第零話 目には見えぬモノ
「神崎はどうだ?」
高度四〇〇フィートの上空に浮かぶ鉄の塊。エイワックスと呼ばれる天空の城は、今は色を失くし、雲に溶け込んでいた。
収容人数五〇〇人余りの巨大な孤城である。中にはスワローズと呼ばれる戦闘機が七機収容されている。
エイワックスの役目は地球と宇宙の監視である。時には林のように沈黙し、時には火山のように敵を葬るために活動する。
真田はエイワックスの医務室の前に立っていた。
「安定はしてる。でも、記憶の混濁は予想以上ね。あの子に使うの何回目なの?」
白衣を纏っているのは幸村理恵だった。
「二回目だ」
「前はいつ使ったの?」
幸村は白衣を乱暴に脱ぎ捨て傍にあった椅子に投げつけた。
真田は一瞬考えてから顔を上げた。
「一か月くらい前だな」
ふぅん、とため息のような声を上げると幸村は神妙な顔で俯いた。
光とも影ともつかないものを見つけたような曖昧な表情を浮かべる幸村を見て、真田は彼女が口を開くのを待った。
その空気を読み取り、耐えかねた幸村は盛大にため息を吐いた。そのため息に含まれた憂いを敏感に感じ取った。
「そんなにひどいもんなのか?」
真田のその問いかけに幸村はややあって答えた。
「記憶そのものとは何かを考えてみて」
幸村は言った。
さることながら記憶とは、すなわち情報の結合体である。例えば、人が人を認識する上で脳みそというスーパーコンピュータは容姿、音声、匂いなどを主体とした五感を通した情報から、眼前の人物を記憶というライブラリーの中から、該当する人物を検索し、眼球という映写機を通して脳内に彼の人物を投影する。その投影された人物を改めて眼前の人物と重ね合わせることで、目の前の人物に識別名称と合致することで認識する。
「つまり?」
過去の情景など所謂思い出と呼ばれるものは、先の前情報基五感の情報とその時の感情などを合わせて脳内に映し出すことになる。
「だから?」
真田は煙草に火を点けた。
「それらの情報を脳が処理できていないってこと」
目の前の人物に対する容姿、音声、匂い、感触、それらすべてを神崎颯太の脳は捉えることが出来ない。
彼の脳みそはすべての情報を本来繋がりのないある少女へと勝手に結び付けていた。
学校の化学実験室のような薬品臭い病室で神崎颯太はうわごとのように繰り返す。
「天川、走ったら危ないよ。ほら、こっちにおいで」
誰もない病室で、彼は見えない彼女を追いかける。その目には何も映っていない。その手では何もつかんでいない。けれど、彼の脳みそには、はっきりと天川結衣が映っている。
魔女のような長い髪が、照れくさそうにはにかむ天川の笑顔が、その細い腕が、はっきりと映っている。
「ようやく、見つけたぞ」
現防衛長官浜田清和はにやりとほくそ笑む。彼の眼前にある大きなモニターには、黒やら赤やら青やら、温度を表す色相が並んでいる。
そのモニターが映すのは北海道の旭山市上空。通常の人間の目には何も映らない、その場所にそれは映っている。
エイワックス。
浜田清和はマイクを握りしめ通達する。
「目標に向け、前段一斉射撃。戦闘機の出撃を許可。敵機を撃墜しろ!」
その日、かつて大和と歌われた巨大な戦艦はその砲塔を空に向けた。
そこには目には映らぬモノが鎮座する。昔ながらの鉄に包まれた火薬の塊が、轟音と共に発射される。
それは真実を知らぬものが見た夢。そこに浮かぶ鉄塊を撃墜することで、戦争の火種がまた一つ消えると見た。そして、その目に勝利という二文字がチラつくはずだった。だが、彼らが見た者は目には見えぬモノ。
上空へと発射された弾頭を弾き落とし、空へと飛び立った鉄の翼へと雷を落とす。
日本人は無神教者が多い。なぜなら見えないものを信じることに怯えているからだ。
狡賢く算段を立て、その計算の答えを見出した時に初めて、それらを信じ抜くことが出来る人種である。
「神か」
彼らがそれを神として名称したとき神は存在した。だが、神はほほ笑んでなどくれなかった。
姿なき武力を行使し、彼らの敵であるはずの空に浮かぶ鉄の塊を守護している。
浜田清和の怒号と共に戦艦は砲撃する。無数に飛び立つ黒い弾丸は次々に中空で灰燼へと還る。
空へと飛び立った命は彼らの母である海へと落ちていく。
彼らは何を見ていたのか。
彼らの掲げた正義が否定される。目には見えない日本人に否定された神が、彼らの正義を、大義を、命をも地へと叩きつける。
彼らは何を見ていたのか。
グレゴヴィッチという男の声に従い、敵はアメリカであるという世界の声に従い、正義の名のもとに戦っていた。
国を憂い、国を尊ぶ彼らの心はくじかれた。たった一人の神によって、たった一人の目に見えぬモノによって、それらは否定され、それらは咀嚼された。
まるで、命を屠ることに躊躇いを覚えぬ刃が振り下ろされる。
彼女は死ぬことに恐怖していた。そして、負けることに恐怖した。
何よりも生きることに執着していた。それ故に、彼女が他者の命を考えている余裕などなかった。それが功を奏したのか、研ぎ澄まされた彼女の感覚が音もなく忍び寄っていた敵を捉えることが出来た。
そして、それ故に彼女はたくさんの命を貪ることになった。
罪の意識など、一つもなく。それは今の彼女の目には見えぬモノだった。
この日、日本は改めてアメリカを敵として認識した。




