第十話 シーサイド 前編
冴島という名前に聞き覚えがある。だが、それが誰なのかわからない。
自分が誰なのかすらわからない。男はただ集団の中で呼吸をしている。
どうしてこんなことをしているのかわからない。まるで、大規模な避難訓練に迷い込んでしまったような気分だった。
学校だったならば、やがて古いスピーカーからしわがれた声で授業に戻れと命じるのだと思っていたのだが、どれだけ待ってもスピーカーは悲鳴すらあげない。
旭山市の中央体育館。ブルーシートが敷き詰められたその場所に男はいた。
黙っていても食事は与えられ、寝床を与えられた。
名前も住所もわからない。自分がなんなのかも男には考えることが出来なかった。
空からUFOがやってきて、街を襲ったなどと聞いても、結局、それは新しい御伽噺を聞いた程度にしか認識できなかった。
常に夢の中にいるかのようなふわふわした状態だった。ただ、一つわかっていることは、男は文字を書くのが好きだということだった。
小さな手帳を入手し、そこにたくさんの文字を敷き詰めている。その時間を至福にすら感じられた。
自分が誰かもわからないという不安も、文字を書くことで忘れることが出来た。
体育館で暮らすようになって数日。男はいつも月明かりの下で蝋燭を手元に置いて、その日の出来事を物語のように綴った。
淡白な物語だ。朝、目が覚めてからどこへ行き、何を食べ、何を見たのか。思い出したことや新たな発見も二度と忘れまいと文字にした。
右利きであること。下腹部に盲腸の痕が残っていること。イボ痔であること。
文字にしなくてもわかることまで文字にした。
男は冴島についても書き続けた。最初は彼に対する考察だったが、やがて、それは彼へのメッセージとなっていく。
冴島、あんたはどこにいる。私はあんたに会わなくちゃいけないのに、あんたの手がかりがどこにもない。
男は困惑していた。それでも、文字にしなければ気が済まなかった。
「やぁ、友よ」
少し体育館から離れた林の傍だった。ベンチをテーブルにして文字を書いているとふいに声が聞こえた。
体を震わせて驚いた。振り返った先には初老の白人男性が立っていた。
表情は穏やかで、まるで本当に友人のような顔をしている。
言葉も出せない男に白人はややあって笑いかけた。
「君の精神状態が心配でな。少し様子を見に来たのだが、どうかね?避難所での生活は」
男は答えられない。確かに精神状態は不安定だ。何しろ見たこともない男が流暢な日本語で古い友人のような顔で現れたのだ。
男の頭の中にいる唯一の名前は冴島。とても目の前の男が冴島であると認識することは出来ない。だが、男の口は自然とそれを問いかけていた。
「あんたは冴島か?」
白人は一瞬だけ目を見開くとにやりと笑った。
「私がわからないのか?なんとも嘆かわしい。ルゥカヴァディーチリ《指導者》が聞いたら、なんと言うだろうか」
「さ、冴島なのか?」
未だ信じられないという面持ちで問いかけると冴島は嘆息を吐きながら肯定した。
「お前はFSB《ロシア連邦保安庁》の諜報員だったのだぞ?私の命令で日本に潜伏し、ある任務に就いていた」
男は驚きを隠せない。意味が分からない。FSBだと言われてもそんなものは聞き覚えがない。だが、そもそも記憶が混濁しているのだ。味噌汁という響きですら新鮮味があったほどだ。それが何かわからなくても、そうだと言われてしまえばそうなのかもしれない。
「お、俺は日本人じゃないのか」
「整形して日本に潜伏しているのだ。ほら、これは君が愛用していたものだ。これで任務を遂行するのだ」
そう言って冴島が男に渡したのは黒光りする鉄の塊だった。それが何かわからない。だが、それが持ってはいけないもののような気がした。
「思い出すまで撃ち方を教えてやろう。さぁ、私についてこい」
冴島はそう言って手を伸ばした。男はそれに逆らう理由が見つからなかった。
心臓が躍動していた。何も知らない男は、その鼓動の意味を知っていた。
好奇心だけが彼を突き動かしていた。
「君の任務はドーチカのパイロットの殺害だ。写真はこれだ。大事に持っていてくれ。現在地はここから東の港町だ。アメリカのスパイが数人で護衛している。手練ればかりだが、君の顔は割れていないだろう。接近して近距離で殺害するといい。終わればロシアのヘリが君を迎えに行く。衛星で監視しているから、君は目立つところで待っていてくれればいい」
矢継ぎ早に冴島は告げた。そんなことが自分に出来るのかなどわからなかった。だが、冴島の強い語調に流され、男は自分の存在がそうであるような気がした。
「あ、あの」
力強く腕を引かれ、男は静かに問いかける。
「お、俺の名前は?」
冴島はややあって笑った。
「自分の名前も忘れたのか?グレゴヴィッチ軍曹」
喪神一郎は着物を着た男だ。顔立ちはハーフのような顔をしていて、美少年という言葉が似合う容姿を持ちながらも、どこか枯れ果てた中年のような空気も持ち合わせていた。
その隣でツンとした態度を取っている黒猫のパトリシアの方がよっぽど気品がある。
神崎颯太と桐野柚葉は喪神が運転する車の後部座席に肩を並べていた。
喪神は安全運転だった。整ったアスファルトの上も崩れたアスファルトの上でも一定の速度で走り続けた。
「な、なんかすいません。俺たちご迷惑おかけしちゃって」
沈黙に耐え切れなかった颯太が謝罪する。その声に喪神はややあって笑ってミラー越しに颯太を見た。
「いやぁ、むしろちょうどよかったよ。一人旅なんてこういうご時世がやってくるとすぐ不安になっちゃってね。ちょうど同乗者を探していたところだったから」
だから、気にしないで、という言葉と同時に助手席からパトリシアが仏頂面を覗かせた。
なんだか猫にまで元気づけられているような気がした。
「それにしてもカップルで海なんて青春してるねぇ、君たち」
ひゅーひゅーと今にも言いだしそうな顔だった。颯太は一瞬それが自分に向けられている言葉だということが理解できなかった。
「カップリャじゃないです!」
颯太が羞恥心を覚えたのは、桐野が顔を真っ赤にして叫んだ時だった。
そういう風に見られていたのか、とようやく納得すると颯太はもじもじとして口を閉ざした。
桐野はわなわなと肩を震わせている。それを見てパトリシアは満足そうににゃあと鳴いた。
「あら、まだ違ったのかい?てっきりそういう関係なのか、と」
喪神が申し訳なさそうに笑うと桐野は少しだけしょげた。ちらりと隣の颯太を見るが、颯太はもじもじしているだけで弁解しようとしない。
それがただの羞恥なのか、あるいは、颯太も同じなのか。
桐野にはわからない。天川という存在がちらついた。
「恋には障害がつきものだよ」
喪神がミラー越しに二人を見た。その目の色は澄んでいる。清らかすぎるほど透明な瞳が、二人の心に言葉を刻み込む。
「愛だとか恋だとかを僕には語ることは出来ないから、あくまでも僕の体験談なんだけどね」
喪神はそう前置きをして、言葉を紡いだ。
「心から好きだ、て想える人はね。心から自分を傷つけることが出来る人でもある。それはすごい些細なことだったりする。ただ、隣で黙っているだけで胸がズキズキすることもある。けれど、忘れないでいてほしいのは、その痛みから逃げてほしくないんだ。結果がどうであれ、その痛みは君たちを成長させてくれる。最初は気づかないんだけどね。何年も経って、何年もその痛みに頭を抱えて、また、いつか誰かと恋をしたときに、その痛みの大切さに気付くんだ」
喪神の声は淡々としていた。桐野は喪神はまだその大切さに気付いただけで、その先のものをまだ見ていないのだろうと思った。
その言葉は二人に語り掛けられているようでいて、自分自身に言い聞かせているのかもしれないと思った。
「まぁ、月並みなことでしかないのかもしれないけど。頑張ってね、柚葉ちゃん」
喪神はミラー越しに笑った。その目は桐野の痛みを見透かしているような気がした。ただ、素朴な優しさを感じ、桐野はくすりと笑みを浮かべた。
「颯太くんもね。あんまり彼女を傷つけちゃだめだよ」
喪神の指す彼女とは桐野を指していた。その言葉の返事を桐野はドキドキして待っていた。
「はい」
返された言葉は一言だけだった。真剣さの漂う言葉に桐野は頬を赤くした。だが、ちらりと横顔を覗き見て、見なければよかったと少し後悔した。
まっすぐに前だけを見ていた。その目には桐野は映っていない。
その目には過去の痛みが映っている。その痛みを与えた人が映っている。
天川という存在が再びチラついた。そして、その目はその痛みをまだ受け続けている。いや、自分自身に与え続けているのだろう。
喪神は盛大に笑った。
「よかったね、柚葉ちゃん。颯太くん責任取ってくれるって。いやぁ、少子化も解決だねぇ」
やめなさいよ、と叱責するようにパトリシアはにゃあと鳴いた。
一瞬、二人はフリーズした。思わず二人は目を合わせる。その視線が交錯するのを合図に顔が赤くなったのを互いに確認した。
「ははは、日本はまだまだ平和だねぇ」
さもおかしそうに喪神は笑った。車は二人を乗せて走り続ける。
次の街の手前でエンストするまで、喪神は二人の将来の話をした。内容はほとんど下世話な話だ。
その言葉に桐野は激怒し、颯太は何も言えずに声を失くした。
下世話な御伽噺は質の悪いジョークだった。




