六十七話 巡ル銀ノ想
クアラリエスは再びゆっくりと腕を動かし、雷華に手を差し伸べた。
「我に触れるがよい」
血の通っていない作りもののように白い手を握る。ただそれだけ。ただそれだけの行為で、世界が変わる。雷華の存在は消え去り、この世界は二十六年前から、今とは違った歴史を歩むことになる。
「……ええ」
「待て、ライカ!」
「ライカ、お願い! 行かないで!」
頷いてクアラリエスの方を向こうとする雷華の手をルークとロウジュが握り、彼女の動きを止めた。双子やクレイも、待ってと叫びながら雷華に近づいてくる。
「どうしてだ! どうして他の道を選ばなかった! 証を残したかったのではないのか! 記憶にしか残らないのは寂しいと言っていたではないか! お前の選んだ答えは、証も記憶も何もかもが消えるのだぞ!」
「俺は嫌だ。ライカと離れるのも、ライカのことを忘れるのも。こんなに好きなのに……ずっと傍にいてよ、ライカ」
「ライカ姐のこと忘れるなんて嫌っすよ! 覚えていたいっす!」
「ライカ、お前本当にそれでいいのかよ!? 俺は自分の記憶が変わるなんて嫌だぜ!」
黒と紫の瞳が必死に訴えてくる。行くな、引き返せと。茶色の瞳が懇願してくる。止めてくれと。残りの瞳と眼を合わせても、皆同じように訴えてきた。国を護るために改変を望むと言ったエルでさえも。キールとマールは大粒の涙をいくつも零していた。
雷華の心はこれ以上ないほど、幸福を感じた。自分は幸せだと思った。そして、自分の答えが間違っていなかったとも。
「ルーク、ロウジュ、皆……ありがとう。本当にありがとう」
この世界を壊したくない。世界を犠牲にして誰かと二人きりで悠久を生きたくない。戦なんて起きて欲しくない。皆には幸せに生きていてほしい。
「私、《選定者》で良かった。皆と出逢えて良かった」
そう言ってにこりと笑った雷華の瞳から、一滴の涙が零れ落ちた。一瞬の煌きを残して雫は地面に吸い込まれていく。
彼女の涙に動揺する、ルークとロウジュ。雷華はその隙を逃さなかった。掴まれていた手を振りほどき、クアラリエスの真白な手を握る。その瞬間、銀色の光が広間に広がった。
「ライカ!?」
「ライカちゃん!」
「ライカさん!」
「私がこの世界にいたっていう証はきっと残る! 私、皆のこと絶対に思い出すから――!」
光は瞬く間に極彩の森を包み込み、世界全体を飲み込んでいった。世界の刻が止まり、世界から色が消えてゆく。
別れの言葉もない。抱擁も握手もない。あまりにも唐突な幕切れ。だが、それでよかった。何故なら、これは別れではないと、新たな可能性の始まりだと、そう信じていたから。
クアラリエスの冷たくも温かくもない手を握っているのと反対の手で、雷華は胸元の“親愛の証”に触れた。
(記憶は無くなっても、心が覚えているわ)
「……絆、か」
――羨ましい。
呟きとともにクアラリエスの心の声が、手から伝わってきた。そして眼鏡をかけていないのに一瞬だけ見えた気がした。白と黒ではない彼の姿が。
人間とは異なる存在の彼から聞こえてきた、人間らしい感情。
『我の力に耐えうるためには、人の子の器を捨て、我と同様の存在になる他ない。そのためには我の世界に生きる人の子の半数、共に在る存在を要するならば、さらに半数』
クアラリエスの言葉が脳裏をよぎる。この世界で生きるためには彼と同様の存在になるしかない。ということはつまり、
「貴方も」
いつのことなのかは分からない。もしかすると本人でさえも覚えていないかもしれない。それほどに、遠い遠い遥かな昔。彼もまた、選んでいたのだ。己の未来を。
「本当は――」
最後まで言葉を口にすることはなかった。急速に意識が薄れてゆく。自分の身体が自分のものではなくなってゆく。
雷華は光と一体となり、世界を駆け巡った。山を越え海を渡り、砂漠を抜け雪原を翔ける。その間に記憶はいくつもの欠片となり、ぱらぱらと落ちていった。雷華は朦朧とする意識の中で必死に欠片を掴もうとした。腕はすでに光と化し自分の意思では動かせないのに、覚えていたいという強い想いがそうさせた。
(絶対に、絶対に――)
全てを巡った雷華は銀色の光とともに消え、クアラリエスの世界は、何事もなかったかのように色を取り戻し、動き始めた。
雷華という一人の人間を忘れて。
「……ちゃん、……ちゃん」
遠くから誰かに呼ばれている。懐かしい、久しぶりに聞く声。
「雷華ちゃん、聞いているかい?」
「……えっ? あ、おじさん」
はっ、となって振り向くとそこには見慣れた武道具店の店主がいた。そうだ、今日は非番で、破れた竹刀袋を買いに来たのだ。
「大丈夫かい? 戻ってきたら、木刀持ったままぼうっと立ってて、いくら呼んでも返事がないし。仕事のし過ぎなんじゃないのかい」
「木刀……?」
言われて手元に眼をやると、確かに木刀を握っていた。店の売り物のはずなのに、何故かずっと使っていたような気がする。これを持って自分は誰かといたような気がする。大切な、とても大切な誰かと。
「ライカちゃん!? どうしたんだい!?」
店主がぎょっした顔になって、手に持っていた竹刀袋を落とした。雷華は彼が何に驚いているのか分からず首を傾げる。
「何がですか?」
「何がって、辛いことがあったのなら聞くよ?」
「別に辛いことなんて……あれ、私、泣いてる? どうして? 何も泣く理由なんてないはずなのに」
幾粒もの涙が床に落ちて小さな小さな水溜りを作っていく。哀しいことなど何もない。ただ自分はここに竹刀袋を買いに来ただけ。それなのに何故か涙は止まらず、雷華の頬を濡らし続けた。




