第十三話 銀河鉄道の夜に 後編
部屋を閉め切ると夏の空気だけが部屋の中に充満していた。小さなランプの光だけが煌々と燃えている。
二人で腰を下ろし、窓から見える四角い空をぼんやりと眺めていた。
「颯太、見てて」
天川結衣は得意げにノートの白紙のページを開いた。子供が使うような学習帳だった。二センチ四方のマス目がいくつも並べてあり、その中の一つに天川はペンを走らせた。
まるで、ガラス細工でも扱うように慎重に文字を書く。制限時間を与えられているのにも関わらず、天川が醸し出す空気はゆっくりとしていた。
「出来た」
神崎颯太の目の前に差し出されたノートの最初の一行目。右上のスペースにそれは書かれていた。
恋、という字だった。
不思議と頬が熱くなるのを感じた。
どうして今、その文字を見せようと思ったのか。どうしてその文字を得意げに見せているのか。
わずかに震えた線が物語っているような気がした。
「いっぱい練習した」
どうだ、とばかりに天川は宣言した。まるで、褒めてもらうことを求めている子犬のようだった。
「じゃあ、これは?」
颯太は天川の手からペンとノートを奪うと、恋、という文字の下に愛という文字を書き足した。
まるで初めて見るという顔で天川はじっとそれを見ていた。
「なんて読むの?」
「れんあい、て読むんだ」
れんあい、と天川は唇で文字を読む。
「恋じゃないの?」
天川は恋という文字を指さした。
「れん、とも読むんだよ。音読みと訓読みっていうんだ」
ふぅん、と天川は鼻を鳴らすように声を上げると今度は、愛、という文字を指さした。
「これは?」
「あいって読むんだ」
「あい?」
どういう意味?と天川の目は尋ねていた。自然と赤い唇に目が向けられた。
「愛ってなに?」
その唇が尋ねる。
「恋と違うの?」
大きな瞳がじっと颯太を見ていた。
「うん、えっと、幸村先生のことは好き?」
こくん、と天川は首を縦に振った。
「・・・えっと」
自分の顔が熱くなっていくことに気が付いた。
俺のことは?
なんて例えを出そうとしているんだ。そんな恥ずかしいこと聞けるはずないじゃないか。しかも、勝手な思い上がりじゃないか。もし、実はそう言うのじゃないとしたらどうするんだ。そもそも、そうだったとしても愛なんて大それたものだなんて言い切る自信はどこから湧いて来たんだ。
今どきのナルシストでもこんなこと面と向かって聞くことは出来ないだろう。
「あはは、思いつかないや」
全身から汗がどっと噴き出した。乾いた笑い声をあげて天川と距離を置く。
その姿を見て天川は楽しそうに笑った。
「颯太は?」
意地悪な笑みだった。いつだったか幸村がそんな顔をしていたような気がした。
まるで、すべてお見通しだといような顔だった。その顔を見ているのも悔しくて、かといって黙りこくってしまうのは負けのような気がした。
「真田は好き?」
どうしてそこで真田なのかはわからなかったが、颯太は頷く。それに満足すると天川は足を崩した。
月明かりに映る天川は人魚姫のように見えた。人離れしたような神々しさが彼女を包み込んでいる。
「颯太は私のことは?」
誘導尋問のようだった。颯太がどう答えるか確信をもっているみたいに自信に満ちた顔だった。
ずるい、と思った。そんな期待の込められた眼差しを向けられたら、答えないわけにはいかなかった。
「好きだよ」
少しだけ声が上ずった。なんとも情けない告白だった。それなのに、天川は嬉しそうに笑い、綺麗な涙を目の端に溜めていた。
ずっと、言ってほしかった。そう言って天川は泣いた。いや、笑っていた。
どちらともつかない声だった。嗚咽交じりに声を漏らしながらも表情は柔らかい。それでいて、その声は颯太の胸を締め付けるように切なく響いていた。
「天川は、俺のこと好き?」
自然と言葉が付いて出た。
一筋の流れ星のように頬を伝って涙が落ちた。星が落ちた空には太陽が咲いている。
思わず目を細めてしまうほどまぶしい光はルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりも美しく、酔ったようにその火はゆらゆらと燃えている。
「愛なのかな」
二人きりの銀河鉄道の夜。天川は問いかけた。
「わからない」
颯太はぼうっとつぶやいた。今はそんなことはどうでもいいと思えた。
ようやっと通じ合えたのだという現実が、ここにあるというだけで十分だった。
恋だとか愛だとか、世界だとか戦争だとか、今はそんなものどうでもいいのだ。ただ、ここに天川がいて、ただここに自分がいる。
それ以上のものなどないのだ。
二人の心は震えていた。同じ心を共有するように二人は手を繋いだ。くっついた手のひらが二度と離れてしまわないように二人は指を絡め、手のひらの引力に引き寄せられるように、そっと身を寄せた。
少しだけ気恥ずかしくて、それでいて、とても居心地がよかった。
肩が触れ合い、互いの吐息がくすぐったい。そのことに笑みを浮かべ、視線が交わると、もう一度どちらともなく笑った。
それ以上の何かはなかった。ただ、互いの存在を感じられることが幸せだった。
天川はその幸福を歌に乗せた。
英語の歌だった。聞き覚えのないリズムが鼓膜をくすぐった。その心地よさに目を閉じた。
それはラブソングだった。時折、サビに当たる部分を口ずさむとき、天川はそっと颯太の横顔を盗み見た。そして、わずかに頬を赤くした。
颯太は彼女が歌う歌の意味を知らない。もう少し英語の授業をきちんと聞いておけばよかったと思った。ただ、それがわかっていたら颯太も天川と同じように顔を赤くしていたに違いないだろう。
気が付けば颯太もハミングしていた。同じリズムを刻む、時折肩がぶつかり、そのたびに心臓がぶつかり合うような音を胸の奥に聞いた。
それは恋が歌っている声だったのかもしれない。決して大きくはないけれど、力強い歌声に二人の距離は縮まっていく。
「ねぇ、颯太」
甘えるような顔で天川は颯太を見ていた。子猫が愛情を求めるような愛らしい瞳に、颯太はそっと頷くと、引き寄せられるように唇を寄せた。
少しだけ長いキスだった。これまでの思いがたくさん込められた愛情表現。それ以上に、この気持ちを表現する方法など見つからなかった。
唇に込められた思いを吸い上げるように、深く深くキスをした。
もし、叶うのなら戦争のない世界を願おうと決めた。その世界では二人は当たり前のように出会うのだ。
親の転勤で転校してきた天川が教壇の前に立っている。そして、たくさんの視線の中から颯太を見つけるのだ。
運命なんて言葉で片付けるのは癪だが、その言葉以外に二人を結びつける糸はないだろう。
か細くて、すぐに見失ってしまいそうな糸だけれど、確かにそれは二人を繋いでいるのだ。
その世界で二人は最初、不器用にだけれど、徐々に会話を増やしていく。そして、その世界で颯太から告白するのだ。
そんなイフの世界なのに、その世界でも天川は同じように綺麗な涙を溜めている気がした。そして、付き合ってくださいと差し伸べた手を天川はそっと握りしめ、小さな声で、はい、とだけ答えるのだ。
何度もデートを重ね、何度もキスを交わし、やがて、当たり前のように結婚するのだ。時には喧嘩もするだろう。きっと、その世界では天川は怒りっぽいのだ。今のように戦争を憂う必要のない世界。
その時には颯太が頭を下げよう。ケーキでも買って天川に届けて、怒ったふりをする天川にひたすら謝るのだ。そして、天川は決まって許してくれる。そして、当たり前のようにキスをするのだ。
そんな当たり前な恋をしよう、と決めた。今からでも遅くはないのだ。
この世界には戦争があって、明日にでも世界は滅びてしまうのかもしれない。ただ、天川一人にすべてを背負わせるくらいなら、共に世界の終わりを眺めよう。
銀色の朝焼けをじっと見つめ、手を握りしめ、呼吸をやめよう。
この物語のハッピーエンドはそれで彩ってしまえばいい。他の誰が何と言おうと、それが二人にとってのハッピーエンドなのだと颯太は思った。
「さっきの歌はね、ゆっきーに教えてもらったの。セリーヌディオンのザ・パワーオブラブって曲」
天川は颯太の肩に頭を乗せている。放っておくとそのまま目を閉じてしまいそうだった。
「そうなんだ。俺、英語とか全然わかないんだ。なんて歌ってたの?」
そう尋ねると天川はくすりと笑った。猫のように頭を摺り寄せ、じりじりと颯太の耳元まで登ってきた。耳たぶに唇が触れた。その唇は微かに震えているような気がした。
「私たちはともに何かを求め進んでいく。例え行ったことのない場所だって、ときどき体の震えがとまらないけど私は準備ができてる。私たちの愛の力を知りたいの」
少しだけ恥ずかしそうに、そして、少しだけ寂しそうに天川は歌った。
「波打つ颯太の鼓動の音が突然 教えてくれたよ。愛を続けられないなんて気持ちは、もうどこか吹き飛んでしまったよ。だって私はあなたのものだし、あなたは私の大切な人。あなたが私を求めるのなら私はなんだってするよ」
それは歌とは思えなかった。まるで、宣言しているような声だった。
音程の外れた声は小さな嗚咽をこぼしている。颯太の服を掴む天川の指先の震えを感じた。
この歌を最後まで聞いてはいけないような気がした。それなのに、天川から離れることも、天川を引きはがすことも出来なかった。
「私たちは求めるものがあるから前へ進む。行ったことのない場所だって、ときどき怖くなって震えてしまうけど、私は準備ができている。愛の力を今、感じてるよ」
歌が止まった。そして、首筋に冷たい鋭い物を感じた。
「だから、私は行くね」
ブスリ、とそれが突き刺さる。痛みと同時に意識が朦朧とする。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「天川、どうして」
体が傾いでいく。力を失った体を天川の手がそっと支えた。
「颯太のためなら死んでもいい。でも、私のために颯太は死なせたくない。だから、颯太には生きてほしい」
天川の姿はこんなにも近いのに、天川の声がどんどん遠のいていく。最後に聞こえたのは、さようなら、という天川の別れの言葉だった。




