえも拒絶されているように見えた。すべてを拒絶しようとする姿勢はどこか人離れしているようにすら感じられる。
異様さを醸し出す姿にいつしか恐怖するようになった。彼女が望んで、颯太をあのような姿に合わせたのではないかと、それはかつての人間が人の姿をしながら、人に非ざる力を持った者へと抱いた畏怖。いつしか桐野の中では、天川と魔女という言葉が結びつくようになっていた。
「桐野、俺、行くけど」
ふと声を掛けられた。隣に立っている斎藤が心配そうに桐野の顔を覗き込んでいた。
「怖い顔してるけど、大丈夫?」
思わず自分の頬に手を当てた。頬の筋肉がこわばっていたのか。やけに頬が固くなっているような気がした。
力を抜いて笑みを浮かべると斎藤は安心したようにため息を吐き出した。
「桐野もそろそろ働かないと、先生に怒られるよ」
斎藤の指す先生とは幸村のことである。桐野はエイワックスにて初めて知ったが、幸村は旭山市立東高校に赴任してきた颯太のクラスの副担任である。
その名残から斎藤は幸村のことを先生と呼んでいる。そして、その先生は桐野の世話を焼いてくれている。今も巻き込まれただけの女子高生である桐野に仕事を与えてくれている。
時計を見ると午前九時だ。桐野はやれやれとため息を吐き出して、斎藤と別れた。
エイワックスの中は迷路のようだった。階段はいっぱいあるし、廊下は長いし、十字路は多い。階層によって行ける場所やいけない場所などもごちゃまぜになっている。
おかげで初日は本気で迷子になって散々泣く羽目になった。幸いにも法則性を掴んでしまえば、多少迷ったところで何とかなるようになった。
「俺はこれから訓練だから、桐野も頑張って」
斎藤はそう言って去っていった。
稚内の防衛線が破られ、北海道にはアメリカ兵が攻めてきた。ロシア軍と日本軍に挟まれながらもアメリカ兵は奮闘している。
内地ではまだ戦争の傷跡は北海道ほど濃いものではないらしく、向こうでは自衛隊がとうとう民間人から募集するようになり、札幌には戦争に備えて自衛隊が続々と集まるようになっていた。
それを知り、斎藤はますます訓練に励むようになった。後々はエイワックスを出て地上の部隊と合流するつもりだということも知った。
桐野に出来るのは医療班の手伝いと夕食の準備くらい。そして、幸村と共に颯太の回復の手伝いをすることだった。
幸村の手伝いに関してはほとんど役には立つことが出来ていない。それなのに、幸村は傍に置いてくれている。本当はもっと役に立つところで仕事をするべきなのだろうが、あいにく四六時中役に立てるほど、桐野は万能ではない。
無力と言われてしまえば、その程度の助力しか貸すことは出来ない。
それと知りながら、それと知っていても、何かをしていなくては気が済まなかった。
部屋にたどり着くと幸村は椅子に座って、ぼんやりと中空を見つめていた。
その手には相変わらず煙草が握られている。今もその先端に赤い光を灯している。
扉を開けた桐野に気付き、幸村はややあって笑いかけた。
「神崎くん落ち着いてた?」
桐野は黙って頷いた。それを見て幸村は安堵したようにため息を吐き出した。
「そっちの資料持ってきて」
幸村の仕事は精神分析官だった。斎藤が葬儀屋と呼んでいる組織にはある薬品が存在する。名前のない薬品は記憶を混濁させる薬だそうだ。
血液に三〇ミリ程度混入させることで、脳内へと血液が循環されるときに前頭葉に作用させることが出来る。
主に成人が対象となり、年配者であればあるほど効果は期待できる。だが、即効性が高い上に持続時間は長い。また、依存性も強く、短期間に使用頻度が多いと脳に障害が起きる。
理想とされるのは三〇代前半から四〇代後半に半年に一度程度の割合で使用することが望ましいとされている。
脳の発達途中である未成年では副作用で脳の成長が遅れたり、脳に障害が起きやすい高齢者では認知症が悪化する恐れがあるという。
颯太のように未成年で二か月という短期間で二度使用されるというのは異例だった。
前例のない事例に幸村もお手上げだった。まさか颯太に認知症と同じような症状が起きるとは思っていなかったという。
無責任だと桐野は責めたが、幸村はそうだね、と笑うだけで、相手にしてくれなかった。
実際に薬が作用するのは一週間から二週間程度とのことだ。投与してから五日目。二日経った時にまたどのように作用するか、それがまた問題だと幸村は言った。
薬が切れればある程度、元に戻るだろうと幸村は予測している。だが、本来が記憶の混濁を目的とした薬なので、颯太の記憶がどのようになるかまではわからない。完全に回復するのは望み薄だと幸村は真田が廊下で話していたのを聞いた。
運が良ければ短期記憶の消失で終わるだろう。そして、その短期記憶とは、初めて薬が投与された日まで遡ることになる。
つまり、颯太は天川の記憶を失うことになる。それを聞いて桐野はひっそりとほくそ笑んだ。だが、この二か月という時間を思い出して、自分という存在が彼との時間を過ごしたのは二か月にも満たないということを思い出し、愕然と項垂れた。
魔法使いがほうき星に乗って公園に舞い降りた夜、それまで颯太が誰を好きでいたかなど、桐野には知る由もなかった。




