第二話 水曜日のカムパネルラ 前編
記憶がない。
質の悪いジョークだと思いたかった。
雲が泳ぐ午後の授業。クラスメイトのほとんどが体を残して宇宙へと飛び立った。ましてや国語の乗松の授業だ。ゴリ松と名高い温厚なオランウータンは一通り黒板に文字を書きなぐると、自分の授業であるにも関わらず、こっくりこっくりと船を漕いでいる。
本来誰よりも激怒して、クラスメイトの宇宙旅行を阻止しなければならない立場の彼が天の川で優雅にクルージングに勤しんでいるのだ。
まともに授業を受けようなどという猛者はいなかった。
「どうしたの」
隣の席に座る藤田由香里は、珍しく難しい表情を浮かべている神崎颯太に声をかけた。
由香里は先日、失恋をした相手だ。
彼女とは幼馴染というほどではないが、長いこと傍にいる。家は近いわけではないが、ずっと同じ学区内にいて、ずっと同じ学校で同じクラス。
「運命だ」
それを告白すると山村はにやりと笑った。一週間前の放課後だ。
街中に設置された電光掲示板には戦争がはじまると質の悪いジョークが並べられている。
学生という名の兵士に唯一許された自由の時間である。休息場のとして彼らが集うのは旭山市にかろうじて存在するゲームセンター。
二人はアイスバーを片手にそこにいた。
ゲームもそこそこに喫煙所で煙草を吸うわけでもなく、だべっていた。
「で、どうすんのよ」
それは人生初の恋愛相談だった。それが山村というM字ハゲの同級生にすることになるとは思っていなかった。
イガグリ頭の山村は女にモテるための本をごっそりと集めていた。クラスメイトがビデオ屋でエロビデオを探す中、彼は現実の女を求めていた。
恋愛よりも遊ぶことに夢中な彼らは、恋愛には疎かった。
クラスの中で一番恋愛に縁遠く、それでいて誰よりもそこに到達することを目標としていた山村に相談するのは、ある意味で正解であり、ある意味で失敗だった。
イガグリ頭も由香里のことを随分と前から知っていた。
「絶対あいつもお前のこと好きだって」
なんの保証もない言葉に勇気づけられ、行動に至った。だが、青春という名の情動に背中を押され、駆け付けた先で見た現実は残酷だった。
地球は青かった。だが、そこに神はいなかったのだ。
由香里の家に見知らぬ男がいた。そいつは由香里の腰に手を回し、二人はきゃっきゃっと笑っていた。
それは友人同士のスキンシップにしては過激的で、恋人同士のスキンシップにしては妥当過ぎた。
思いは言葉にしない内に、流れ星は地球に到達する前に燃え尽きたのだ。
「別に」
颯太は過去から教室に帰ってきた。目の前の由香里は颯太が失恋したことなど知りもしない。
その無垢な顔を直視することは出来なかった。
ふいに視線をそらすと空に銀色の船がいくつも飛んでいた。
それは日本が作ったとされる巡回船。敵からの空爆を阻止するために作られた銀翼の守護者。
今日も旭山市を見下ろしている。
「居眠りしないなんて珍しいじゃん」
尚も食ってかかる由香里は物珍し気に颯太の顔を覗き込んだ。
いつもならゴリ松の授業は居眠りに最適の時間だ。ゴリ松自身も己の授業のつまらなさを知っている。本人も眠っているのだ。
堂々と眠っても怒られない。いっそ布団でも用意してやろうかとすら思うこともあったくらいだ。
授業に布団を持ち込むと企むほどの男が起きているのだ。由香里にしてみれば、これ以上の珍事件はない。
「俺だってたまには目を開けてるんだよ」
ぶっきらぼうに言葉を突き返すと颯太は机に突っ伏した。
結局寝るんじゃん、と由香里の声が聞こえた。だが、居眠りをする気にはなれなかった。
静かな教室の中で目を閉じると、まるで宇宙空間に放り投げられたようだ。
真っ暗闇で耳を澄ませると遠くで蝉の声が聞こえていた。
戦争は始まった。
質の悪いジョークだとみんなが笑い飛ばしていた。だが、ニュースでは今まで原稿を読み上げていただけの政治家が唾を飛ばして熱弁する。
今こそ立ち上がる時だ。
座ったまま声を荒げる政治家はジョークだった。
アメリカが核を放った。それはロシアの山を吹き飛ばした。七〇〇万人が犠牲になった。
日本はアメリカではなく、ロシアの味方になることを宣言した。そこに今まで散々日本を毛嫌いしていた中国が日本と肩を並べてアメリカと対峙することを表明する。
平和を歌う日本が、核という巨大な兵器を前にして、平和のために立ち上がったのだ。だが、それはアメリカからすれば気に食わないだろう。
今まで散々アメリカから甘い汁を吸わせてもらっていたのだ。
日本を守る銀翼船も、元々はアメリカから譲りうけたものだ。それが今はアメリカ人に牙を剥いている。
幸い日本人に過激な人間はいない。日本に住むアメリカ人は今まで通り日本で暮らしている。
デーブスペクターなんかも戦争が怖いなどと言いながら、平然とテレビに出ている。
戦争が始まった。
ニュースは大々的に伝えたが、どこかの町が火の海に包まれたという話もなかった。
世界は今日も平和だった。だが、颯太の胸をざわつかせるのは、そんな世間のニュースなどではない。
失恋した夜、公園に向かった。
自転車のペダルを踏んづけて向かった先で、ほうき星をぶいぶい言わせる魔女に出会った。そして、魔女を守護する黒猫たちにつかまり、気が付くと別の公園にいた。
そこまではいい。よくあるテレビドラマにも似たようなシチュエーションだ。
記憶がないことも覚悟していた。問題はその期間だった。
神は七日間で世界を作ったという。だが、颯太は七日間の記憶はなかった。
その間のことを山村に確認すると、七日という期間、颯太は普通に学校に来ていたそうだ。
月曜日には昨夜のテレビの話もした。火曜日にはマックに行った。水曜日にはカラオケ、木曜日には男子会と称して麻雀大会。金曜日には家で山村と電話をしていた。
土曜日には由香里と遊びに出掛け、日曜日には腹を下して一日中トイレから出てこなかったそうだ。
記憶は今日の一二時から動き出していた。
颯太の記憶では、公園から公園へとタイムリープしたことになる。だが、それよりも大きな驚きは教室の中にいた。
このクラスは三六人。縦横六人ずつ並んでいた机と椅子。そこに一組だけ机と椅子が追加されていた。
顔を上げる。
そこには魔女が熱心な表情を浮かべては、時折、船を漕いでいる。
相当な眠気と戦っているのだろう。ペンはノートを駆けたかと思うとぴたりと止まる。
それの繰り返しを、颯太はじっと睨み付けた。
転校生は水曜日に現れた。
今年の女子ははずれだと言われた入学式。その歴史を覆す大事件だ。
片言の日本語を話す美少女は、天川結衣と名乗った。
その時の颯太は身を乗り出して彼女を凝視し、あまりに興奮するものだから、由香里にケツをひっぱたかれたそうだ。
その時の颯太は彼女と初対面だったらしい。らしい、というのも由香里と山村から聞いたこと。
なぜそんな話になったかというと、彼女が転校してきた初日だった。
天川は颯太の目の前に立って、ある言葉を言った。
「ブランコ、ありがとう」
言葉を覚えたての赤子のような拙い言葉だった。だが、その時の颯太はその言葉を理解できず、ただ美少女に声を掛けられたことに鼻の下を伸ばしていたそうだ。
その顔を見て天川はただ悲しそうにうつむいてしまった。
それ以降、彼女が颯太に話しかけてくることはなかった。木曜日に颯太から声をかけたが、すっぱりと無視された。
短期間で二度も失恋したと山村にぼやいていたらしい。
蝉が泣く。




