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アイよりいでて

作者: 瀬川潮

 街の名士で富豪のアーバインが十五歳年下のセリシアに恋をした時、魔物や怪物が住むという妖魔の森に行くことを決心した。

 セリシアは十五歳。しかし、ここ三年間王立病院の病床にずうっと寝たままで、一度も目を開けたことがないのだ。

 アーバインは、彼女が目を開けたところを見たことがないが、聡明なターコイズブルーの瞳で、かげるように目を細めて微笑するであろうことを知っている。実際に彼女を見たのはごく最近だが、彼が彼女を見染めたのは十五年前と言っていいだろう。

 アーバインとセリシアの面会に立ち会ったのは、三十五歳の女性だった。聡明なターコイズブルーの瞳で、セリシアの身を案じている。十五年前に、アーバインに絵画を教えた家庭教師だ。

 当時十五歳のアーバインは、セリシアの母親たる女性に会って初めて恋心を抱いた。まじめで実直だった彼にとって神聖な初恋はしかし、どこの誰とも知らない駆け出しの青年実業家によって踏みにじられた。セリシアの母親と青年実業家は結婚し、純真だったアーバインは永遠に絵筆を折った。

 そればかりではない。

 恋に敗れたアーバインは、その実業家を越えるべく、実業界へとその一歩を踏み出した。

 才があったかアーバイン。悪知恵を働かせ、卑劣な策を弄し、あくどいことを繰り返しながらのし上がった。憎き青年実業家は若くして他界し見返してやることはできなかったが、自身はいつの間にか巨富を手にしていた。初恋の相手のことは日々の慌ただしさですっかり忘れさっていたが、他の女性を愛するという気持ちは起きなかった。これまで独身を貫くことになる。あるいは、初恋に強烈にこだわっていたといえるかもしれない。

 とにかく、偶然社交パーティーで再会を果たしたアーバインとセリシアの母親は十五年振りに言葉を交し、彼はセリシアの存在と病気を知った。恋敵と初恋の相手の娘ということで、初めは乗り気ではなかった彼だが、母親似のセリシアを見て人生二度目の恋に落ちた。

 王立病院の診断によると、セリシアは原因不明の難病で、回復する見込みは限りなくゼロに近いという。アーバインが金に糸目をつけないと申し出ても、返事は変わらなかった。

 そんな彼の熱意に負けたか、ある医者がぽつりとこぼした。

「もし、金に糸目をつけないのなら、軍隊を組織して妖魔の森を目指した方がまだ見込みがある」

 妖魔の森。

 もちろん、彼は聞いたことがある。場所は不明だが、伝説は有名だ。

「この国の初代国王が建国の願いをしたという、あの伝説か?」

 アーバインの言葉に、医者は肯いた。

 この大陸の北方のどこかにある、魔物や化け物の巣窟となっている森には、気まぐれで人間の願いを三つ叶えてくれるという魔物がいるという。大陸全土をまきこんだ戦争中に、敗色が濃くなったある小国の将軍が、敵の裏を突くため遊撃隊を組織して妖魔の森に突入したところ、大冒険と大被害の末にその魔物が住む虹の湖にたどり着き、戦争の終結と統一国家の建国、自らがその国の王になることを願った。それがアーバインの言う「あの伝説」で、そのときの将軍が、この国の初代国王ということだ。もちろん、伝説にすぎないのだが。

「ふざけるな。伝説の再現など不可能に決まっている」

「初代国王は伝説とはいえ、不可能を可能にした。現代医学には伝説も無いし、残念ながら不可能は不可能なままだ。こうして点滴で栄養を送り続け、命を永らえながら彼女の意思で起きるのを待つしかない」

 アーバインと医者は激しく言いあった。

 結局、アーバインは資産の大半を投じて軍隊を組織し、妖魔の森へと進軍した。無論、軍は自身が率いた。もしも無事にたどり着いた場合、自分がいなければ部下達は好きな願いを口にするだろう。人が信用に値しない生物であると、十五年前に心に刻んでいる。彼のシアンブルーの瞳が濁り始めたのは、この頃だからだ。

 大金をはたいて情報収集をしたかいがあり、明確な場所も知られていない妖魔の森にたどり着くことには成功した。しかしそれは悲劇の幕開けでしかなかった。

 森に入った途端、強酸ナメクジの襲撃に遭い部隊の半数が生きながら溶かされて奴らの餌となった。

 濃密な霧にまかれたかと思うと、次々に剣士たちの姿が悲鳴だけを残し消えた。

 有毒ガスをまき散らす吸血コウモリの大群にも、苦戦した。

 部隊は数えるほどの人数になったが、アーバインのこれまで鍛えた悪知恵、機転、卑劣な策は全滅から部隊を救っていた。食料の塩で強酸ナメクジは撃退できたし、松明の火で濃霧を晴らしてそこが人食いワームの竪穴の巣窟だと看破し、合図用の太鼓を叩いて有毒吸血コウモリを混乱させた。

 しかし、いつの間にか部隊はアーバイン一人を残し全滅していた。

 もっとも、ここからのアーバインはしぶとかった。

「絶対に生き残る! 実業界の険しさ、金の厳しさに比べればこれぐらい」

 右に左に必死に剣を振るい、吠える。襲ってきた巨大な昆虫が次々に倒れる。

 剣だけではない。実業界で生き残り、ひと財産を築いた悪知恵はこの森でも十分通用した。知力のある悪魔には、正々堂々と剣での勝負を挑んでおきながら残しておいた聖水をぶっかけて逃げ出し、力だけののろまな化け物には茂みに隠れながら火を付けて回りどさくさにまぎれて逃げるなど、卑劣きわまる手を繰り返す。どちらが魔物か分からない所行だ。

 やがて、アーバインは中央に虹のかかる湖に出くわした。きらきらと光が乱舞する楽園のような光景は、彼の薄汚れた心をきれいに洗い流す。十五歳の時には、画家を目指したことのあるアーバインだ。感受性溢れる、若き日の瞳の輝きを取り戻し言葉無く幻想的な湖に見とれた。

 来客の気配に気付いたのか、湖の主が湖面から姿を現した。上半身が抜けるような白い肌をした人魚だ。たわわな双曲を描く乳房を薄衣が一部かろうじて隠している。下半身の尾びれでぴしゃんと水面をはね上げ、淡いアクアブルーの目でアーバインを見た。

「ほう、珍しい。人間の来訪は五百年振りか」

 人魚はきらめくアクアブルーの長髪に手を添え、撫でるように背中に回しながら言った。

「どうした。驚きで声も出んか? 純真な希望や夢、願いを持つ者しかここにはたどり着けん。どういうつもりでこの森に入ったか知らんが、ここに来たからには願いを三つ叶えてやる。なくてもいいから、思いつくことを言ってみよ」

 あまりに神話的な場面に出くわし石像のように身を固めてしまったアーバインに、人魚は薄く笑い掛ける。

「あ、あの……」

「ん。分かった」

 実業界では決して見せることの無かった、彼のとまどい。いくら待ってもまともな言葉は出てこないと感じたのか、人魚は彼の言葉をさえぎった。

「セリシアとかいう娘の病を治せばよいのだな」

 ぱっと明るい表情をして、アーバインはこくこくと肯いた。

「ん? 二つ目は、その娘と恋仲になりたい、と」

 今度はまるで恋に疎い十五歳の若者のように顔を真っ赤にすると、小さくひとつ、肯いた。

「よし、叶えよう。……が、それだけか。一応、三つ叶えてやりたいのだがな。何か、ないか?」

 人魚の言葉に目を丸くするアーバイン。セリシアと付き合うため、身に着いた悪知恵や卑劣な心、あくどさを捨て去りたいとは思ったが、幻想的な風景を目の当たりにし、すでに生まれ変わったように心が洗われていた。そこに立っていたのは、すでに純真な心を持つ十五年前の彼だった。

「そうだな。それはもう願う必要なく自ら手に入れている。他には?」

「そ、それじゃあ」

 初めて、アーバインはまともな言葉をしゃべった。

「それじゃあ、私に上等な絵筆を下さい」

 頬をうっすら染めている。

「分かった。では、私の髪の毛を束ねた筆をやろう」

 折れた剣を捨てたアーバインの手のひらに、アクアブルーの鮮やかな筆が現れた。これで十五年前が取り戻せるとばかりに、両手で握って胸に抱きしめる。

「人間よ、楽しいひとときだったぞ。私は眠る。お前も帰るがいい。願った娘が待っている」

 それだけ言って、人魚は姿を消した。絵筆を握ったアーバインは、帰ってからこの場所を絵にするんだとばかりにもう一度まわりの光景をしっかりと目に焼き付けた。若き日の、シアンブルーの輝きを取り戻した瞳に。

 そして、悪知恵や卑劣な心、あくどさを捨て去り若き日の自分に生まれ変わった彼は、帰途へ就いた。目覚めたセリシアが待つ王国に向け、魔物がうごめく妖魔の森へと。

 彼は、自分の甘さにまだ気付かない。



   おしまい

 ふらっと、瀨川です。


 他サイトの三題縛り企画で執筆・発表した旧作品です。

 もう三つの縛りは思い出せないですね。「三つの願いを叶える」だけは覚えていますが。

(調べてみると2005年の作品でした。読んだことのある人は「懐かしいな」と思っていただければ)

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