第六話 苦難、困難、女難の相 前編
幸村理恵は教科書を睨み付けていた。
英語と日本語は完璧だ。日本は母国語として幼い頃から両親に習った。英語はアメリカに住んでいたため、日本語よりも流暢に話す自信がある。だが、あいにく日本語は幼い頃に学んだだけで、しゃべることは出来ても、読んだり書いたりするのは苦手だった。
英語の教師として旭山市立東高校に赴任することになった。これも真田という無責任な男のせいだ。
正直、日本に来るまでの間に時間はあったのだ。わざわざ小さな船に乗って海を渡ってきたのだ。一体どれだけ退屈な時間があったのか思い出すのも恐ろしい。
それだけの時間があれば、教科書を丸暗記することだってできたに違いない。
履歴書など経歴書など、おまけに教育委員会の推薦状などつけて学校に送り付けてくれたのだ。
自分の知らない文字で、自分の知らない経歴を植え付けられた。どこだ、早稲田大学って。そもそも幸村にはそれを何と読むのかわからないと来た。
年齢は六つも下にごまかされた。若くしてくれるのはありがたいが、六年もあれば小学生だって中学生になる。つるつるがもじゃもじゃになるくらいの差があるのだ。
年の割に老けてるね、なんて言われた日には立ち直れない。ベストはマイナス二歳なのだ。
唯一の救いは帰国子女で日本語が得意ではない、という点だ。これで多少わからないことがあったとしても、年のせいではなく国の問題ということで、誤魔化すことが出来る。
ガッツポーズを取れたのはそこだけだった。なんで英語の教科書なのに、日本語の方が多いんだ。
なんだ、引用って。どう読むんだ。どう使うんだ。どういう意味なんだ。
幸村はえい、とばかりに教科書を投げつけた。
段ボールが山積みのワンルーム。風呂とトイレは一緒だし、日当たりは最悪だ。
これはすべて真田の策略だと判断し、頭の中で真田をぶん殴った。
昨夜届いたばかりの冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ぐびぐび喉へと押し込んだ。
へこたれている場合ではない。赴任まで一週間しかないのだ。
うんざりしたようにゲップを吐き出すとすでにくしゃくしゃになった教科書を再び手に取る。
外国人向けの辞書を開きながら、教科書と格闘する。
文字を読むことに頭を働かせながら、頭の中には天川結衣と神崎颯太のことでいっぱいだった。
真田にいろいろされたことの復讐とばかりに二人をいじくりまわしてやろうと企んでいた。
ビール、教科書、辞典。視線を言ったり来たりさせている内に酔いが回ってきた。
もういいや。
ぽい、と教科書を投げ捨て、ごろんと横になる。
テーブルの上にあったリモコンを掴み、テレビに向ける。チャンネルを変えると旭山市のニュースでもちきりだった。
一体どこの誰がマスコミはどうにかすると言ったんだろうか。
カメラにこそ収められていないが、当日旭山市にいた市民たちの声を次々と拾い上げている。
雷が横に落ちたんだ。
ピカ、ピカ、て光がすごかったよ。
俺の昔の嫁がエイリアンと結婚したんだ!あれは俺の嫁だ。
一見すると変な人の集まりだ。だが、コメンテーターが彼らの証言を聞いて心から驚いているような下手くそな演技を見せている。
専門家として出てきた胡散臭いオヤジは、さっそくUFOがどうとかエイリアンがどうとかわめいていた。
それに食ってかかるコメンテーターと互いが互いの意見を潰そうと声を荒げていた。
なんとも滑稽な姿だ。
それを肴にぐびぐびとビールを飲んだ。
すると、ふと頭の中にノイズが走る。深夜にチャンネルを変えた先が砂嵐だった時のような耳障りなノイズだ。
幸村はこめかみに手のひらを当て、耳を澄ませた。
『よぉ、幸村。勉強はどうだ』
真田は親戚のおじさんみたいな言葉を投げかけた。
受験勉強する姪っ子に向かって、先輩面で話しかけるヤツだ。お前と話している暇があれば勉強するよ、とでも言ってやりたかったが、もう勉強したくない。
「なんの用よ」
『お前、月曜日から出れるか?』
「はぁ!?」
期限は一週間あったはずだ。
月曜日って、要するに明日じゃないか。すでに時間は二時を回っている。
五時間後には学校に行けと言うのか。
「無理よ」
きっぱりと答える。頭越しに真田が戸惑っているのがわかる。
『まいったな』
ははは、と乾いた笑い声をあげる。こういう時の真田は決まって事後報告だ。
もうどうすることも出来ない、て状況に限ってこうやって笑うのだ。
『いや、お前がいいならいいや。ちょっとした特権を与えられるチャンスだったんだがな』
違った。
真田は嫌味な奴だ。こっちに選択肢を与える時は、だいたいこうやって餌をちらつかせるのだ。
おかげで、何度無茶な作戦に突き合わされたことか。
ご褒美に一万ドルやるなんて言われてついていったら、熱帯雨林にまともな装備もなくスニークミッションを展開させられたこともある。
今回はその手には乗るまい。だが、特権という言葉には弱い。弱いからこそ、その先は聞いてはいけない。
『あ、いやね。なんか、あいつらが部活入らなきゃならないらしいんだけど、残っているのが化学部とかって部で、変な連中が多いんだよ。で、考えたのがお前が好きな部を作ってあいつら囲ってほしかったんだけど、その期限が一週間後なんだわ。でも、さすがのお前でも明日いきなりってのは難しいよなぁ』
「さけぶ」
『は?』
「酒部。学校でいくらでも酒飲んでいいなら」
『無理だ。日本の規制は厳しいんだ。ましてや勤務中に酒飲んだりしたら、お前この街にいられなくなるぞ』
「じゃあ、いい」
『そうか?なんだ、せっかくあいつら二人きりにして様子見ることが出来たんだけどなぁ』
「え?」
『全校生徒部活動必須らしいから、これから新しい部員なんて入ってくるはずねぇからさ。そうなったら神崎ってガキと二人きりになった天川の様子も見れたんだけどなぁ』
この男は、最悪だ。
なんて面白そうな構図を見せてくれるんだ。そんなもんぜひ見たいに決まっている。
「わかったわよ」
ため息交じりに応える。
ぐび、とビールを飲む。
『じゃ、頼むわ』
まるで、最初から幸村がそういうとわかっていたかのような切り返しの早さだった。
あまりの速さに苛立ちを隠せなかった。
「あ、待って」
『ん?』
「げ~~~~~~~~~~~~~っぷ」
直後、無線の向こうで真田の悲鳴が聞こえた。
ガッツポーズの代わりに空になったビールの缶を握りつぶした。