第七話 帰るべき場所へ 後編
しばらくの間、平穏は続いていた。崩壊した世界で、徐々に再生していく人々。
受けた傷も与えた傷もまだ、誰も癒え切ってはいない。それでも、時計の針はただただ残酷に回り続ける。それが当たり前かのように、そうすることが誰が掲げた正義よりも正しいとでもいうように。
朝日が昇り、海へ落ちていく。そして、月の満ち欠けが何度も行われた。
天川結衣は戦場にいた。
見慣れた制服を赤く染め上げ、その小さな体では不釣り合いな黒い銃をぶら下げ、灰の混ざった黒い風の中、空へとむけて発砲する。
上空から舞い降りる無数の鉤爪に向けて放たれた弾丸は、そこから伸びた触手に弾丸をはじかれる。
天川は表情一つ変えずにひたすらに射撃を繰り返した。
やがて、鉤爪は天川の目の前に立ちはだかる。
天川は銃を捨て、アーミーナイフを抜き、伸びてきた触手を切り裂く。だが、すぐに別の触手が伸びてきて、手首をつかみ、そのまま肩から引きちぎる。
天川の表情が苦悶に歪む。
悲鳴を上げるよりも早く、再び触手が天川の頭を締め上げる。
腐ったトマトを握りつぶすように、大きな目が、砕けた骨が、長く綺麗な黒髪が、赤い鮮血が飛び——
神崎颯太が目を開くと見知らぬ緑色の天井が垂れ下がっていた。それがキャンプのテントの屋根であることを認識するのに、さして時間はかからなかった。
飛び起きるように体を起こすと全身を覆うような激痛が走った。その痛みが脳みそを叩き起こす。
眠っている場合じゃない。
颯太を刺した藤田由香里、そして、銃口を向けた天川結衣の後姿。
どれだけの時間が経った。一時間か二時間か、一日か二日か。起きたばかりの颯太の頭では理解が出来ない。だが、ついさっきまでまどろみの中にいたとは思えないほどすっきりとしていた。
しっかりと休養が取れたおかげなのだろう。これほど爽やかに目覚めたのはいつ以来だろう。逃げ惑う日々だった。体力も気力も損なわれていた。
「神崎君?」
ふいの声に顔を上げると桐野柚葉がすぐそばに立っていた。
「えっと、桐野?」
声は水分を失った砂漠のように干からびていた。擦り切れた声が名前を呼ぶと桐野は目の端に涙を溜めて、少しだけ嬉しそうに笑った。
「怪我は?」
颯太の脳裏によぎったのは鉤爪の触手に囚われた桐野の姿。とっさに颯太は桐野の胸を見た。
その視線を感じ、桐野は慌てて自分を抱きしめるように胸を隠した。
「あ、ご、ごめん」
頼りなく笑う颯太の笑顔はかつて見たことのある顔だった。どこも壊れていない人の顔を見るのは久しぶりに感じた。
「なんかすごい寝てた気がする」
当然だった。颯太が眠っていたのは約二週間という時間だった。桐野がそれを教えると颯太は惚けた顔でゆっくりと頷いた。
そんな実感などない、と顔には書かれていた。
「みんな心配したんだよ」
桐野は強がって笑った。それでも、涙を抑えることは出来なかった。
こんな顔をしていたら颯太が困ると理解していながらも、それを止めることが出来ない。そして、安堵が胸に広がっていくことの快感に溺れた。
それは颯太が目覚めたというだけの安堵ではない。彼が最初に名を呼んだのは桐野だった。そして、桐野の身を案じてくれた。
それだけで、胸の内に広がる幸福は津波のように押し寄せていた。抗うことの出来ない快楽に、ただ喜びの涙を浮かべることしか出来なかった。
「心配してくれてありがとう」
呼吸をするだけで、思わずうめき声があがる。桐野が慌てて颯太の体をさすってくれた。
「無理しないで」
疲れたような顔で颯太は問いかけに答えた。
「どうしてここに?」
颯太はベッドの上で脱力した。体の力が抜けると、ますます痛みを強く感じた。
「こっちのセリフだよ。神崎くんはずっと行方不明だったし、やっと会えたと思ったら、意識不明だし、もう二週間も寝てたんだよ?」
愚痴を吐き出すような勢いで桐野は告げた。
二週間?
桐野は楽し気に様々なことを語った。途中、怒りの感情や悲しみの感情がにじみ出ていたが、それでも、颯太に向ける笑みは楽しげだった。
言葉のほとんどを颯太は聞いていなかった。
二週間という時間。頭の中で時計の針がぐるぐると回っている。
様々な記憶が入り乱れる。
「・・・山村」
「え?」
か細い颯太の声に桐野は疑問符を浮かべる。
忘れていた。
どうして忘れていた。
「山村は!?どうなった!どこにい・・・っ!」
声を荒げた。喉はひび割れたように痛み、その痛みを感じると同時に全身がしびれるような痛みが走る。
桐野がすかさず手を伸ばして支える。
「神崎くん!今は安静に」
「天川は・・・天川は・・・」
誰?
桐野はその名前を知らない。
「天川はどこに行った!」
怒声にも似た叫びだった。桐野は思わずたじろいだ。
「由香里は!?無事なのか!?」
矢継ぎ早に紡がれる質問。一つの質問に答える前に、颯太は次の質問を浴びせる。
その怒鳴り声に桐野は思わず涙を浮かべた。
その雫を目にして颯太ははっとして我に返った。。
「・・・ごめん」
「う、ううん。大丈夫。みんないるよ、だから、」
「みんな無事なのか?」
颯太の言葉に桐野は声を失った。
その意味を颯太は静かに理解する。
「・・・みんなに会いたい」
ベッドの上で身じろぎする颯太に手を貸しながら、桐野は静かにうなずいた。
車いすなどはなかった。それでも、颯太はうめき声をあげながら歩き出す。
桐野が肩を貸して、ゆっくりと、ゆっくりと歩を進めた。
時間をかけて、二人は山村達人の病床へとたどり着いた。
「ここに山村がいるんだな」
二人にしてくれ、と言葉を残した背中に手を伸ばす勇気はなかった。
ベッドの傍に立っていた三国直子が驚いたように立ち上がった。颯太の顔を見て、口を開きかけたがやめた。
「・・・そう・・・た」
背後で響いた山村の声に三国は小さな傷を負いながら、颯太に道を譲るようにテントから出ていった。
「久しぶり」
椅子に腰を下ろして久しぶりの友人を見つめた。
イガグリ頭のM字ハゲ。モテることに必死な悪友は、今、必死に颯太を見ていた。
虚ろな瞳にしっかりと颯太を捉え、涙を流していた。
「ひどいな」
腕と足を失った友人の悲痛な姿。それは颯太の内に再び恐怖を宿らせるには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
「ごめんな、山村」
颯太、颯太、颯太。山村はひたすらに颯太の存在を求めていた。恐怖すら覚えるようなその必死さを颯太は静かに受け止めた。
心すら壊れてしまったかのような友人を抱きしめ、その肩で少しだけ泣いた。
なぜ目を覚ました時に友人のことを考えてやれなかったのか。なぜいの一番に親友のことを気に掛けてやれなかったのか。
颯太は自分自身を呪った。
それが悔やまれた。ごめん、と謝っても山村の目は颯太を見ていない。それなのに、その唇は颯太を呼び続けていた。
「だ・・・ぶ・・・」
やがて、その声は違う言葉を紡ぐようになった。口元に耳を近づけてみれば、その声をようやっと聞き取れた。
「大丈夫」
傷ついた親友が、心の壊れた悪友が、恨み言の一つも吐き出さずに、その言葉を選んだ。
その言葉を選んだことを自覚しているのか。颯太にはわからない。ただ、山村は突き放すように颯太を残った腕で押しやるとベッドの上で沈黙した。
じっと睨み付けるような目を向ける親友は、最後に一言だけ、大丈夫、と囁いた。
それを最後に、山村は沈黙を結んだ。表情のない山村の顔に一瞬だけいつもの得意げな笑みがかすかに見えた気がした。
「すぐ戻るよ」
山村は魂のない表情で余裕の笑みを作ってみせた。
なぜならモテる男には余裕があるからだ。
言葉と約束を残し、颯太はテントを出た。入口の脇にはしゃがみこんで俯いている桐野とその隣にしゃがみこんだ三国がいた。
「由香里はそっちのテントにいるから、柚葉は少し疲れたみたいだから、一人で行って」
隣にいた桐野に声を掛けようとすると彼女を庇うように三国が立ちふさがった。敵意すら感じられる瞳に押されて颯太は体を引きずるようにして由香里のいるテントを目指した。
「私、最低だ」
去っていく足音を聞きながら、桐野は悲しそうに囁いた。
「そんなことないよ」
私もそうする、と三国は励ました。だが、三国直子という少女を知っているからこそ、彼女の励ましが痛かった。
三国ならそんなことはしない。きっと、真っ先に由香里の元へ案内したことだろう。そして、無理に笑って、弱い姿など見せないのだろう。
好きな人の背中がテントの中に消えていくだけで、もう二度と会えないなどと思って、立っていることも出来なくなることはないだろう。
言い訳を並べて、自分を正当化などしないだろう。
それをわかるからこそ、三国の言葉は深く刺さった。自分ばかりが傷ついていくことを仕方ないとして受け入れ、桐野は泣きじゃくった。
その泣き声は由香里のいるテントの中に入った颯太の耳には届かなかった。
ベッドの上にいる由香里は一瞬驚いたように目を開いたが、いずれ来ることを予期していたのだろう。
覚悟を決めたように、じっと颯太を睨み付けた。
颯太の中には安心と恐怖がないまぜになった感情が渦を巻いていた。
「生き返った気分はどう?」
そこにた由香里はいつもの由香里だった。
どこか意地悪な笑みを浮かべて問いかける姿には禍々しいものはない。
颯太はやれやれとため息を吐き出すように深呼吸をした。
ボロボロの体だったが、警戒を解くことはできない。少し離れた場所で、颯太は口を開いた。
「お前こそどうなんだ?」
ただ、純粋にそれが気になった。だが、それが意外な質問だったのか、由香里は目を丸くして颯太を見た。
「おじさんとおばさんのこと聞いたよ。ごめん、そういう大事な時に俺いなくって。すぐ帰りたかったけど、少し遠くにいたんだ。遅くなってごめんな」
「なんのこと?」
「・・・え」
颯太にとっては眠りにつく前の記憶だ。
泣きじゃくり、カッターの刃を振り回す由香里。その由香里が泣き叫びながら語った。
悲劇。
「お父さんは今日も仕事よ、お母さんはそこにいるじゃない」
そういって何もない場所を指さした。きしむ体を動かして、周囲を見回してみたが、人の気配もなかった。
「あ、お母さん!お父さんの洗濯物と一緒に洗わないで!」
そこに誰かがいるかのように由香里は声を張り上げた。
「・・・由香里?」
「ん?なぁに?」
何事もなかったかのように、由香里は首を傾げた。
何を見ているのかはわからなかった。
ただ、颯太は絶望した。無事だと思って、わずかに安心した。それと同時に警戒もしていた。だが、どちらも不必要だった。
それ以前に彼女の中から何もかも消えていた。
「・・・なんでもない」
それ以上の言葉は出てこなかった。
壊れていたのだ。
それを補修する技術は颯太の手の中にはない。
「また、後で来るよ」
声が上ずっていた。
由香里はにこにこしながら颯太を見送り、テントの中で母親に向けて声をかけていた。
壊れていた。
建物が、日常が、親友が、幼馴染が、すべてが。
思い浮かんだのは天川の姿だった。小銃を腕に抱え、血に濡れた少女。
彼女はどこに行ったんだろう。
ぼんやりと考えながら、颯太は小高い山を見た。
まだ空は青く太陽は真夏の炎を灯している。
遠くから平和を歌う蝉の声が響いてきた。颯太は約束の場所を目指して歩き出す。
負傷した体では歩くことにも必要以上に体力を消耗する。ましてや颯太が目指した場所は少し山の上の方だった。
獣道を痛みにうめき声を上げながら登り、ようやっとたどり着いた。
目印も何もないその場所からは街を見下ろせた。いつの間にか天辺にまで上り詰めた太陽が、生まれた町を明るく照らしている。
人の訪れるような場所ではない。それなのに、そこには確かに残されていた。
乱暴に突き立てられた看板があった。
それには文字が書き込まれていた。
今、思えばそれが最初のラブレターだったのかもしれない。
そうたへ
ひがしのうみでまっています。
その日、神崎颯太は《かんざきそうた》は旭山市を出るために歩き出した。
その日、桐野柚葉は何かを決意した少年の姿を見てこっそりと後を追いかけた。
その日、三国直子が山村達人の病室を訪れると山村は「三国」と「ありがとう」を繰り返し、三国は泣いた。
その日、藤田由香里は笑みを取り戻し、怪我が治ったらみんなを手伝いたいと母親に声を掛けた。
その日、鉤爪のような宇宙船が中国の空を覆った。
その日、グレゴヴィッチ中将の遺体はロシアへと帰還した。




