第三話 錯乱 前編
三浦紗枝が眠りにつくと、それはやってくる。翼も生えない歪な鉤爪が視界を覆い、自分の体を引き裂く。早く覚めろと命令しても、どこかで山村達人の悲鳴が轟き、三浦の体を夢の中に閉じ込めていた。
目が覚めると三国直子に肩を揺すられていた。朝は涙から始まった。
粗末なベッドの上で寝心地の悪さを感じる。三国もまた、嫌な夢にうなされていた。
手足のない山村の姿は目を閉じていようとも、開いていようともそこにまざまざとあった。
三浦は毎日、山村の隣に座っていた。その姿に恐怖しているのに、その姿から逃げようとはしなかった。
三国は背を向けた。体も心も壊れていないことを自負していた。出来ることはしようと思った。
黒いスーツの集団に助けられ、怪我一つしていない。看護の知識も何一つないが、ロシア軍の医療チームでは人手が足りないということで、甲斐甲斐しく怪我人の世話をしていた。
もともと世話好きな性格だ。重傷者の相手は出来ないが、軽症者の相手などは出来る。
目まぐるしいほど忙しい日々が三国の救いだった。
藤田由香里も斎藤琢磨も吉野圭一も彼女の働きぶりに敬意を表した。
高校一年生でありながら、よく働くね、と見知らぬおばあちゃんにも褒められた。
一日を忙しく過ごし、夜には山村のベッドへ向かう。相変わらず光を映さない瞳が、夜の闇の中で白く濁っていた。
三国は今日会った人々や出来事を山村に報告するのが日課だった。
夜になると三浦の姿もそこにはない。二人だけのしんしんと時間が針を刻む心地よさを知っていた。
山村は虚ろな瞳で三国の姿を追いかけた。ただ、動いているものにつられて瞳が動いているだけなのかもしれないが、それでも、彼の視線は落ち着いた。
友達としてしか見られていなかったことは知っている。時々拒絶する色にも気づいていた。
色のない山村の瞳は、それを忘れさせてくれる。
二人きりの空間と二人きりの時間は、柔らかく過ぎていく。
「薬も血も足りないんだ」
残された時間の少なさを医師は突きつけた。傷病者は日に日に増えていく。そして、彼らが用意した医療品は次第に数を減らしていく。
山村は斬り捨てられようとしていた。初めは医師が付きっ切りと言ってもいいような状態で、彼は守られていたが、忙しくなるにつれ、医師たちの目は彼を邪魔ものか何かのように冷たい視線を送るようになった。
今では時間を見て、糞尿の始末をしているのは三国だった。そのシーツを変えるのも三国の仕事であり、点滴を変えるのも食事を与えるのも三国の仕事だ。
看護というよりは介護と呼んでも差し障りはないだろう。その合間を見て他の人の面倒まで見る。
そうすることで自分の価値が、山村の価値にもつながるような気がしていた。
あれ以来、空には何も飛んでいない。ついこの前まで飛んでいた魚のような銀色の巡視船も、ぱったりと姿を見ることはなくなった。
戦争が終わったのかもわからない。また彼らは空を覆うのかと恐怖する毎日は続いていた。
由香里は三国を尊敬していた。
とてもじゃないが、由香里はそんな気分にはなれなかった。
彼らは一度、家に帰った。斎藤は両親と再会し、今は崩れかけた自宅で過ごしている。時折、散歩か何かのように由香里たちがいるキャンプにやってくる。
吉野は姉が死んだらしい。母親は行方不明で、父は元々、単身赴任で旭山市を離れていて、今は連絡が取れない。その連絡が来ることを由香里と共に軍のキャンプで、時間を持て余すように待っている。
由香里の両親は行方不明となっていた。毎日、決まった時間に死体の置かれた場所へ行き、横たわった人々の中から両親を探す毎日を過ごしていた。
それは苦痛だった。
見知らぬ人の死体を観察させられる地獄は終わりがないようにすら思える。
気が付くと早く見つかってくれとすら思う自分がいることに嫌気が差した。
この中に両親がいないことを望むことに疲れてしまった。いっそ死体が出てきてくれれば、泣き崩れ、そして、心の中で地獄が終わったことに感謝するのだろう、と思った。
神崎颯太の姿も死体の山の中にない。
いつからか颯太の安否すらも、どうでもよくなりつつあった。
もう見つからなくてもいいから、放っておいてほしいなどと思った。
最初はそんな自分に嫌悪すら覚えたが、今となっては、そんな感覚もマヒしていた。
それでも、死体の山に足を向けるのは、由香里にのこされた義務感だった。
「今日も行くの?」
そんな由香里を気にかけてくれたのは桐野柚葉だった。
彼女は両親の無事を確認され、両親は学校の体育館で集団生活を満喫している。時折、動けない桐野の様子を見に現れる。
家族が無事だったことに安堵する桐野家の顔は、家族を失った人々にとって、羨望と嫉妬の対象だった。
由香里も桐野に対して後者の目を向けていた。
「いくよ、あなたと違って、私のお父さんとお母さん、まだ見つかってないから」
なんて性格の悪いことを言うのだろう。そんな言葉を平然と紡いでしまう口が許せない。
「ごめん、でも、たまには体を休めたら?」
桐野は心から由香里を気遣ってくれた。その常識的な良心の押しつけが余計に由香里の胸を苦しめる。
言いようのない悪意の目を一度だけ向けて、由香里はキャンプを後にする。外に出ると由香里と同じような表情を浮かべた人々が、軍が用意したバスの中に乗り込んでいくのが見える。
見つかることを望んでいない。そこにいる人々の顔には、そう書かれていた。
桐野は毎朝、由香里に声を掛けていた。傍目に見ても日に日にやつれている由香里の横顔は、見ている者の胸を締め付けた。
「人の心配より、自分の心配」
そう言って三国はベッドの周りのカーテンを閉め、桐野の上着を脱がした。肋骨に損傷を受けた桐野では一人で着替えることも包帯を取り換えることも出来ない。その世話を焼くのは三国の仕事だ。
桐野が痛みに悶えながら衣服を脱ぎ、三国に包帯をはがされる。
「あんたの場合、体を治すことを優先しなきゃ。人手足りないんだから」
三国はすっかり看護師だ。未だに包帯の巻き方は下手くそだが、徐々に板についてきた。時々包帯の緩さに顔をしかめることはあるが、その頻度も随分と減った。食用が十分に供給されていないせいか、三国の体は随分と痩せてきた。それでも、まだ桐野よりも随分と逞しいが。
「山村君はどう?」
背中向けて、と言われて言われるがままに三国に背中を向ける。
「あんまり変わんない。でも、食欲はあるみたい」
口の中に食べ物を突っ込むとゆっくりと咀嚼する。時折、口からこぼれるのも最近は可愛いとすら思えるようになってきたらしい。
「直子はすごいねぇ」
最初こそ憔悴していたが、三国は日が経つにつれて元気になっている。こういう人間が将来肝っ玉母さんなどと呼ばれるのだろうと桐野は思った。
「なんもだよ。でも、看護師の才能はあるって言われたよ」
少しだけ嬉しそうな三国の声に桐野は元気を分けてもらえたような気がする。
それでも、三国が無理をして明るく振舞っていることはわかっていた。それは友人だからこそ見える些細な違いだった。
「直子もたまには休んでよ。直子に倒れられたら、私の包帯は誰が変えるのよ」
そう毒づいてやると三国はスパンと小気味よく桐野の後頭部を叩いた。その衝撃は肋骨に響き、桐野は踏みつぶされる蛙のような声を上げた。
「あんたが先に元気になること。そっからだよ。ほら、私は他の人も見てくるから、あんたは安静にしててね」
はーい、と返事をすると三国はやれやれとため息を吐いて去っていった。
桐野がいた病室を出ると斎藤と吉野が肩を並べているところを発見した。
元々クラスではこの二人はワンセットだ。存在感の濃い斎藤ことアラブとメガネと名高い吉野のコンビが一緒にいるところを目撃することは珍しくない。
さして気にすることもなく三国は二人に対して挨拶もそこそこに去っていった。
「これからどうなるんだろ」
斎藤がぼんやりとつぶやいた。それはまるで、志望校の見つからない受験生のような情けないつぶやきだった。
「そのうち、日本軍の施設にでも移送されるんじゃないか?」
現状、旭山市に訪れるのはロシアの軍人ばかりだ。ボランティアか何かのようにいろいろと世話を焼いてくれているが、それもそろそろ限界が近づいてきている。
吉野はそれを知っていた。
「俺、聞いたんだ」
ロシア軍がここのキャンプを放棄するという。
「まじか。どうすんだよ!ただでさえ薬が足りないんだろ?山村も、桐野ちゃんだってまだ動けないんだし!?」
斎藤が小さな声で怒鳴る。吉野は周囲に誰もいないことを確認して、斎藤の耳に口元を寄せた。
「検査の噂は知ってるだろ?」
旭山市の人間は健康診断と称して、見たこともない機械を体中に当てられる。そこで異常が発見された人間はロシア軍に連れていかれるという話がある。
未だ生存者全員の検査は終わっていない。今日はこのキャンプの人間たちが検査の対象となる日だ。
「SFの見過ぎっていうかもしれないけどさ」
吉野はそう前置きしてから、ゆっくりと言葉を繋いだ。
ハリウッドのUFOものの映画などでは宇宙人と接触した人間は放射能を測る機械のようなもので検査され、異常が出ると軍の施設でモルモットのように扱われる。
「冗談だろ?それは映画の見過ぎだ」
吉野はその言葉に頷きつつも、その目はジョークを言うような目ではない。
わずかにひび割れたメガネはじっと斎藤の目を睨んだ。
真剣な目に気圧され、斎藤は思考を巡らせる。
「で、でも、異常が出なかったら、そんなことないんだろ?」
吉野は嘆息を吐き出す。何もわかっていないな、と吉野のメガネは物語る。
「俺とお前と三国と三浦ちゃんと藤田はともかく。桐野ちゃんと山村はあいつらに接触したんだぞ」
「あ」
そうだ。それこそ直に触られているのだ。
「その後に俺たちも間接的には触れているんだ。ちょっとでも引っかかったら」
「映画の見過ぎだって!」
吉野の言葉を遮るように斎藤は吠える。斎藤の主張はもっともだ。そんなものは映画の世界の話だ。
「でも、お前も見ただろ?あんなもん、ハリウッド映画でしか見たことないだろ?」
鉤爪のようなUFO。それは毎年の夏の風物詩。鼻で笑い飛ばしていた御伽噺だ。
「で、でも」
斎藤は濃い顔により一層濃い影を落とした。
「わかった!映画だと思って考えろ。ここで行動しない登場人物はどうなる?」
映画を現実に当てはめるという発想から、現実を映画に当てはめるという発想へと転換する。
もし、これが映画であったなら、斎藤はエキストラもいいところだ。他の仲間に置いていかれて、斎藤は宇宙服みたいな防菌服に身を包んだ男たちに腕を掴まれてフェードアウトする。
身震いした。
「じゃ、じゃあ、どうするんだよ」
「逃げるんだ」
狼狽する斎藤に、吉野は宣言した。
吉野は頭がいい方ではない。行動力がある人間でもない。そんな突拍子もないことを言い出すような奴ではないことも斎藤は知っている。
ここ最近の吉野はおかしいくらい静かだった。元々静かな人間だということは認識していたが、それにしても静かだった。
「逃げたって山村と桐野ちゃんは?俺たちじゃ二人の面倒なんて見れないよ」
ただの高校生なのだ。どれだけ大事な友人であろうと、その命をつなぎとめる技術も知識もなければ、この逃避行は自分たちの手で友人を処刑するようなものだ。
吉野は言い淀んだ。次に放たれた吉野の言葉に斎藤は戦慄した。
「あの二人は置いていこう」




