第九話 始まりと終わりの叫び 前編
港の漁師というものはどこの人間でも大概は人情深く、どんな状況でもいろいろと世話を焼いてくれる。ましてや若い女と少女という組み合わせは同情を引くにはぴったりの組み合わせだった。多少やらしい目さえ我慢すれば気にするようなことはない。
幸村理恵は天川結衣と共に港の漁師たちの集会所にかくまってもらっていた。
自分たちがおかしな連中に追われているという曖昧な説明にも拘わらず男たちは、女を守るのが男の役目とばかりに世話を焼いてくれた。
若い男たちの集まりであれば、もっと警戒した方がいいのだろうが、ここにいる男たちは嫁一筋の偏屈じじいが多い。風当たりは温かくはないが、冷たいというほど厳しいものは感じない。
幸村は怯えた様子を装っていたおかげで、扱いはお姫様も同然だった。
缶詰を食べていると若い女がそんなもんばっか食ってちゃいけねぇと笑い、取れたての魚を与えてくれた。
幸村は久しぶりの加工されていない食事をしてご満悦だった。一方、天川は何を食べても不満そうに見えたため、幸村と違って憐みの目を向けられている。
あの日以来、天川の表情は沈んだままだった。会話は元々少ない方だが、磨きがかかったように口を開こうとしない。
食事をとってくれているだけ幾分マシだが、それでも、心配なことに代わりはなかった。
何があったのか、詳しく幸村は知らない。ただ、暗闇の中で助けを求めるように現れた少女の悲痛な表情、そして、隣にいるべきはずの神崎颯太の姿がないということは無関係ではないということは理解できた。
二人の身に何が起きたのか。
幸村は廃墟と化した市場を背に海を眺めていた。港特有の磯の香りは四方から流れ込んでくる。
最初こそむせかえるような魚のにおいも、今ではすっかり慣れてしまったのか、心地よさすら覚えていた。
漁師から借りた釣竿を海に投げ、ただ、時間が過ぎていくことを感じていた。
なにしてるんだろ。
まるで、リストラにあった会社員だ。仕事もしないで釣りに勤しんでいる。
隣に座る天川はただぼうっと水平線の向こうを見つめているだけだ。
「今日はなかなか釣れないねぇ」
正確には今日も、だ。昨日は大物が二匹連れたおかげで与えられるだけの日々とは一端離れることは出来たが、今日はどうやら食事をねだりに行く必要がありそうだ。
今のとこ釣れたのは小さな魚が二匹だけ。昼飯の分は確保できても夕飯にはひもじい思いをすることになるだろう。
幸村のぼんやりとしたつぶやきに返る言葉はない。そのぼやきは波にさらわれて泡となって消えていく。
声を失った人魚姫もこんな気持ちなのだろうとやさぐれた面持ちの幸村は空っぽになった煙草の箱を睨み付け、ため息と共にポケットに突っ込んだ。
「おーい、ねぇちゃん方」
背後から掛けられた声に幸村と天川はゆっくりと振り返った。そこにはよくしてくれる漁師の男が二人立っていた。
いつも朗らかな表情を浮かべている二人には似合わない妙に慌てた様子だった。
それを理解し、幸村はゆっくりと立ち上がり、ため息を吐き出した。
「あいつらまだいるぞ」
あいつらというのは黒のスーツの集団である。真田率いる黒のスーツの集団は二人が港に着いた翌日にはもう現れた。
漁師たちは追っている連中がなんなのか。追われている理由なども訊ねてはこないが、いい加減迷惑がっているのが伝わってきた。
尾行は巻いたが、幸村の動きに感づいた真田が追いかけてきた。そして、あろうことか街で潜伏してやり過ごす作戦にも感づかれたのか、真田は堂々と街中を歩きまわっている。そして、堂々と幸村を探しているという。
数日姿を隠せば何とかなるかと思ったが、漁師の大根役者ではうまいこといかないようだ。
情報をくれた漁師に感謝を述べ、手を振って見送った。その背中が遠ざかったのを確認すると同時にため息を吐き出した。
もう見つかるのは時間の問題だろう。だが、幸村は逃げるつもりも隠れるつもりもなかった。
颯太がいない現状で、天川を連れまわす理由はない。逃げる理由もないのだ。
いっそこのままアメリカに帰った方が煙草を吸うことも出来るし、缶詰や魚をひもじい思いをしながら食べるということもない。
アメリカに帰ったら牛肉を食べよう。ステーキにしよう。あ、でも、豚肉でもいいな。いや、肉なら何でもいいかもしれない。
「結衣ちゃんさぁ、このままアメリカに帰っちゃおうか」
どうせ答えないのはわかっていた。幸村は海面から顔を覗かせる浮きをじっと睨み付けた。
「そうしてもらえるとありがたい」
聞きなれた声に幸村はゾッとした。
振り返ることもできずに、ただじっと浮きが海の底へと沈んだのを見た。
「おい、引いてるぞ?いいのか?」
真田だった。相変わらずくたびれた顔はじっと浮きを睨んでいる。
やれやれと面倒くさそうにため息を吐き出すと、身動き一つ取らない幸村の手から釣竿をひったくった。
「おぉ、結構大物じゃねぇか」
その手ごたえに満足したようにリールを巻いていく。からからと乾いた音が幸村のすぐ隣で鳴っていた。
「神崎はどうした?」
真田の質問に天川の肩がびくりと反応した。それを肩越しに確認した真田は嘆息を吐いた。
「なんだ失恋したから海に来たのか?」
呆れたような真田の物言いに幸村がようやっと立ち上がる。
「遅かったじゃない」
震える声を強引に落ち着かせ、待っていたかのような口ぶりで幸村は告げた。
「来ないのかと思った」
じっとりと睨み付けると真田はややあって笑った。
「来てほしかったのか?来ない方がいいと思ったんだがな」
釣竿を引っ張り、海面から大きな魚が飛び出した。それを見て真田は子供のような歓声を上げると幸村の脇に置かれていたバケツの中に叩きつけた。
バケツからはみ出るほどの魚はバケツには収まらず、アスファルトの上でびちびちと勇ましく跳ねている。真田はおっかなびっくりしながら、それを抱き上げると倒れたバケツの中に押し込んだ。
「うわー、スーツが生ぐせぇや」
がっかりしながら真田は上着を脱いだ。
薄汚れたワイシャツは白とは呼べない色合いをしていた。
「傷心旅行で傷は言えたのか?天川」
真田は兄貴のような表情で天川を見ていた。天川はその視線から逃れるように俯いてしまった。
応えない様子を見て真田は再びため息を吐き出した。
「神崎と何があった?」
幸村が聞きたくとも聞けなかった質問をあっさりと投げ掛ける。幸村は真田のデリカシーのなさが初めて羨ましいと思った。
天川は俯いたまま顔を上げない。
「死んだのか」
断言するような語調に天川は顔を上げた。その目は何かを責め立てているような焦燥感に捕らわれている。
「結衣ちゃん疲れてるから。もうやめてよ」
その目を見ていることを耐えられなかったのは幸村だった。二人の間に入り、天川に背を向けた。
真田はため息を吐き出し、脱いだ上着のポケットから小さな黒い機械を取り出した。煙草の箱と同じくらいの大きさのそれにはいくつものスイッチのような突起が付いていた。
「あとで聞いとけ。魚はもらってくぞ」
そう言って機械を幸村に押し付けると真田は煙草を取り出して口に咥えた。
足元のバケツに手を伸ばす。魚はあきらめたようにぐったりとして天を仰いでいた。
「捕まえに来たんじゃないの?」
幸村の問いかけに真田はにやりと笑った。
「俺は飯を調達しにきただけだよ」
幸村には真田という男は未だによくわからない。そして、何よりもいけ好かない。
「真田」
幸村は怒鳴るような声で呼び止める。真田は煙草に火をつけて面倒くさそうに振り返った。
「煙草」
ぶっきらぼうにそれだけ告げると真田はやれやれとため息を吐き出して、煙草の箱を幸村に投げつけた。
「コンビニにでも行けよ」
やれやれと吐き捨てると真田は再び歩き出した。
「一本しかないのかよ」
幸村は煙草の箱の中に残された一本を大事そうに胸ポケットにしまいこんだ。
「取られちゃったね」
バケツごと持っていかれてしまい、気が付くとバケツが転がった時に先にそこに入っていた二匹はアスファルトに放置されたままになっている。
すっかり干からびてしまい、すでに息絶えている。
「諦めてお昼もらってこよっか」
幸村は努めて明るく振舞い、軽い足取りで漁師たちがいる建物へと歩き出した。
天川はただじっと干からびた魚の虚ろな瞳を悲しむように見つめていた。
崩れたアスファルトを踏みしめる。
階段のような段差を上る度に神崎颯太は腹の痛みに思わずうめき声を上げた。そのたびに桐野柚葉は介護するかのように颯太の体を支えた。
「ありがとう」
そのたびに颯太は小さく感謝し、そのたびに桐野の心臓は小さくときめいた。
二人だけの冒険記。そこには剣も魔法も存在しないけれど、確かな冒険があった。
小さな段差を乗り越える苦難が、二人の距離を近づけていく。
足の裏から伝わるアスファルトの熱が、ドラゴンの吐く火の熱を感じさせる。
魔王城へと向かう傷ついた勇者と魔法も知らない魔法使いの冒険記。
終着駅は海だった。その青々とした光景を目に浮かべるだけで、ずきりと胸が痛んだ。
天川という人物がそこにいる。
桐野は天川結衣の存在を知らない。彼女にとっては颯太がひたすらに求める天川の存在が、魔王よりもずっと恐ろしい存在のように感じられた。
それなのに、この冒険記を止めることは出来なかった。ガラスの破片が心臓に突き刺さるようなときめきと温かく流れる血のぬくもりのような心地よさが桐野の原動力となっていた。
「大丈夫?」
足を休めるように地べたに座り、伸ばしていた。こわばったふくらはぎを撫でる桐野に颯太は尋ねた。
「う、うん」
その視線が桐野のふくらはぎに向けられていることに気付き、桐野は身をよじって、その視線から逃れた。
桐野の頬がわずかに赤くなっていることに気付き、颯太も慌てて視線を明後日の方へと放り投げた。
「まだつきそうにないね」
傷ついた颯太の体では歩みは遅い。休憩の回数も多いため、まだ海は見えそうにない。
ようやっと一つの峠を越え、まもなく最初の街にたどり着く。海に出るまでにあと二つの峠を越え、三つの街を経由していかなければたどりつけない。
最初の峠を越えるにも一晩、路上で過ごす羽目になった。
思わぬところで好きな人と眠ることになった桐野にとって嬉しくもあり悲しくもあるハプニングだった。
寝顔を見られたことのショックのおかげで、少しだけ颯太の顔を見ることにためらいを覚えた。
もうすぐ街につく。太陽も十分上にある。今日はキャンプのベッドで眠ることが出来るだろう。
そう思えば多少の足の痛みなど桐野にとっては大したことではなかった。
「でも、街にはもうつくよ。ほら、立ち上がったら少し見えるもん」
奮い立たせるように桐野は立ち上がり、つま先立ちで向こうの景色を眺める。
わずかに見える建物の姿に安堵する。その横顔を見上げた颯太も立ち上がり肩を並べた。
「いこっか」
桐野は立ち上がった颯太に笑みを投げかけると、半歩先へと踏み出す。
今にもスキップでもするような足取りで駆け出すと颯太を誘うような目つきで歩き出すのをじっと待った。
「元気だね」
疲れたように笑いながらも颯太は負けじと歩き出す。
「うん」
どこか皮肉めいた颯太の言葉にも桐野は嬉しそうに笑った。その明るさが颯太の足に力を込めさせた。
最初は桐野が付いてきたことに困惑していたが、一晩共にして桐野がいてくれたことに感謝していた。
桐野はおしゃべりだった。おかげで水分は必要以上に消費したが、悪い気分ではなかった。
颯太の何が好きなのか、桐野は何が好きなのか。学校ではどんな風に過ごしていたのか。
そんなたわいもないことを延々と話していた。ゆっくりとした時間の煩わしさはいつしか心地よくすら感じられた。
桐野はおしゃべりだった。みんなといる時はそんな雰囲気は感じられなかったが、二人になった途端によくしゃべる。
おかげで暇を感じることもなかった。
再びたわいもないことを話しながら二人は街へとたどり着いた。旭山市同様に公園などの空き地にキャンプが張られ、大きな市民ホールや学校の体育館も避難所へと様変わりし、たくさんの人がそこここにいた。
日が傾くまで二人は歩き、出口に一番近いだろう避難所にたどり着いた。
「海に行く?あんたら、このご時世に呑気なもんだねぇ」
三国直子のような体系の看護師にそう言われた。桐野と颯太は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
「まぁ、日も暮れてきたから寝床くらいは用意出来るよ。ごはんも残り物でよければ多少は分けてあげられるけど、持たせられるほどないからね?明日の分も保証は出来ないから。軍の補給が遅れてるのよ」
看護師はやれ忙しいと言葉を残して去っていった。その逞しい背中はますます三国に似ていた。
桐野は何となくその背中に感謝した。
出口に一番近い避難所は小学校の体育館だった。そこにはびっしりとブルーシートが敷かれ、自分の領地だと主張している。
陣取り合戦に出遅れた人々は隅っこで縮こまっている。桐野と颯太が陣取った場所も入口の側で、少しだけひんやりとした風が扉の隙間から入り込んでくる。
「明日はどうしようか」
看護師から借りた薄手の毛布に桐野はくるまっている。颯太の問いかけにうつらうつらしながら顔を上げた。
「また歩くんじゃないの?」
ふぁー、と欠伸を漏らすと颯太はくすくすと笑い、羞恥心と共に頭が少しだけ覚醒した。
「自転車でもいいから手に入らないかな。そうしたら少しは楽になると思うんだよね」
自転車という言葉を聞いて、ようやっとその存在を思い出した。
「そうだね」
桐野の頭には学生服で二人乗りをする颯太と桐野の姿があった。頭を振り回して、その妄想を吹き飛ばした。
「車とかでもいいよね」
「免許なんか持ってないよ」
「でも、警察もいないよ」
桐野があっけらかんとして言うと颯太は笑い声で返した。
すでに非現実の中にいるというのに、何を考えていたのだろうと心の中で自虐した。
「そうだね」
「なによ?」
自分自身でも桐野は驚いていたが、それを見透かされることに恥ずかしさを覚え、拗ねたように口を尖らせる。
それを見て颯太はなおさら笑った。颯太の笑顔を見て、桐野も思わず笑みを浮かべていた。
「君たちが海へ行く人かい?」
ふいの声に顔を上げると二人を見下ろすように着物を着た男が立っていた。
その足元には鈴をつけた黒猫が静かにたたずんでいる。
「僕もここを離れようと思っていたところなんだ。明日、車に乗って移動するんだが、よかったら君たちもどうだい?」
男の名前は喪神一郎と言った。国内を猫と共に転々としていて、この街にもたまたま寄っただけだという。長居するつもりもなかったが、なかなか町の外へ出るきっかけを得られなかった。
そんな折に海へと向かうという二人の存在を知り、これを好機と見て外に出ることに決めたそうだ。
「この子はパトリシア。僕には懐いてくれてはいるが、あまり人には懐かないから手は出さないことをお勧めするよ」
喪神は頼りなさげに笑い、明日朝食を取り終えたら出発するよ、とだけ残して去っていった。
彼は体育館のステージの中央を陣取っていた。畳一つ分の隙間に枕と毛布があるだけで、他には何も持っていなかった。
「大丈夫かな」
映画の見過ぎと言われてしまえば終わりだが、何となく彼から漂う雰囲気にひんやりとしたものを感じた。
桐野と颯太は一抹の不安を抱えたまま静かに目を閉じ、夜の闇に溶け込むように眠りへと落ちていく。




