第九話 始まりと終わりの叫び 後編
中国、上海南部に蘇州《数条》無錫、昆山という地域と隣接する工業都市に王・李玲は立っていた。
人気の女子アナとしての地位を確立するほどの美貌を持つ彼女はその美貌を歪めて携帯電話に向かって怒鳴っていた。
「部長、今から帰るなんて出来ませんよ。他の取材陣だって残っているのに、うちだけ逃げたりしたら勿体ないです。代わりの人間?私のネタですよ?何時間ここにいると思っているんですか?」
絶対に帰りませんから、と受話器に叩きつけると李玲は携帯を壊すかのような勢いで電源を切った。
その後カメラマンなどにも連絡は来ていたが、そこにいる誰もが李玲と同じ気持ちだった。
ジャーナリズムがどうとかいう問題ではなかった。それはある種の意地と好奇心だった。
ロシアのゲローイ・スラーヴァ社が保有する子供向け玩具の生産工場という危険性とはかけ離れた場所にロシア軍と日本軍がふんぞり返っている。
元々李玲は日本に対してもロシアに対しても良い印象は持っていない。ましてや過激的するほど攻撃的に批判している。
いつの時代においても、どこの世界においても、国と国が肩を並べれば、そういう目を持つ人間は少なくない。
それを正義か悪かを判別することもまた時代や世界を違えれば異なってくる。
現代の中国において、他国を否定し祖国を肯定することが正義だった。それ故に中立的な立場としてマイクを握る李玲がつい白熱してしまったとしても、その姿は視聴者の心を釘付けにした。
今回に際してもロシア軍と日本軍を否定する李玲のニュースを待っている視聴者は多い。李玲もまたそれを自覚しており、それゆえにこの場から離れることは出来なかった。
「な、なぁ、あれなんだ」
光を反射させるレフ版を支えていた若い男が声を上げた。その声に李玲は顔を上げ、遅れてカメラマンがカメラを空へと向けた。
まるで、獣の鉤爪のような姿をした何かが飛んでいる。
「カメラ回して!」
李玲が声を張り上げる。
「回してるよ!音声!」
カメラマンの声を合図にマイクが息を吹き返す。李玲のイヤホンにぶつんというノイズが走った。
「こちら現場の王・李玲です。状況に変化がありました。ゲローイ・スラーヴァ社上空に謎の飛行物体が出現しました!あれは昨夜中国都市部を攻撃したアメリカの戦闘機のように見えます。確認できる数は一機だけです」
的確に、かつ迅速に伝えようと舌を振り回す。
情報社会が発達した現代において、銃や剣を振り回すことだけが戦いではない。ジャーナリズムという名の下では、ペンは剣となり、舌は銃となる。
乱雑に発砲される言葉の羅列に込められた必死さが視聴者達の手を止めた。
その日、テレビを見ていた中国国民は、その手を止めた。そして、その目を見開いた。
ロシア軍が鉤爪を認知すると奇声を上げて銃を発砲する。それに倣うように日本軍が砲撃を開始する。
鉤爪は触手を伸ばし、それらを弾く。弾かれた弾丸や砲弾は軌道を変え、その場に集まっていた人々にも牙を剥いた。
ある者は弾丸が喉を貫き、ある者は爆風で手足が吹き飛ぶ。李玲を庇ったレフ版係の青年は膝から下が吹き飛んだ。
「李玲!一旦離れるぞ!」
カメラマンが吠える。その声に引っ張られるように李玲は足を振り回す。
「アメリカの攻撃です。一体どういう仕組みなのでしょうか。まるで、受け流すように砲弾や銃撃を弾いています!」
カメラが自分に向いていないとわかっていながらも李玲はマイクを手放さなかった。
鉤爪は触手を振り乱し、ロシア兵の頭を吹き飛ばし、日本兵の胴体を切り裂く。その触手は柔らかく繊細な動きをしながらも、しなやかな刃物のように鋭い線を描く。
描かれる殺戮の演武はとてもテレビ番組として放送できるものではなかった。それなのに、カメラは向けられ、そして、その映像を止める者はいなかった。
もしも、それがただの殺戮であれば誰かが慌てて放送を休止したのだろう。
スプラッター映画のような血の雨の中、それは姿を変えていく。
「なんなの、あのアレ」
鉤爪が開く。先端を二本の足のように地面に突き立てる。複数の触手が絡まり合い、一本の腕を形成する。
鉤爪の尻尾のように突き出た突起が開き、そこに現れた目玉は人間のそれと同じだった。
それは戦闘機などと形容できるものではない。まるで、それ自体が生き物のような形を作る。
人間を真似ようとした異形。
「化け物」
マイクが拾った声が、それを伝える。それは端的であり明確にそれを表現する。その言葉以外にそれを形容する言葉を誰も持たなかった。
怒号だ。いや、その声に怒りなど満ちていない。まるで、赤子が産声を上げるかのような咆哮だった。そこに孕まれた感情は歓喜だった。怒りにも似た轟き、恐怖することすら忘れるような雷鳴。
その激情が、そこにある命を震わせる。
「うてぇぇええぇぇえ!」
「目標捕捉!はっしゃぁあ!」
「次弾装填用意!弾切れを許すなぁ!」
「死にたくない死にたくないぃぃいいぃ」
「いやだぁああぁあぁ!」
「もうやめてくれぇぇえ」
その叫びは、その戦いは、負け戦だった。その抵抗はたったの数秒の刹那、命の灯を燃やした。
花火が瞬くような夏の夜。
ゲローイ・スラーヴァ社が保有する工場が崩壊する。
李玲はマイクを放さなかった。その腕が離れていく様を、倒壊していく建物を背に見ていた。
「聞こえますか。私は王・李玲」
崩れていく建物から何かが立ち上がるのを見た。
「私の声が届いていると信じています」
工場の敷地から這い出たそれは、鉤爪を生やした前足を地上に伸ばし、上体を持ち上げる。
「皆様には見えているでしょうか」
黒い歪な体は鉄の塊とは少し違う。光沢を放つ黒い獣。それは蜥蜴のような姿をしていた。
足には鉤爪がいくつもついている。そして、頭は刺々しい攻撃的なフォルムをしている。
李玲はか細くなっていく声で地面に転がる自分の腕に向かって叫んだ。眼前に現れた化け物を明確に表現しようと頭をフル回転させる。
「私は王・李玲」
口から溢れる血が彼女の舌を鈍らせる。体の一部と痛みを失った李玲はレンズの割れたカメラに笑いかける。
「現場からは以上です」




