第一話 傷を負う者たち 後編
恐ろしい夢を見ていたと思った。目が開いたのに、まだ頭がぼーっとする。
目の前に天川結衣の顔があるにも関わらず、それを現実として認識できない。
天川は制服を着ていた。わずかに汚れた制服には赤い染みが転々とくっついている。
「先週の木曜日の六時間目の授業は何ページから?」
天川は颯太の肩に手を置いて静かに問いかける。
そんなこといちいち覚えていない。ただぼんやりと木曜日の六時間目の授業を思い出す。
確か、池田の科学の授業だったはず。
そこまで思い出した直後、左肩からガコンとロボットの歯車がかみ合うような音が響き、同時に激痛が走った。
その痛みが現実感を取り戻す。思わずヤギが鳴くような情けない悲鳴が上がった。
「な、なにしたんだ」
ようやっと声を絞り出すと天川はにっこりと笑った。いつもなら思わず頬に熱を持つような笑顔だが、今の颯太には意地悪な笑みにしか見えない。むしろ、背筋がゾッとした。
「明日の天気はなに?」
再び颯太の目を見て、天川は颯太の左足に手を添えながら問いかける。はっきりとした意識でようやく天川の顔の距離感を理解する。
息遣いを肌で感じる。
天川のまつ毛の一本一本を数えられる。天川の産毛ってすごい薄いんだな。
再びガコンと股関節で響く。その音は痛みとなって颯太の脳みそを振動させた。
再びヤギが鳴いた。
「いたい?」
天川はぷるぷると震えるヤギに問いかける。颯太は弱々しく首を縦に振った。
それを見るとようやく天川は体を離した。
ふー、と一息整えると天川は壁際に腰を下ろした。
それでようやく颯太は小さな木の小屋の中にいたことを理解した。低い天井には裸の電球が恥ずかしそうにぶら下がっている。
たくさんの木箱や農機具が敷き詰められていた。
天川に目をやると突然、上着を脱ぎだした。下着が見えたことに戸惑いを覚えたが、それ以上に驚いたのは、天川の右腕だった。
まるで、サボテンだった。小さなガラスのようにキラキラした欠片や石のようなでっぱりが突き出ている。
天川は慣れた手つきでそれを一つ一つ左手で引きちぎるように引っこ抜く。
ふと颯太の視線に気づくと天川はすぐに目をそらして、わずかに体をずらした。その動作を見て天川の耳が赤くなっていることに気付き、慌てて視線をそらす。
「ここはどこ?」
頭の中のブラジャーを吹き飛ばすように意識を明後日の方向へと向ける。
颯太の質問に天川はわずかな間を置いて口を開いた。
「北の山」
旭山市を中心とした時に北の山となると梟峠と呼ばれる走り屋たちの巣窟がある山だ。
背後でぶちっという嫌な音ところんと何かが転がる音がする。
「どうやってここに」
記憶は曖昧だ。だが、少なくともあの日の夜を覚えている。
花火をしたのだ。そして、ひらけた場所で大きな打ち上げ花火を上げた。だが、それは透明の何かにぶち当たった。
そこに透明な物があるとわかった瞬間に、颯太は天川を思い浮かべた。だが、その幻想をかき消すように鉤爪が襲い掛かってきた。
腕を引っ張られ、足を引っ張られた。体の至るところで何かが外れる音がしたのだ。
そこからは激痛のあまりはっきりとは覚えていない。見覚えのある嘴が颯太の体を抱きしめ、飛び回った。
空が下になって、地面が真上にあった。瞬きをした次の瞬間には足元には空と大地の境界線がある。無重力を彷徨う脳みそはやがて、すべてを認識することをやめたのだった。
目を覚ました時には天川の顔があり、今は服を脱いで体に突き刺さった異物を乱暴に引き抜いている。
嫌な音が聞こえなくなると、次は布が破れる音がした。思わず振り返ると天川は刃渡り一〇センチ程度のアーミーナイフを手に制服を引き裂いていた。
「え、あ、ど、どうしたの」
颯太の問いに答えずに天川は引き裂いた布を右腕に巻き付けた。白いセーラー服はみるみる内に赤に染まる。その赤が彼女の傷の痛みを颯太に伝播させた。
思わずぶるりと体が震えた。
一方の颯太の体には衣類に赤いものこそついているのが見えるものの、颯太の体からは血が流れた形跡は見えない。
あれほどの騒動の中で、腕と足が痛むこと以外に外傷はない。おそらく残りの人生の幸運をすべて使い切ったのだろう。
次に何かあった時は、きっと、傷が出来たと認識することも出来ないのかもしれない。
ふと、よぎったのは山村の最期の姿だった。
「山村は!?」
颯太の喉元から発砲された声に天川はびくんと跳ねた。
最後に見た山村は腕が引きちぎられ、足を引きちぎられ、子供みたいに泣いていた。
あの後、どうなった。山村は生きているのか。
「ゆっきーがいた」
ぽつりと天川の唇から吐息に似た声が出た。
一瞬、天川の指し示すゆっきーが誰かはわからなかった。
「ゆっきーがいたから大丈夫。きっと、みんな無事」
幸村がいたから大丈夫とはどんな理屈だ。彼女は赴任して来たばかりの副担任で一度も活動していない天文部の顧問で、いつも少しタバコのにおいをさせていて、たまに朝会うと酒臭い息を吐く女だ。
颯太の知っている情報だけ並べ立てると、幸村がいたから大丈夫などという保証はどこにもないのだ。
行かなくちゃ。
焦燥に似た思いが颯太の体を突き動かす。立ち上がろうとすると、足に激痛が走った。
「どこに行くの」
壁伝いに体を持ち上げる。すがるような天川の瞳があった。
それは颯太にどこに行くのかを問いかけてはいない。彼女はどこにも行かないでと懇願していた。
「山村のところに行く」
親友なのだ。言葉にしたことは一度もない。それでも、気が付けばいつも側にいて、バカな顔をして笑っていたのだ。
女にモテることに必死で、そのくせいつも人の恋路を心配してくれていて、聞いてもいないのに恋愛相談に乗ってくれる。自分のことはたいして相談もしてこないで、いつも一人で解決して、颯太のこととなるといつも背中を押してくれるのだ。
そんなバカな親友だった。
泣くところなど見たことがない。そんな親友の涙を見て、無事だから黙って座ってろと言われて、おとなしくできるはずなどないのだ。
「待って、颯太」
扉を開いた。先ほどまで夜だったはずの空は朝日を映していた。遠くの地平線から上る太陽が、目の前の光景をより鮮明に映し出す。
そこには本来、颯太の生まれた町があり、学校があり、家があり、友がいたはずだった。
目の前に広がるのは大地だ。まるで、怪物が粗末な食事を終えた後の食器のようだった。
「なんだよ、あれ」
あの夜、未確認飛行物体は下りてきた。
足音も立てずに、暗闇を歩く黒猫のように夜に溶け込み、花火の音に姿を現した。
そうとも知らずに色鮮やかな狼煙を上げてしまったのだ。それはかつての戦国時代を呼び起こしたのかもしれない。そして、繰り返される時代は、当時よりも大規模な戦いへと切り替わる。
戦争がはじまる。
質の悪いジョークだ。
これは侵略だ。




