第九話 恋の行方 前編
三浦紗枝は洗面所にて、剃刀を手にしていた。クラスメイトの男子から陰でチョビ髭と呼ばれていることを知ったのは、つい先ほどの友人との電話だった。
本人はあまり気にしていなかったが、どうやら人の見る目と自分の持っている目では、感覚が違ったようだ。
気にも留めていなかったが、陰でチャップリンとかチョビ髭などと言われていることを知った今、めそめそしている場合ではなかった。
蛍光灯の光を反射して、剃刀の刃がギラリと輝く。
三浦は女子なのだ。この前まで彼氏もいた。処女も失った。だが、チョビ髭なのだ。
それは断固として許していけない。一九八九年にベルリンの壁が崩壊したように、今ここにチョビ髭を断罪しなければならない。だが、皮膚に刃物を当てるということは、ある意味処女を喪失するときの恐怖よりも計り知れない。
破瓜の痛みに悶絶した。その痛みに比べれば誤って切ったところで、どうということはない。
まるで、命を絶つことを決意した自殺志願者のような面持ちで、鼻の下に剃刀を当てた。
その時、じじ、という断末魔を残して、蛍光灯は沈黙した。真っ暗闇の中で、三浦は肌を傷つけないように、ゆっくりと剃刀を離した。
「お母さん。電気消えたよー」
真っ暗闇の中でリビングに向かって声を張り上げる。リビングから母親のはーいという返事が聞こえた。
「ブレーカー落ちたのかねぇ」
ブレーカーは三浦の背後にあるトイレの扉の頭の上にある。母は真っ暗闇をどすんどすんと轟音を響かせて迫ってきた。
背の低い母親では背伸びをしてもブレーカーには届かない。それを察して母は足の長い椅子を持ち上げて、よっこらせ、と現れた。
闇に慣れない目では、手に持つ椅子の長さなどわかっていないのだろう。三浦は闇の中で壁に穴が空いていないことをひっそりと願った。
「いた!」
「あ、ごめん」
暗闇で暴れまわる母の暴挙に悲鳴を上げたのは、二回ほど。母はどすんと乱暴に椅子を床に設置すると、ブレーカーへと手を伸ばす。
「おーい、早くしてくれ。テレビ終わっちまう」
しびれを切らした父がふてぶてしく注文した。母は聞いているのかいないのかよくわからない、はーい、という返事をした。
カコン、とブレーカーのスイッチが切り替わる音を聞いた。
「あら?」
カコン、カコン。
二度、三度とブレーカーのスイッチを入り切りするが、うんともスンともいわない。
「お父さーん?停電みたいよー」
窓の外に視線を向けると隣の家も街灯も息を潜めるように真っ暗だった。
三浦はため息を吐き出す。
チョビ髭卒業はもう少し時間が掛かりそうだ。
「結衣ちゃ~ん、学校はど~お?」
暗闇の中、蝋燭の明かりを頼りに床に寝転がって漢字ドリルと向き合っていた天川結衣は背後から聞こえた幸村理恵を振り返った。
天川は幸村の孤独の城に来ていた。ワンルームのかびのにおいとアルコールのにおいが充満する部屋。
すっかり出来上がっていた幸村はへらへら笑いながら天川に近寄った。それは獲物を狙う女豹のようだった。
幸村の質問に天川は答えず、一度視線を幸村に向けて、こくんと一つだけ頷くと再び目は漢字ドリルに向かった。
酔いの回った幸村は面倒くさい。特に人が何かに夢中になっている姿を見ると邪魔したくて仕方がないという顔をしている。
その視線に気づきながらも、天川は徹底的に無視することを決め込んだ。
まるで、発情期の猫だった。天井を仰いでいた天川のお尻に顔を埋め、掃除機みたいな音を立てて思い切り息を吸い込んだかと思うと盛大にむせた。それが落ち着くと短パンから覗いていた天川のすらりと伸びた足を、足首から太ももまでねっとりと舐めてきた。
一瞬、鳥肌が立ったが、何とか我慢。
よほど何かしらリアクションが欲しいのか、幸村は小さな天川の体にのしかかり、長い髪をかき分けて耳たぶに唇を這わせた。これにはさすがに悲鳴を上げた。
上体を起こすと床の上でゴロゴロしながら腹を抱えて笑っている幸村が飛び込んできた。それに向かって漢字ドリルを投げつけてやった。漢字ドリルは素っ頓狂な方向へ飛んでいき、壁にぶつかって床に落ちた。
「一生懸命だね~え」
スーツを着ている時のカッコいいお姉さんの顔はない。そこにいるのは酔っぱらったスケベオヤジだ。
天川はぶすっとした顔を向けたが、それが精いっぱいの抵抗だった。
「そ~だよねぇ~。結衣ちゃんももうエッチも出来るんだもんねぇ」
ぐへへへへと笑って盛大なゲップ。
「ねぇねぇ、結衣ちゃ~ん。神崎君のこと好きぃ?」
そのにやけた顔に向かってノートをぶん投げる。それは見事に命中したが、ものともせずに幸村は笑っていた。
「でもさぁ、でもさぁ、顔だけなら大沼ってヤツおすすめよ~。首輪でもつけて歩いてたら、みんなから人気者になれるよ~」
でも、あいつ絶対短小包茎だよ~。そんな顔してるも~ん。ふひひ。
天川は再び無視することを決め込み、漢字ドリルを拾い、ノートを拾った。
「ねぇ、結衣ちゅわ~ん。神崎君とはどこまでしたのー」
気が付くと幸村はドスンと天川の体にのしかかっていた。気にしないように漢字ドリルに目を向けたが、頭頂部に突き刺さる幸村のアゴは掘削機のドリルのようにうぃんうぃん動いていた。
このままでは穴をあけられると思い、容赦なくシャープペンを顎に突き刺した。
さすがの幸村も悲鳴を上げて痛みに悶絶していたが、しばらくして思い出したように笑いだした。
「ゆっきー」
ふいに声をかけると目の端に涙をためながら、幸村はゆっくりと顔を上げた。
「ゆっきーは」
恋をしたことはある?
そんな質問が来ると思っていた。そんな甘酸っぱい質問にはなんて答えよう。
初恋から初エッチまでは教えてあげてもいい。あと、コンドームの重要性。だが、天川が尋ねたのは少しだけ違った。
「死にたくないって思ったことはある?」
きっと、それは彼女にとって同じ意味だったのかもしれない。だが、そんな表現の仕方しか出来ないような環境を与えてしまったのは、幸村自身にも責任のあることだ。
「あるよぉ」
その言葉に酔いはすっかり冷めていた。ただ、今はまじめな顔で天川と向き合うことは出来なかった。
ごろんと寝転がって天井を見つめた。このまま眠ってしまおうと目を閉じた。
「そうなの?」
「そうだよぉ」
意識が沈んでいく。
「ゆっきーは好きな人いる?」
「いるよぉ」
もう自分が何を言っているのかわからない。ただ、何となく質問に答えていた。
「どうしたらいいのかな」
幸村は答えない。静かに寝息が聞こえてきた。
うんざりしたようにため息を吐き出す。
天川はわからなかった。
どうして宇宙が出来たのか。
どうして地球は出来たのか。
どうしたら戦争が終わるのか。
恋をしたら、どうしたらいいのか。
天川はわからなかった。
ページをめくる。
恋、という文字の書き順をペン先でなぞる。
朝になっても停電は続いていた。それでも新聞はしっかりと届く。やはりいつになっても、アナログはいいものだとししみじみと思った。
神崎家の大黒柱として日夜働いている父は、今日も新聞を読む。第一面は相変わらず戦争についてだ。なんでも日本の領海に出ていた戦艦オリョールが沈没したらしい。その近辺から戦闘機の破片が見つかった。パイロットが脱出した形跡は見つかったものの発見されたのは破れたパラシュートとパイロットと思わしき人間の一部だけが回収された。
「沈むオリョールと消えたパイロット、か」
しみじみとつぶやく。ふいにテーブルの上のリモコンを手に取った。
「点きませんよ」
台所で朝ごはんの準備をしていた母が目も向けずにつぶやいた。その声を聴いて父は、そうだったそうだった、とテーブルの上にリモコンを戻した。
新聞紙をめくる。あ、田中さんとこのじいさん死んだんだ。
「おはよう」
いつもの眠たそうな瞼で神崎颯太は颯爽と登場した。半開きの目をこじ開け、酔っぱらいのような足取りで洗面所へと向かう。
それをしり目に新聞を読んでいく。
「ねぇ、お父さん、どうしましょう」
残念そうに母はつぶやく。独り言のように放たれた言葉に父はううむ、と唸った。
「冷蔵庫の中のものどうしましょう」
電気が止まって一〇時間ほどたつ。すでに肉はダメになっていて、野菜室の野菜もあまり状態は良くない。
それでも、父は会社に行き、息子は学校へ行くのだ。どんな非日常がやってきたとしても、体に染みついた習慣というものは、日常的に稼働する。
「会社に行く前に役所に寄ってみるよ。何かわかるかも」
ふいにリモコンに手を伸ばす。
「だから、点かないって」
どこか不機嫌に愛する妻は父を叱った。しゅんとして伸ばした手を戻した。
「いってきます」
食パンと生ぬるい水道水を胃袋に収めて父と息子は肩を並べて外に出た。
「気をつけろよ、連絡も取れないんだから。今日はまっすぐ帰れ」
車に乗り込む途中、父は颯太の背中に声をかけた。颯太は面倒くさそうに片手を上げるととぼとぼと登校を始める。
学校への道すがら前を歩く学生も後ろを歩く学生も停電の話題でもちきりだった。
昨日の夜、二〇時四九分。旭山市は声もなく眠りについた。
もちろん、パニックだ。戦争が始まったと歌い始めたころから、日本で携帯電話の使用は困難になった。至る所で電波障害が発生し、東京などの首都であればまだ携帯電話は普及しているらしいが、あいにく旭山市で携帯電話を所持する人間はいない。
本来安息を与えてくれるマイホームは電気という設備を失った途端に陸の上の孤島と化した。
人々は家を飛び出し、近隣の人々で深夜の井戸端会議を行っていたが、答えは出せず、結局のところ夜の闇に紛れて目を閉じることを最善策とした。
世界が光に包まれると日常はいつも通り歯車を回したようだ。
学生は学校へ、社会人は社会へと身を投じる。
どれだけ暗闇に閉ざされようと義務がある限り従うしかないのだ。それはある意味日本人の悲しい習性だった。
颯太もいっそ学校をサボってしまおうかと思ったが、こういう時だからこそ友人の顔を見ておくことで安心できることもある。
何より天川のことが気がかりだった。
あの暗闇の中、彼女は空を舞っていたのでないだろうか。誰も知らない地球に落ちてきた宇宙のような闇の中。夜空を切り裂くように、光を放っていたのではないだろうか。
初めて見た時は、彼女が負ける姿など想像にも浮かばなかった。だが、あの夜の闘いを見て、彼女の敗北を夢に見るようになった。
望まないことほど、頭は想像しやすいらしい。おかげで、昨日も寝つきは良くなかった。
下駄箱に靴を放り込み、上履きに履き替える。
「おはよ」
遅れて登場した山村達人はひどく疲れた顔をしていた。
なんでもあの暗闇で父親に連れ出されて、電気会社に向かったらしい。電気会社もパニックになっていて、話にならなかった。にもかかわらず山村家の大黒柱はちゃんと説明するまで帰らないなどと宣った。ちゃんと説明できないから、すぐに復旧しないんだということに気付いたのは、日をまたいだ頃だったという。
誰もが暗闇に辟易して早々に眠りについた中、山村家だけはいつまでも父親の不機嫌な声が轟いていた。
当然のように突き合わされた山村の目の下にはクマが目立っていた。
「おかげで三国の電話も途中で切れちまったしさ」
あれからもほとんど毎日二人は電話しているらしい。最初こそ煩わしかったようだが、ほとんど日課となっていた。
いつしか山村と三国直子は賑やかなハッピーセットと扱われるようになった。
「そういえば、桐野って覚えてる?」
桐野柚葉とは合コンという名のカラオケ大会で、わずかに颯太の胸を高鳴らせた少女である。
連絡先も聞かなかった颯太にとっては随分と懐かしい名前に思えた。
「お前に会いたいんだと」
ニヤッと山村は笑った。
「なんで」
思わずそう返すと山村はやれやれと大げさにため息を吐いた。
「女が男に会いたいって言ったら、答えは一つっしょ」
そんなまさか自分に限ってあり得ない。
人間は不測の事態に陥ると根底に自分が存在していると自分という存在を否定したくなるものだ。
ましてや桐野と颯太はほとんど会話という会話をしていない。彼女がいるとかいないとかって話をしただけであって、別にそんなわざわざ会いたがるようなことなどあるはずない。
あるはずないと言いつつも、彼女がいない、と告げた後の桐野のくすぐったそうな笑顔は、たまに思い出す。
「羨ましいねぇ」
そう言って山村は颯太の肩をつかんだが、肩を掴む手には尋常じゃない力が込められていた。
ははは、乾いた笑みを浮かべて、やんわりとそれから逃れた。
教室へ向かうと天川の姿はなかった。
その事実に思わず肩を落とした。何となく予想はしていた。今頃、嘴に乗って縦横無尽に空を飛んでいるのだろう。そして、アメリカの戦闘機を木っ端微塵にぶっ飛ばして、旭山市を守っている。などと想像してみたが、いくらそんな想像をしても腑に落ちないことはあった。
二人で部員募集の張り紙を見ていたとき、アメリカの戦闘機がやってきた。一目散に屋上へ上った天川は、嘴に乗って空へ消えた。そして、彼女はあろうことかアメリカの戦闘機を守るように戦っていた。
今、日本はロシアと手を組んでアメリカと戦っているはずだ。なぜ、彼女はアメリカの戦闘機を守るようなことをしたのか。
窓の外を見る。今日もそこにいるのが当たり前みたいな顔をして、水銀船は空を泳いでいる。
気球みたいにぷかぷか浮いているように見えながら緊急時には戦闘機のように突進する。
その姿は何となく嘴に似ている。空を泳ぐ魚は日本を守護している。そして、天川はそれと対峙していた。
授業中は窓には目も向けない。そんなものに最初から興味などないって顔をしていた。そして、颯太はその疑問をぶつけることは出来ないでいた。
天川にその質問をしてしまうと、天川はもう戻ってこない気がした。
もう二人でブランコに乗る日はやってこないような気がした。
「え~」
今日も屍みたいな顔をした池田ことボケダ教諭は口癖のような、え~、を口いっぱいに溜めこんでから吐き出した。
その隣に幸村の姿はない。なんでも体調不良とのことだ。それを聞いたアラブこと斎藤琢磨は心底残念がっていた。
元々堀の深い顔立ちをしたアラブが顔を俯けると、全身から絶望が漂ってきた。
斎藤は幸村に一目ぼれしたとのことだ。本人の口から聞いた話ではないが、幸村を見ながら恍惚としてため息を吐き出す姿を見ていれば、嫌でもわかる事実だった。
天川と幸村に関しても気になることはあった。
幸村が赴任した日、放課後の教室に現れた幸村に対して、天川はこともあろうに「ゆっきー」と声をかけた。
初対面の相手にいきなりあだ名をつけるようなタイプではない。いや、もとより不思議な雰囲気を持っている少女だ。ないことはないのかもしれないが、幸村はそんな気さくに話しかけられるようなタイプではない。
普段生徒と話している時はそんなことはないのだが、時折、外を見つめている時の彼女の横顔には鬼気迫るものがあった。
その目は親の仇でも見るような目だった。そして、そこにはいつも何食わぬ顔で魚が泳いでいたのだ。
天川の夜の姿を知らない人間には、その結び付きはわからないのかもしれないが、颯太が気がかりになるものとしては十分なものだった。
「え~」
ボケダは蚊の鳴くような声で淡々と言葉を紡いだ。
我が校も、え~、設立されてから、え~、かれこれ五〇年を迎えようとしているわけすが、え~。
よくわからない前置きをしてからボケダは語った。
学校よりは少しだけ長生きなボケダは彼自身の記憶も曖昧な頃に、戦争を体験していた。
当時にも停電があった。と言っても、当時は電化製品は今ほど普及していなかった。さほど困ることもなく、異常事態として認識していなかった。そして、旭山市に二度目の明かりのない夜がやってきた日、戦争は終結した。
ボケダは生徒たちを元気づけようと喉を震わせていたが、心地よいビブラートに生徒たちは思わずして目を閉じようとしていた。
「え~、だからして、え~、皆さんも不安がらずに、これが戦争の終わりだと思って、え~、もう少しだけ辛抱しましょう。え~、日直」
いつもより少しだけ長いホームルームは終了した。
「颯太、結衣ちゃん、どうしたの」
ボケダが教室を出ていったのを見て、藤田由香里は颯太に尋ねた。
「俺が知るかよ」
知りたいのは颯太の方だ。彼女は今、どこへいるのだろうか。
この空のどこかを飛んでいるということだけは、何となく想像できた。
「あんた彼氏でしょ」
初耳だった。
山村も目を剥いた。それを聞いていた吉野圭一のメガネがギラリと輝き、早くも胃袋の虫が悲鳴を上げる三国はお腹を押さえ、斎藤は恍惚としたため息を吐き出した。
「そんなんじゃないよ」
否定する自分の声に力はなかった。
天川は転校生であり、美少女であり、未知の存在だった。
太陽系の中の小さな星で、小さな島国で、小さな田舎町で育ったごく普通の一般人の颯太には、天川の彼氏などというポジションは荷が重かった。
「そうなの?」
どこか嬉しそうな声を出し、その声に気付いたように由香里は一瞬だけ、その表情に影を差した。
「ねぇ、今日さ」
由香里はその表情をいつの間にか吹き飛ばしていた。ニヤリとハードボイルドに笑い、高らかに宣言した。
「花火やらない?」




