第六話 誰でもない 前編
七月の頭。旭山市が戦場であることを忘れてしまうほど、夏は大行進でやってきた。
ここが北国であることを忘れてしまうような暑さにうんざりとした。
夏と共にやってきた一騒動はようやく落ち着いた。
背中に銃弾を受けた藤田由香里は次の日には意識を取り戻して、ぼんやりとした日々を過ごしている。
薄気味悪さを放っていた由香里は、魂と共にそれをどこかに置き忘れてきたかのように、澄んだ水のような表情を浮かべていた。そして、彼女は記憶を閉ざしていた。
未だに彼女は夏の始まりを生きている。少しだけ早咲きした向日葵のような笑顔に苛立ちを覚え、一度見舞いに行ったきり、桐野柚葉は足を向けていない。
今は山村達人の病室に足しげく通っている。まだ胸に痛みは残っているが、松葉杖がなくても歩けるほど回復した。
「三浦は?」
誰かが出入りする度に山村は問いかけた。
「今日もいませんよーだ」
子供が意地悪をするような声で、三国直子は告げた。
相変わらず三国は笑っている。何も変わらない仮面をつけて、笑っている。
三国の怪我も見た目ほど深い傷ではなかった。まだ肩を上げると痛みに顔を歪めるが、日常生活に支障はなかった。だが、山村の看病となると別だった。
自らの意思で動くことの出来ない山村を動かすのは、もう一人では無理だった。
桐野には無理をさせたくないと言い張って、最初こそ抵抗を見せたが、意地を張る三国同様に意地を張って無理矢理にでも手を貸した。
未だに排泄物の処理に手を貸すのは嫌悪感が勝ってしまうが、食事やシーツの交換や着替えと言ったものには積極的に手を貸した。
今では三国を手伝うことが当たり前になっていた。そして、三浦紗枝の名前を呼ぶ山村に対する三国の笑顔の弱さが増していることに気が付いた。
それは注意深く見ていたとしても、彼女を知らない人にはわからない変化だ。もしかしたら、三国自身もそれには気付いていないのかもしれない。だから、桐野も気づいていないふりをした。
「大丈夫?」
一度だけ、こらえきれずに問いかけた。だが、そう尋ねた時にこそ三国は精一杯笑って大丈夫と返すのだった。
「そっか」
だから、見て見ぬふりを続けた。
「あんたは?」
食事の用意をしながら、さも何でもない風を装って、桐野に尋ねる。その頼もしい背中にそう聞かれるといつも泣きそうになった。
「平気」
桐野の震える声を三国も見て見ぬふりをしてくれた。
「あとは食事だけだから。行くなら行っていいよ」
そう言われて、後でまた来る、とだけ残して、桐野は山村の病室を離れた。
二人が会話している間も山村の三浦を求めるような声は聞こえていた。
「はいはい、わかったわかった。ごはんよー」
三国の面倒くさそうな声を背中に聞きながら、別のテントへとまっすぐに向かった。
目的地が近づくにつれ、柚葉の足取りはどんどん重くなっていった。
入口までたどり着くと、ぴたりと足を止めてしまった。
すぅ、はぁ。
一度深呼吸をしてからテントの中へと歩を進めた。
隣に繋がれた彼の心音を奏でる電子機器がなければ、死んでいると言われても、その言葉を疑わなかったかもしれない。
それほど静かに、彼は眠っていた。傷自体はもう体に影響を与えてはいないという。ただ、怪我をしたときの彼の精神的ショックから一時的な昏睡状態に陥っていると医者は淡々と告げた。
やがて、目を覚ますだろうと告げ、それ以来医者の姿は見ていない。
「神崎、くん」
そこに眠るのは右半身に銃弾を浴びた神崎颯太だった。
二日前に日本軍が来た。人員と設備が増加したおかげで、医療キャンプは随分と賑やかになった。
颯太の世話をする看護師もやってきた。颯太の世話をしなくて済むと思うと気が楽になった。
改めて三国をすごいと思った。やらなければならないという状況だとしても、好きな男子の排泄物を相手にする気にはなれない。
それはひどく卑怯なことのように感じられた。好きだ好きだと口で言っておきながら、汚れることはしない。
恋とは常に美しく神秘的なものであるかのように、時折指先で触れながら、そこから生まれる行動がないということは卑怯と言わざるを得ない。
今もただ、隣に腰を下ろして、颯太が目覚めることをじっと待っている。
時間を刻む時計の針が、それと共に恐怖を少しずつ刻んでいた。
颯太が意識を取り戻した時、最初に誰の名前を呼ぶのか。
想像することが出来なかった。
親友の山村か、あるいは幼馴染の由香里か。
少なくとも、桐野の名前を呼ぶという可能性はないように感じられた。
桐野は脇役であることを理解する。決してヒロインにはなれないのだ。
そんな肝心な時に、ただベッドの上で、その騒ぎを耳にしていただけだった。
桐野の知らない物語が始まっているということを理解していた。
ただ、願わくば、このままもう少しだけ起きないでいてほしいと思った。
三国のように笑顔を貼りつける自信がつくまでは、せめて、このまま隣にいさせてほしい。
それをただただ願い続けた。
「走れ!」
真田は叫んだ。
その声を合図にしたように斎藤琢磨は走り出す。
その姿は森の中に溶け込んでいく。
黒いスーツを着込み、その手には拳銃が握られている。
森の中には赤い印がつけられた木がいくつも並んでいた。
それを見て、斎藤は拳銃を向ける。パスン、と情けない音が出た。
コトン、と音を立ててオレンジ色の五ミリ程度のBB弾が木の足元に落ちた。
そのまま背後の的に銃口を向け、一発。それから、また走り、また一発、また一発と殺意を込めて引き金を引いた。
奥まで走り、ゴールフラッグを手に取り、道を引き返す。その最中も的に向けてBB弾を叩きつけた。
森を走り抜けると織田がストップウォッチのタイマーを押した。
「タイムとしては上々だな。お前、就職するなら軍に入れよ」
織田は兄貴のようなキャラだった。それでいて真田と接するときは弟のような顔をする。
きっと、人との接し方が上手なのだろう。
優しい笑みを浮かべる織田の隣に真田が立つ。ストップウォッチを見つめて、ため息を吐き出した。
「そんな亀みたいなタイムで褒めるなよ。調子に乗って死ぬぞ、コイツ」
真田は織田と違って厳しい。厳しいというよりは、ストレスを発散するように嫌味を垂れ流した。
「まだまだだ。腕立て五〇〇。やっとけ」
真田は黒のスーツの男たちのボスである。よって、彼の命令は絶対だった。
「あれでも君のことを考えてるんだよ。悪く思わないでくれ」
織田が笑いかける中、斎藤は気にも留めずに腕立てを始めた。
「おい、織田」
真田がにやりと笑った。
「お前もやっとけ」
渋々斎藤の隣で腕立てを始めた織田の横顔はわずかに怒りを孕んでいた。
真田は目の前にしゃがんで適当に数字を数え始めた。そのせいで途中何度もわからなくなった。
斎藤は真田が嫌いだった。
車に乗った夜、真田は勝者か敗者を選べと言った。斎藤は迷わず勝者を選んだ。そして、葬儀屋となった。
彼らの組織の正式名称を教えてはくれなかった。真田は気分によって、葬儀屋、宇宙人、メンインブラックだと尋ねる度にコロコロと名称を変えた。
その中で何となく葬儀屋と名乗ることをカッコいいと思い、斎藤も自身を葬儀屋と名乗ることにした。
葬儀屋のアジトは森の中の古い通信施設だった。
旭山市に住むものであれば、そこが立ち入り禁止であることを知っている。そこにはネズミくらいしかいないし、電気も通っていない。
肝試しとして、かつてはその武勇を誇っていたが、斎藤が高校生になる前には、その武勇伝も薄れつつあった。
人里離れたその場所は隠れ家にはぴったりだった。
空いている部屋に機材を持ち込み、そこで様々なやり取りをしていた。
織田がこもっている部屋には、映画でしか見たことのない防空レーダーや映画でも見たことのないような機械がてんこ盛りだった。
アジトにいる時は特別やることはない。真田の指示でひたすら銃のトレーニングと筋トレがメインだった。
無線機の使い方、ナイフの扱いなども教わった。まだ触った程度にしか教わっていないが、それでも、プロに教えてもらえたという優越感から、少しだけ強くなったような気がしていた。だが、そんな気分を否定するように真田は顔を突き合わす度に文句を言ってきた。
ナイフの振り方に変な癖がある。狙うのが遅い。肩が上がり過ぎだ。肘がおかしい。足を開け、足を閉じろ。
そんな小言ばかりだ。真田に文句を言われ、ふてくされると織田がフォローする。
そうしてやっと真田に注意されたことを直そうと実践する。
そんな繰り返しだった。うんざりすることはあっても、不思議と嫌だと思うことはなかった。
真田の指摘は適格だし、織田の言葉は優しい。さながら飴と鞭がコンビを組んでいるようだ。
また、朝から晩までひたすらに動いた後の食事は格別だった。
缶詰をひたすらむさぼる生活だったが、意外と悪くなかった。キャンプで食べた病院食のような薄味の食事に比べれば、口の中に残るくどい味の方が疲れた体にはよっぽど馴染んでいった。
「お前、意外と体力あるよな」
午前のトレーニングを終え、織田と真田は缶詰を頬張り、その背後で大の字に寝転がっていた。
織田が開いた缶詰を斎藤の頭の上に置いた。フォークを受け取り、斎藤は得意げに笑った。
「これで、も、野球部、だったん、で」
息も絶え絶えに言いながら、斎藤は体を起こして缶詰の中にフォークを滑り込ませる。
「筋肉痛背負って、そこまで動けるのは褒めてやるよ」
珍しく真田が褒めた。それを聞いていた他の葬儀屋の仲間も驚いたような顔をしていた。
「なんだよ、俺だって褒める時は褒める」
その視線に気づき、ふてくされたような顔で真田は缶詰の残りを食べきった。
よっこらせ、と立ち上がり、真田は笑った。




