入れ墨少女
おれが住んでいるアパートはボロい。
漫画なんかに登場した日には『つぶれ荘』なんて名前が付いてしまいそうな、築三十年の木造アパートに住んでいる。風呂場の壁が腐りかけていたり、油虫や鼠がよく出たり、アパート全体が歪んでいる所為で、居間への引き戸が閉まらなかったりと、なかなか素敵な物件に三年ほど厄介になっている。
友人どもはおれの部屋へ遊びに来る度に、どうして引っ越さないのかと言う。それに対するおれの答えは常にノーだ。
すると、友人どもは不思議そうな顔をして聞き返す。
「なんでこんなボロいアパートに拘るんだ?」
「……家賃の割に立地が最高だからだよ」
歩いて五分で駅があって、スーパー、本屋、病院が殆ど家の裏手にある。そんな部屋が月三万、少しぼろい事を忘れてしまえば、こんなに素晴らしい部屋はそうそうない。全くもって、少しのボロさえ我慢すれば、ここは最高の物件なのだ。
だが、最近、少しげんなりする事があった。
このアパートの大家は妻に先立たれてしまった男やもめなのだけれど、彼には娘が一人いる。
歳は七つか八つぐらいの、毎朝ランドセルを背負って小学校に通う小さなお子さんで、名は仮にかの子ちゃんとしておこうか。
とても利発なお子さんで、いつも外で遊んでいる所為か、夏が来ると真っ黒に日焼けし、アパートの庭に友人を集めては結んだ髪をぴょこぴょこさせながら、サッカーや野球なんかをやっている元気な少女だ。
そんなかの子ちゃんに、おれは懐かれている。大学から帰ると、あるいは出先から帰ってくる時、大抵かの子ちゃんは家の外などで遊んでいるのだが、彼女はおれの姿を見るなり、ご主人様を見つけた飼い犬のような勢いで飛んできて、
「お兄さん、お兄さん! 今日はお父さんが遅いみたいなんで、お兄さんの部屋で待たせて貰っていいですか?」
「……まあ、いいけど」
そんな感じでおれの部屋に上がり込んでは、父親である大家が帰ってくるまで居座っている。どうしてこんな事になったのか、切っ掛けはもう忘れてしまった。たぶん、日が暮れても外でボール遊びをしていた少女が可愛そうになったので声を掛けたとか、そんなところだろう。
ともあれ、そうして一度、家に上げたが最後、かの子はおれによく懐いて、事あるごとに部屋へ上がるようになった。
一部の特殊な性癖を持った友人などは、それを聞いて「犯罪者がいるでござるぞー! ここにロリコン性犯罪者がいるでござるぞー!」と馬鹿みたいに騒ぎ立ててくれたが、生憎とおれは小児性愛者などでは勿論なく、それどころか異性愛者ですらない。かの子ちゃんは可愛い少女であるけど、おれのストライクゾーンとは真反対の方向にある存在だ。やつが邪知するような事など何もない。
だから、おれとかの子ちゃんは、友人どもが心配するような事など何一つなく、健全な時間を過ごしていた。
けれど、ある日。
ちょっとした事件が起こった。
「お兄さん、この猫楠って面白いです! これって本当にあった事だったんですか?」
「南方熊楠は実在した人だね。内容もちょっと盛ってるかもしれないけど、だいたい、似たような事はあったんじゃないかな」
その日もかの子ちゃんは、おれの部屋で漫画を読んでいた。手にはオレンジジュースのペットボトルを持って、とても楽しそうに読んでいる。
おれが持っている漫画は水木しげるしかないから、かの子ちゃんが部屋に上がると、彼女は決まって水木漫画ばかり読んでいる。鬼太郎、悪魔くん、河童の三平といった水木漫画のメジャー所は読破して、今はもっぱら短編ばかり読んでいる。
子どもの頃から、こんなに濃い読書体験をしていたら将来はどんな娘さんになるのだろうかと少し心配な気もするが、少なくとも、手塚治虫を読むよりは遥かに健全な事だろう。
そんな事を考えつつ、こちらはこちらでレポートを進めていたら、突然、かの子ちゃんが黄色い悲鳴を上げた。
「きゃああああっ!?」
驚いて、そちらを見ると、随分と大きなアシダカクモがテーブルの上を歩いている。
「や、やだぁああっ!」
悲鳴を上げて、かの子ちゃんは持っていた漫画をアシダカクモに投げようとするが、あれはクモ界の中でも指折りの益虫だ。おれは慌ててかの子ちゃんの手を掴むと、パニックに陥っていた彼女は少し暴れた。オレンジジュースが辺りにぶちまけられ、ジュースの甘い香りが部屋に立ち込む。
その騒動の間、吃驚したアシダカクモは壁をつたってどこかに行ってしまった。おれはようやく一息吐いて、かの子ちゃんに教え諭す。
「……かの子ちゃん、アシダカクモってのは益虫なんだよ。あれはゴキブリを食べてくれるし、毒もない。見た目はアレかもしれないけど、人間の味方なんだ」
「み、味方なんです?」
「……例えば、鬼太郎には、見た目は怖いけどいい妖怪だっているだろう? それと同じだよ」
「同じですかー」
難しそうな顔をして、かの子ちゃんは腕組みをして考え込んだ。そして一分ぐらい熟考してから、溜め息を吐いて哲学者めいた顔を言う。
「受け容れるのは、難しいです」
「……そうだね。先入観ってのは、なかなかどうして難しい」
それから、おれはかの子ちゃんを風呂に入れる事にした。オレンジジュースというやつは、乾くと酷くべたべたする。
「……今日は湯がぬるくなっていたからな、十五分もあれば風呂が沸く」
「お兄さん、お湯を取り替えないんですか?」
「……貧乏大学生が毎日風呂釜の湯を取り替えられると思うか?」
「んー、無理そうです」
そんな話をしている間、かの子は服を抜きだした。「べたついて気持ち悪いです」と言いながら、一枚一枚、服を脱ぎ散らかしていく。八歳児の割に大人かと思っていたが、こうしたところは、まだ子どもだ。
仕方ないなと肩をすくめ、彼女が脱ぎ散らかした服をビニール袋にでも入れようかと腰を上げた瞬間、それが目に入ってしまった。
「…………かの子ちゃん、それは?」
「これですか? お父さんに入れて貰った入れ墨です! 格好いいですか?」
全裸となったかの子の身体には、入れ墨が彫られていた。
乳房の周り、下腹、臍の周りなどに墨で紋様が描かれている。それは、例えばサモアの部族で彫られているような歴史的な入れ墨でもなく、あるいは日本古来の彫り物のような芸術的なものでもなかった。身体の線を強調するような、淫猥さを引き出すような代物で、淫紋とでも呼びたくなる代物であった。
「……ねえ、かの子ちゃん」
「なんですか?」
「……かの子ちゃんはお父さんと仲良しかな?」
「はい!」
「……じゃあもしかして、夜は一緒の布団に入って、特別仲良しな事をしてたりするかな?」
そう聞くと、かの子ちゃんは戸惑いの顔を見せた。きっと、口止めをされているのだろう。その口止めをしているのは間違いなく父親で、それが意味する事は、彼女は父親と近親相姦をしているという事だ。
ふと、気が付くとかの子ちゃんが怯えた顔でおれを見ている。どうやら、少し怖い顔になっていたようだ。
おれはかの子ちゃんを安心させるために、笑ってみせた。
「……いいよ、答えなくても。変な事を聞いたね。それより、そろそろ風呂が沸いたみたいだ。入っておいで」
「う、うん」
戸惑いながら、かの子ちゃんは風呂場へと入っていく。
普通なら、この時点で児童相談所に虐待という事で通報するのが筋なのだろう。けれど、かの子ちゃんは、父親のしている事を無邪気に全て受け容れているようだし、恐らくは父親を愛している。
ならば、おれの方から野暮な真似をする道理はない。
だが、虐待だという人もいるだろうし、このままでは子どもが歪んで育つという人もいるだろう。だが、そもそも人間とは歪んで育つものだ。何一つ心にトラウマを持たずに育った健全な人間など存在しないし、仮にそんな生き物がいるとしたら、おれはそれを人間と呼びたくない。
人は何かしらの歪みを背負って生きる生き物だ。かの子ちゃんにとって、それは父との関係と、身体に刻まれた入れ墨だった。仮にそれで心に傷を負った場合、それは、そうした歪みを許さない社会によって傷を負っただけの話でしかない。お前は異常だと指を指された結果、異常を来してしまっただけだ。
なによりも、惚れた男を通報する程、おれはドライな男ではない。
「……しかしなぁ。将を射るために馬をと思っていたら、まさか、将が馬と出来ていたなんてなぁ」
こわもての厳つい大家の、愛くるしい顔を思い出しながら、おれは静かに呻き声を上げるのだった。




