第二話 夏の大三角 前編
友人の身を案じるのはいけないことなのか。家族の無事を確認したいと思うことはいけないことなのか。
神崎颯太は生まれて初めて、女子に怒鳴り声を上げた。
天川結衣は普段から無口だ。颯太が怒鳴ろうがわめき散らそうが、それは変わらなかった。
危ないから行ってはダメだ、と天川は言った。
そんなこと知った事か。
口論にもならない口喧嘩の末、颯太は天川に背を向けて歩き出した。
天川はそれでも何も言わなかった。置いていかれることに恐怖しながら、近づくことも出来ず、かろうじて姿が見える程度の距離を保ちながら、天川は颯太の後を追いかけた。
捨てられた子犬がぬくもりを求めるような天川の視線を感じていたが、振り返ることは出来なかった。
時計の針が時間を刻むのに合わせて罪悪感がこみ上げてきた。
滅多に怒ることはなかった。そういう世界に生きてきた。
それが今になって感情を露わにして怒り狂うような真似をしても、しょせん物まねに過ぎなかった。
炎のように燃え滾っても、それは世界を燃やすことは出来ない。残されたのは火傷を負った心だった。
足が痛み、腕が痛む。
すぐにでも休憩をしてたかったが、足を止めれば天川が隣に来るような気がした。
とてもじゃないが、謝る気にはなれない。かといって、また怒るような気分でもなかった。
天川が言っていることはもっともだ。建物は崩壊し、けが人があふれている。そして、もう鉤爪が降ってこないという保証もない。だからと言って足を止めることは出来なかった。
徐々に颯太の歩みは鈍くなり、天川の存在がより近くに感じられた。振り返らずとも、時折遠慮がちに聞こえる天川のため息が耳障りに響いた。
太陽が天辺にたどり着いても、颯太は街にはたどり着けなかった。
足を引きずるように前進する姿は、敗残兵のようだ。祖国に帰るためにスクラップとなりつつある体を引きずる。
いっそ戦死してしまえば楽だったのかもしれないとすら思った。
ようやっとアスファルトの切れ目にたどり着いたのは、西に沈もうとする太陽が心配するように、颯太の顔を覗き込んだ時だった。
当たり前のように続いていたアスファルトが、まるで引きはがされたように途切れている。
そこから一歩踏み入れた先が、かつての故郷だった。
そこに建物があったという事実は、まるで、数百年も前のことのようだ。
荒廃という言葉の本当の意味を初めて知った気がした。
映画とは違う。まるで、街をすりつぶしたような悲劇の舞台に颯太は唖然とした。
離れて見た時とは違う。生々しい死のにおいが鼻孔をくすぐった。
焦げ臭い街のにおいの中には、嗅いだことのないような異臭が紛れている。
疲労した颯太の体は、それを吸い込むと同時に、それを吐き出すことを要求した。
颯太はその場にひざまずいて、思わず嘔吐した。それを見て、天川が慌てて駆け寄り颯太の背中を撫でてくれた。
このときになって、ようやく天川がすぐ背後に立っていたことを知った。
いまさら言葉を交わすことも、目を合わせることも出来ず、颯太は腕を振るって拒絶した。
わずかに視界に映った天川の悲しそうな顔が瞼の裏にくっついた。
「颯太」
再び歩き出すと背後で蚊の鳴くような声が聞こえた。さすがに良心が痛み、思わず颯太は振り返った。そして、後悔した。
こういう時に女の子はずるいなと思った。
天川は泣いていた。顔に残る涙の筋、赤く腫れた目を見ると、颯太が気づいていなかっただけで、ずっと泣きながらついてきていたのかもしれない。
そんなことに気付かされると、いつまでも意地を張っていることも出来なくなってしまった。
「ごめん」
天川の声にも負けるようなか細い声しか出なかった。天川はただ首を横に振り、何も言葉を返さなかった。
二人は立ち止まったまま、動けなかった。天川に歩き出そうと声を掛ける勇気も動く元気も体力もなかった。
空っぽだった。
ぐ~、と胃袋まで空であることを体が教えてくれたのは、天川だった。
嗚咽を漏らしながら、天川は恥ずかしそうに言った。
「おなかすいた」
少し歩くとコンビニがあった。窓ガラスは砕け、中も荒らされているようだった。
映画とかでもこういった場所はすぐに荒らされる。これはこの状況に追い込まれた人の狂気が起こした事件なのか、映画から知りえた知識が起こした産物なのかは、よくわからない。
カップラーメンはない。弁当もない。飲み物もほとんど残っていない。
すぐに食べられそうなものはほとんどなかった。
その中で天川はまっすぐにトイレへと向かい、蛇口から水を飲んでいた。
出来ればそんなところで、水分補給はしたくなかったが、こういう状況となっては、文句を言っている場合でもないのかもしれない。
食べ物のコーナーは悲惨だ。唯一口に入れられるものは菓子類くらいのものだ。
「お菓子しかないや」
残念そうに颯太がつぶやく中、天川は冷凍食品のコーナーを睨んでいた。
停電した日から二日も経過している。そんなもの食べられたものではない。
「これで我慢しよう」
放っておいたら、今にも冷凍食品にかぶりつきそうな顔をしていた天川の手を引っ張って、奥の事務所へと向かった。
雑誌などが散らかったテーブルと少し狭いソファが置いてある。
颯太はテーブルの上の雑誌を床に落とし、代わりにお菓子を並べた。
颯太がソファに腰を下ろすと、天川も恐る恐る腰を下ろした。
ポテトチップスを開き、一つつまんだ。それに倣うように天川も手を伸ばした。
「さっきはごめん」
パリパリと頭蓋骨にポテトチップスが反響する。
「言いすぎた」
天川は言葉を紡がない。ただ、一枚、また一枚、とポテトチップスを頬張った。
怒ってるのかな。
颯太は天川の顔が見れなかった。ばりばりと隣で音がする。
「食べすぎだろ」
袋の中から手のひらいっぱいにポテトチップスを握っていたのを見て、そう笑うとぴたりと天川の手が止まった。
思わず天川の顔を見た。
ボロボロとまた泣いていた。ほっぺたをいっぱいに膨らませて、まだ口の中を必死にもぐもぐ言わせている。
笑っちゃいけないんだと思うと、余計に笑えた。こらえきれずに吹き出すと、颯太の口からポテトチップスの欠片が飛び出し、タイミング悪く颯太に顔向けた天川の鼻に一粒飛び乗った。
バカみたいに笑った。天川はきょとんとしながら、口の中のものを飲み込んだ。
「ご、ごめん」
笑って言葉がうまく出てこない。颯太は不器用に謝りながら、天川の鼻の頭に手を伸ばした。
小さな欠片を取ろうと指を伸ばすと、天川はその指先を手で包み込んだ。
どくん、と指先で心臓が鳴った気がした。
止められなかったはずの笑いが、凍り付く。天川はじっと颯太の顔を見ていた。
まつ毛が長い。大きな目。小さな唇。
二人をはやし立てるような沈黙が、心臓をより一層早くした。
顔が熱を持つ。頭の中に熱湯でも流し込まれたみたいだ。
何を言えばいいのか。ここからどうしたらいいのか。よくわからない。ただ、何となく顔を近づけていた。
もっと傍に感じたいと思ってしまったのは、何かとても悪いことをするようなスリルに似 ていた。
互いの吐息が肌に触れた瞬間、天川が手を放した。その時になって、自分が何をしようとしていたのかを理解し、慌てて正面へと向き直った。
天川の視線を頬に感じたが、どうすることも出来なかった。
外は暗くなっていた。窓から差す暗闇が、徐々に色を深めていく。
互いの輪郭がぼんやりとしか見えなくなっていく。
暗闇に紛れても仄かな恋心が揺れ動いていた。この暗闇の中であれば、その姿を捉えられないと思ったのだろう。
手探りで天川の手を探した。指先が触れると天川の体が震えるのが分かった。
でも、それ以上は思いつかなかった。ただただ心臓の音を聞いていた。心地よくすら感じられる躍動に、身を任せていた。
どれだけの時間、そうしていたのかはわからない。気が付くと天川の手は颯太の手に両手とも重ねられ、その頭は颯太の肩に凭れ掛かる。
睡魔が襲い掛かっていたはずの頭は雨が上がった後の空のように澄み渡る。
今夜はやけに長くなる予感がした。




