未来への一歩
1800年代、
ついに八洲や扶桑にも革命勢力が確認されるようになった、
時期を同じくするようにアングリアがガリアのルイジアナを購入、
ロッキー山脈を挟む形で向かい合うことになった、
第一次米諳戦争という独立戦争以来険悪な関係なこの両国は、
もはや一触即発状態であり、これに追い討ちおかけるように欧州動乱の終結が重なった、
アメリゴの沖合いには頻繁にアングリアの海軍が出現するようになった、
これに追い討ちをかけたのがアングリア海軍による米商船の進路妨害だった、
1812年、第二次米諳戦争勃発である、
すでに内部情勢の怪しい本国の八洲は当てに出来なかった、
扶桑はロッキー山脈の攻略を急務とし、米国を相変わらず川下で支援するも、
通過するべきルイジアナはすでにアングリアが領有化、つまり敵中突破である、
これには流石の世界の大帝国アングリアも黙って見過ごすはずが無く、
河川部隊を急造しこれに対抗、こうして、扶桑は男の人手不足の第一歩を踏み出した、
これが後の扶桑の軍隊にも影響することになるとは、この時まだ誰も思ってもいなかった、
アメリゴ近郊の制海権とルイジアナの権利をかけてこの戦争は1814年に辛くも米国が勝利した、
誕生間もない新興国の奇跡であった、
そして内部情勢の悪化の一途をたどる八洲はついに1819年に転換期を迎えた、
文化維新である、
腐った江戸幕府を倒すべく九州や扶桑の武士が立ち上がったのだ、
こうして八洲は内乱期に突入してしまった、
江戸幕府最後の英断は、アラスカ購入であった、
内乱で大変なのは何も八洲だけではなかった、
お隣の老大国清国も欧州列強によって次々と陥落し、
それを見かねた民衆が立ち上がったのだ、
文化維新の後に米国でも国が真っ二つに割れる内乱があった、
時期が重なるようにして扶桑とアメリゴを繋ぐ大陸横断鉄道が開通、
これによりさらに物資などの流通が簡単になった、
さらに欧州では1700年代から引きずる形であっちこっちで革命や対立が発生したりしていた、
そしてこの時期になってくるとアングリアはアジア侵出を開始、
八洲新政府はアングリアと同盟を締結し、その海軍力を見習った、
この時、国の再編成と軍の再編成と新政府は急がしかった、
1819年、大八洲皇国と扶桑帝国が成立、同時に大八洲皇国憲法と扶桑帝国憲法が制定された、
軍も再編成され皇国軍と帝国軍と二つに分かれた、
皇国軍は国土防衛のため海軍戦力の充実化と陸軍予算の削減と陸軍を廃止し陸戦隊とした、
海軍のは特別陸戦隊と呼ばれ区別されていた、
もっとも、帝国軍は第二次米諳戦争の男手不足の影響を引きずる形で女子しか入ってこなかった、
男はその一家の大事な働き手である、これなら働き手にもならない女を外に出して稼がせた方が家庭が安定すると言うものだった、
それにクーデターで出来た政府はやはりクーデターを恐れたゆえに反逆されないようにとの意味もこもっている、
つまり女子よりも男子が強いから皇国は安全だと言う感じであり、
そのためか、男子が帝国軍に入ろうとすれば皇国から息のかかった試験官が皇国軍送りにしているのが現状だった、
もっとも、帝国軍に入る男子なんて本の一握りしか居なかったのも事実だったし、
少数がゆえに対応も楽だったということもある、
1800年代後半、ロシアの南下政策に警戒する形でアングリアが八洲と扶桑との同盟を強化、
さらに植民地をアジアへ広げた、
そして老大国の清も度重なる内乱と侵略で限界を迎えていた、
そして、清国と八洲、扶桑との開戦である、
列強が西からやってくるのなら東へと生存権を広げればいいと言う安直な考え方だった、
この戦争でついに清は力尽きた、
東洋一の堅艦である戦艦鎮遠も八洲に鹵獲された、
これには支援をしていたプロイセン帝国は当然のことながら唖然としてしまった、
思えばこの頃から中国とゲルマンのいざこざは始まっていたのかもしれない、
そして、アングリアとの再度の同盟強化とともに八露戦争が始まった、
扶桑も参加しアメリゴもこれに参加するべく派兵を行うも、海軍戦力の太平洋への投入が困難なことに解決策を模索していた、
そして始まったのがパナマ運河の建設だった、
この八露戦争のどさくさにまぎれてプロイセンは中国の領土獲得に必死になっていた、
ライバルであるアングリアは極東へ意識を集中していたのもありなんとか気づかれずに済んでいた、
この時、扶桑の旗艦鎮遠も参加して居た、
扶桑帝国海軍が旧式の戦闘艦艇ばかりではあったのには理由があった、
鋼鉄艦の建造は数えるほどしかない上に本国から旧式艦艇をもらえるからだ、
まとめていえば警備程度なら旧式でも十分だろというものだったが、後にこの考え方を改める事件が起こることになった、
忘れてはならないのがこの八露戦争が世界が始めて経験した近代戦争であったということだ、
陸戦では局地的に扶桑は敗北を重ね、さらに商船護衛においてロシアの艦隊に撃ち負ける事が多発し、
扶桑の軍上層部は改革を迫られていた、おまけに女子が兵隊だったと言うこともあり捕虜が陵辱されていた事はロシアと扶桑ともに頭がいたい話だった、
おまけにロシアは国内に内乱の兆しが見え隠れすることもあり中々集中する事が出来なかった、
同盟を組んでいたガリアやプロイセンからもまったく連絡が無かった、
最も扶桑に衝撃を与えたのは黄海海戦だった、旗艦鎮遠以外全て大破または撃沈、鎮遠も中破した、
生還した艦艇の甲板上はまさに負傷者の地獄絵図であり、
この政策を行った本国の八洲でさえ沈黙を貫き扶桑帝国軍関連の情報には報道管制を布いたほどだった、
これを受け扶桑の軍部は改革をすることにし、造船所の整備を各地に打診、
こうして近代海軍の整備をしていくことになるのはこの戦争が終わってからだった、
これに違う形で衝撃を受けたのが八洲皇国軍上層部だった、
旧式艦艇の処分と割り切れられればいいが、今は一隻でも戦力がほしかった、
ゆえに旧式艦艇ばかり渡していたことに後悔していた、
そして運命の1905年5月27日、
八洲海海戦が勃発した、
扶桑海軍旗艦は当時世界最大の戦艦、敷島型の初瀬を先頭に主砲換装を行った鎮遠、その後方に巡洋艦など、
さらにこの戦争を通して奇跡の獅子奮迅を演じた水雷艇からなる水雷戦隊だ、
商船護衛にもかかわらず扶桑の大型艦艇が沈められていく中、
通商破壊を行う相手のロシア戦艦や巡洋艦に幾度と無く肉薄した猛者達である、
この海戦で皇国海軍の長官東郷平八郎が丁字ターンを見事に決め、
圧倒的なまでに敵ロシアのバルチック艦隊を叩きのめした、
この時の鎮遠の獅子奮迅ぶりも中々に興味があるが、これはまたいつか別の機会に語ろう、
こうしてロシアとポーツマスで講和、この戦争は終結した、
世界初の近代戦は終わった、
大陸においての利権、樺太および沿海州の譲渡などであった、
こうして八洲は大陸への玄関口を獲得しその地を瑞穂となずけた、
しかし、この瑞穂自治国が認められるのは第二次欧州動乱の後だった、
第二次欧州動乱は確実に一歩一歩迫っていた、
1911年、1912年、孫文を頂点とする辛亥革命が勃発、翌年清国が滅亡し中華民国が建国された、
プロイセン帝国も中国の利権をめぐって対立した、
プロイセンの中国進出に警戒したヨーロッパ諸国は同盟関係を強めていくのだった、
こうして、第二次欧州動乱への第一歩が踏み出された、




