第十話 シーサイド 後編
吉野圭一は地下室でとんでもないものを発見した。
散弾銃だ。長い二本の筒が引き金から伸びている。アメリカの映画なんかで見る猟銃のように見える。
おもちゃのような赤い小さな筒状の弾薬が、それが本物であることを忘れさせる。
食料はまだ十分にあった。だが、吉野はここを離れることを決意した。
誰ともかかわらない日々。人形のような三浦紗枝を守るための日々。日の光も浴びない毎日は少しずつ、吉野の頭をぎゅうぎゅうと締め付けた。
その圧迫感に耐え切れずに、外へ飛び出すことを決意した。未だに吉野の頭の中では世界は敵だらけで、味方などいないことになっている。いや、実際に味方はいない。だが、敵という具体的な存在もいなかった。
あまりにも窮屈な生活が、やがて、彼に焦燥感を与えてしまった。
食料をバッグに詰め込み、武器を手にする。三浦にもバッグを与え、それを背負わせた。
運動靴を履き、三浦にも同じく運動靴を履かせた。
日が暮れ始めると同時に二人は外へと飛び出した。
人気のない住宅街はまだ夕暮れだというのに、まるで深夜のように静まり返っている。
アスファルトを蹴る。背中の荷物ががたんごとんとうるさく鳴り響いた。
角を曲がる度に顔の端を覗かせ、敵の存在を確認する。人影で迫っている気配がするとすぐに道を変え、二人は歩いた。
三浦はその間もただ手を引かれるだけ。足を止めようとしないことだけが幸いだった。
路地裏をぐねぐねと曲がりながら進み、やがて、街の出口へとたどり着く。
人気のない公園の隅っこで荷物を下ろし一息ついた。
街灯もない公園には乗用車が一台だけ止まっている。避難所で馴染めなかった人間でもいるのだろう。
実際にそういう話はよく聞いていた。
誰もが錯乱状態のこの街では乱闘騒ぎなんかもよくあった。極力耳に入れないようにしていたが、嫌でも入ってきた。
誰かが誰かを殴り殺したなんて話もニュースではよく聞いていたが、それを噂話として聞いても、テレビの話よりもずっと信憑性が薄く感じられた。
暴行を犯した人間は追放される。アメリカだったら、おそらく処刑なんかもあったりするのだろう。
手足を縛り付け、目隠しをして、その首に向けて刃渡りの長い得物で、その首を切り落とす。そして、その光景を衆人たちが歓喜して見ている。
映画の見過ぎだな、と自虐する。
水筒からお茶を汲み、三浦の口元に運んだ。三浦はそれを少し口に含むとごくごくと喉を鳴らして、ゆっくりと飲み干した。
「おいしい?」
こくん、と三浦は一つだけ頷いた。
最近、三浦に変化があった。それは少しの変化ではあったが、大きな変化でもあった。
ほとんどの言葉に頷かないが、おいしいか、という質問にだけは三浦は返した。
その瞬間に吉野は幸福を覚えた。
自分自身でも水分補給し、深呼吸を吐き出した。また二キロも歩いていない。だというのに、体に蓄積された疲労はまるでフルマラソンにでも参加しているような気分だった。
昔、ケイドロという遊びが流行った。いわゆるかくれんぼと鬼ごっこを混ぜ合わせたようなものだ。
鬼は警察となって泥棒を捕まえる。捕まった泥棒は牢屋に入れられ、他の泥棒がエッタすると捕まっていた泥棒が解放される。
その遊びの終わりはいつも泥棒が全員捕まえられると終わりだ。それ以外の終わりなんてなかった。
もしも、この逃避行に終わりがあるのならば、同じなのだろうと思った。
泥棒の仲間がいない。警察がうろうろして捕まえに来る。捕まった先でどうなるのか想像も付かなかった。
ただ、今は逃げることだけを考えようと思った。そっと目を閉じたのも、耳を閉ざしたのも、少しだけ思考することに集中したかっただけだった。
自分の殻に逃げ籠るような真似事のせいで、少しだけ遅れてしまった。
「そこで何をしている?」
突然掛けられた声に吉野は顔を飛びあげた。そのまま打ち上げ花火のように首だけ飛んでいくかと思った。
目の前に立つ男は軍服を着ていた。肩から銃を提げ、訝し気に吉野を見ていた。その目が三浦を見て、その目が吉野のバッグを見て、そのバッグから突き出た二本の筒を見た。
「動くな!」
叫び声だった。目を見開き、肩に提げていた銃を手に持ち、その先端を吉野の眼前にさらしていた。
小さな穴の中に見える暗闇から吉野は目を放せなかった。
警察が来たのだ。
泥棒には味方がいないとこういう状況を打開する術はない。
逃避行は終ったのだと思った。
「お前は天川結衣か!」
その暗闇が不意に三浦に向けられた。三浦はびくりと震え、怯えた眼差しを吉野に向けた。
その目は助けを求めていた。初めて三浦の目に意味を持った視線を感じた。それをずっと求めていた。
そうされることを望んでいた。それなのに、吉野は目をそらした。
何をやっているのか、自分にもわからなかった。ここまで手を引いて歩いてきた。そして、守ると決めていた。
守るとはなんだ。
視線を逸らすことではない。それだけを心は叫んでいた。
「答えろ!お前が天川結衣か!」
絶叫する痛みに耐えようとするかのように目の前の男は奥歯をぎりと噛みしめた。
その問いかけを吐き出すことに痛みを伴っている。そう感じられた。
違う。その一言を吐き出すだけでも何かが変わるかもしれない。それなのに、吉野はただ俯き、男が立ち去るのを待った。
男は無線機に手を伸ばし、口を開いた。直後、ノイズが響いたかと思うと男は糸が切れたように倒れた。
男の頭部から血が流れるのを見て、ようやっと銃を撃たれたのだと理解した。
「お前が天川結衣なのか?」
気が付くと公園に止まっていた車の運転席が開いていた。そして、目の前に知らない男が立っている。
四〇代くらいの男だ。黒いスーツを着て、その手には黒光りする拳銃を握っている。
そこからこぼれる白い煙がゆらゆらと揺れている。
男は二人の返事を待たずに胸元から一枚の紙きれを取り出し、そこに映る何かと三浦を交互に見てため息を吐き出した。
「すまない。人違いだ」
男はやれやれとため息を吐き出すと拳銃をジャケットの下のホルスターにしまった。
「あ、あの」
吉野は声を震わせて尋ねる。ようやっと絞り出した声は震え、かすれている。
男は不思議そうに吉野を見た。
「天川さんを知ってるんですか」
声を吐き出すと同時に自分の呼吸が止まっていたことを思い出した。
ようやっと肺が活動を再開したことで、まるで、全力疾走でもしてきたかのような疲労が追いかけてきた。
「君たちも天川結衣を知ってるのか?」
男の足元に転がる無線機が何事かと喚いている。その声の必死さが耳障りだった。
男はため息を吐き出し、顎で車を指した。
「話を聞かせてくれるかな」
その質問に吉野は少しだけ頷き、三浦の手を引いて立ち上がった。三浦の目は吉野を見ている。
その目には軽蔑の色がまざまざと映っていることに気付いたのは黒いスーツの男だった。
車の後部座席に二人は乗り込み、それを確認すると男はエンジンを掛けた。
車はゆっくりと道路へと飛び出し、デコボコのアスファルトを滑るように走った。
「私はグレゴヴィッチ軍曹。FSBの捜査官だ。事情は話せないが、天川結衣を追って日本にきた」
グレゴヴィッチはミラー越しに吉野を見た。
吉野はじっとその目を見返した。
ケイドロという遊びがある。
吉野は男を泥棒だと思った。泥棒を助けに来た泥棒であると確信した。
これは避難訓練ではありません。我々の指示に従って、落ち着いて行動して下さい。
状況を説明いたしますのでお静かにお願いします!お静かに!現在稚内市で行われていた防衛線が後退したと情報を得ました。すでに北方の人々は南へと逃れています。
よって旭山市でも随時避難を開始します。ですが、一度に多くの人々を運ぶことは出来ませんので、随時移動を開始いたします。まずは怪我人を東の港町へ移動し、その後、怪我の状況を見て札幌とその他周辺の病院へと移送いたします。重病人を優先させていただきますのでご了承ください。ご家族やご友人と合わせて随時バスを出しますので、我々の指示に従って落ち着いて行動してください。
軽症者の方は南下しますので、そちらの移動は明後日から行います。そちらもバスにて移動します。本日は明日からの移動の準備をさせていただきます。重傷者、並びにボランティアの皆様にはご協力をお願いいたします。以上です。それでは、皆さま、荷造り等の準備を随時お願いします。
あ、三国さん。君には山村さんの移送の準備しておいてもらってもいいですか。札幌の脳神経外科で受け入れてもらえるみたいなんだ。治療には時間がかかるだろうけど、山村さんの回復も見込めるらしいんだ。ははは、私に礼を言われてもね。いやいや、泣くことはないだろう。だが、希望があるのはいいことだよね。さ、準備を始めよう。藤田さん、あなたも重傷者の移送の準備をお願いします。怪我はまだ痛みますか?それならいいけど、無理はしないでね。君のような女の子に無理をさせたら私が怒られるんだよ。看護婦の指示に従って、君も時間を見て移動の準備をしておきなさい。吉野さんの家には人を送るから心配しないで。
神崎颯太?ボーイフレンドかい?ははは、何もそんな顔を赤くして怒らんでも。申し訳ないが、私にはわからないな。他の者にも聞いておくよ。わかったら連絡はするけど、あまり期待しない方がいい。人口が減ったとは言え、まだ、他人に気を配れるほどみんなの心は癒えていないんだ。
大丈夫?そうか、君は神崎くんのことをよほど信じているんだね。わかったよ、さぁ、準備を始めよう。東へ行く準備を。
テープレコーダーの電源を入れた。
そこから吐き出された言葉はすべてロシア語だった。
幸村理恵と天川結衣はその言葉の中にわかるものを探した。
まるで、早口な歌だった。聞きなれないリズムを奏でる歪な歌に奏でられた言葉はほとんど理解できなかった。
ただ時折天川の名前が呼ばれる度に天川は肩を竦めた。
テープを聞き終えると天川はがっくりと肩を落とした。天川はロシア語が分からない。自分の名前以外の言葉などわからなかった。真田がどういうつもりで、これを手渡したのかわからなかった。
「なるほどねぇ」
項垂れる天川と違い、幸村はしたり顔でつぶやいた。なんとも意地悪な笑みを浮かべているだけだった。
そんな顔を浮かべている幸村を見るのは久しぶりだった。二人で海に来てからというもの、幸村は気難しい顔や気怠そうな表情ばかり浮かべていた。
今の幸村は随分と生き生きとした表情を浮かべている。
まるで、宝物を見つけた子供のような表情だ。その意味を求めるように天川はじっと幸村を見た。
幸村はその視線に気づき、満足そうに笑った。
「結衣ちゃぁん」
悪戯を思いついた子供のような顔だ。天川はその表情を浮かべる幸村が嫌いだった。
「お化粧の練習しておこうか」
今にも踊り出しそうな陽気な声だった。
悪戯な幸村が嫌いだ。それなのに、なぜか天川の心が少しだけときめいた。
颯太の存在が瞼の裏にチラついた。
天川は決意したように首を縦に振った。




