第一話 未知との遭遇 前編
戦争がはじまる。
質の悪いジョークだ。
テレビでは、そんなジョークを大々的に取り上げている。と言っても、もう何年も前から、ニュースや新聞の第一面を飾っている。だが、高校一年生で恋煩いに胸を痛めている神崎颯太にとっては、どうでもいいことだった。
今の颯太にとって、ロシアやアメリカから核弾頭が降ってこようが、つい先ほど胸に撃たれた失恋の弾丸の痛さに比べればなんてことなどない。
いつもならもう眠っている時間。今日は月すらも輝かない。漆黒の闇だった。
部屋の電気を消してドアノブを回す。軋む廊下をきしませないようにつま先をそっと乗せる。だが、どこにいくと問いかけるように床がぎぃと鳴いた。
颯太が答えないとみると、諦めるように問いかけることを止めた。
一階のリビングでは母親がいびきをかいて眠っている。最近購入した六〇インチの液晶画面からは、韓国の俳優が下手くそな愛を歌っている。
颯太が部屋を出る時は、ちょうど二人の男女がくっついてキスをしているところだった。
反吐が出る思いで玄関を開けた。任務の達成にガッツポーズをとると同時に背後でいびきがぴしゃりと止んだ。ぞっとして慌てて扉を閉め、自転車にまたがった。
神崎颯太はいい子だった。
成績もそこそこ、夜更かしもそこそこ。中学生の間にも悪いことなどしたことはない。やったと言えば、小学生の頃にスカート捲りを一度だけ。
寝息を立てる住宅街。自転車の軋む小さな悲鳴すら絶叫のように聞こえる。
この世界で一人ぼっちになってしまったような静寂。
颯太は滑るように自転車を走らせた。
家の前の坂道を下る。学校の帰りには地獄の坂道だが、今この坂道は颯太の体を幻想的な夜へと離陸させる。
月がない空を覆う無数の星の歌声が聞こえる。いつもより大粒な星々の影を縫うように、ぐにゃぐにゃと滑りながら自転車は家を離れていく。
さながら銀河鉄道になったような気分だった。いっそこのまま地球を離れてしまおうか。だが、現実感を喪失した体は赤信号によって現実に引き戻される。
どうせ今の時間に車など走っていないのはわかっていても、颯太は信号が青に変わるのをじっと待った。
漠然と襲い掛かる現実にため息を吐き出し、颯太は信号の許可を得たのを確認すると自転車を漕ぐ。
目的地は街から少し外れた場所にぽつんとある公園だった。住宅街から離れた公園に人は集まらない。こんな時間ならなおさらだった。
集まるのはのびのびと脅威を発揮する雑草と人混みが苦手な野良猫と夜を歌う虫たちくらいだろう。
そんなさびれた公園に用事などない。ただ、失恋したら公園なのだ。
自転車を停止する。一時的な宇宙旅行は自転車のサドルからケツを放した時点で終了した。
誰もいない公園。静寂のオーケストラが鼓膜を震わせる。
銀河鉄道は少年を公園に残して飛び立った。
人混みが苦手な猫は公園のベンチで息を潜めて少年を睨む。
少年の足に踏みつけられた雑草は、なんのそのと起き上がる。
彼の足音に虫たちは声を荒げて警鐘を鳴らす。
星たちがきらりと煌めいた。
煌々とした青い闇が、見慣れた公園に新鮮さを感じさせる。声をかき消すような静けさと、銀河鉄道のキンと響く汽笛の遠吠えが耳から離れていく。
そこは彼が失ったミステリーサークルだった。初めての恋という名の水銀船は、彼が到着する前に離陸していったのだろう。
遠のいていく恋心は、それを実感するとともに颯太の心に淡く深い傷をつける。
雄大な空の向こうに銀翼が泳いでいくように、一粒の星がひと際輝いた。冬の空にうっすらと滲んだ天の川。青春の一ページを引きちぎってたたき付けるような思いで睨み付けた。
失恋とは残酷だ。だが、終わってしまえばたったそれだけのことである。
雲が遠慮がちに移動した。
夜の公園で一人項垂れる颯太の様子を伺っている。
その時、雲の隣を通り過ぎる何かがいた。
鳥の嘴のようなUFO。
それは誰も知らない夜の闇を切り裂くほうき星。
青い光の線を残して駆けるそれは、狙いをつけたようにまっすぐに颯太のいる公園に向かっていた。
青春に打ちひしがれ、その接近に気付かなかった。いや、きっとプロの殺し屋でもその気配には気づかなかっただろう。
さながら雷だった。自然の怒りを模したかのような稲妻の気配に人は気づけるはずはない。
颯太が気づいた時には体は宙を舞っていた。重力が横から押し寄せてきたのだ。
とうとう戦争がはじまったのだと思った。不運なことに公園に核弾頭が落ちたのか。
自分の体はどうなった。衛生兵を呼んでくれ。
腕はあるか、足はあるか。心臓は飛び出ていないか、皮膚は溶けていないか。
気が付くと天地がさかさまになっている。あぁ、きっと横を見渡せば自分の体が寝転がっているのだ。
首はちょん切られてしまったに違いない。だって、手足に感覚がないんだから。だが、彼の予想を裏切って首と体はしっかりとつながっていた。
腕は両方ついている。足もちゃんと二本ある。心臓は本来ある場所で生きていることに激しく舞い踊っている。皮膚も溶けない。先日出来たささくれもそのまま残っている。
何が起きたのだ。
ハッとして体を起こすと大きな嘴が地面に刺さっているのが見えた。それは歪なカプセルのようだ。
突然舞い降りたほうき星。突き刺さった嘴は音もなく開かれた。
ほうきに乗って現れたのは小さな魔女だった。黒猫はいないし、ローブも着ていない。杖も持っていない。
唯一、魔女らしいと言えば黒い長い髪だけ。いったいどれだけ髪を切らなければこんなに長くなるのだろう、と素っ頓狂な疑問が浮かんだ。
一瞬、裸かと思わせるような体のラインを表した服は、ボディペイントと言えば納得してしまうかもしれない。
顔の半分を覆い隠すような大きなサングラス越しに、彼女の目が颯太を見た。
初恋の甘さと失恋の苦さを足して二で割ると未知との遭遇の味になる。
それはとんでもなく甘いようで苦くて、それでいてすっぱくて鼻をツンとさせる。