四十八話 熱イ息ト唇
手首に光る紅い石を大事そうに撫でながら、ロウジュは自分の部屋へと戻っていった。去り際に、「さっさと犬に戻れ」と言い放って。
ロウジュを睨みつけていたルークだったが、扉が閉められた瞬間、ベッドに腰掛けていた雷華の両脇に手を置き、苛立ちを露わにして彼女に詰め寄った。かけられた重みでベッドが軋んだ音を立てる。
「ライカ! 何故あいつに渡したのだ!」
「いいじゃないの、三人お揃いで」
身体を反らしてルークから離れるが、その分をすぐに彼が埋めてくるので二人の距離は変わらない。
「良くない」
「……私がこの世界にいたという証を残したかったのよ、貴方たち二人に」
誤魔化せないと悟った雷華は仕方なく本当の理由を口にした。言うつもりなどなかったのだ。もし言うとすれば、それは旅の終わりだと思っていた。
「帰る、つもりなのか。元いた世界に」
怒りと哀しみと戸惑いが入り混じったルークの顔。彼のそんな顔は見たくない。だが、させているのは自分の言葉。雷華の胸がちくりと痛む。
「分からない。帰れるのかどうかも含めて、この旅がどんな終わりを迎えるのか。『黎明と黄昏』に書いてあったことが本当なら、私は自分の世界に帰るはず。そうなったとき、私がここにいたという証が皆の記憶にしか残らないのは、少し淋しいと思ったの」
繋がりが欲しかったのだ。元の世界に帰ったとしても、この世界とたしかに繋がっていたのだと思える何かが。
しかし、ルークは雷華の答えに声を荒げて反発した。
「違う。俺が訊きたいのそんなことではない! 帰りたいのかと訊いているのだ」
「………………分からない。私の意志に関係なく強制的に帰らされる可能性だって十分にある。でももし、選べると言われたら……私には選べないかもしれない」
長い沈黙の後、顔を歪めながら雷華は口を開く。
どちらの世界も大切な存在となってしまった。生まれ育った世界を捨てることも、愛しいと思える人がいる世界と別れることも、どちらも同じくらい難しい。今や天秤に載っているのは、ルークとロウジュではなく、元の世界とこの世界とになっている。それは常に揺れ続け、一方に傾くことがない。
「今ここで、俺という存在をお前の身体に刻みつければ、この世界にいてくれるのか」
限界まで顔を近付けて、ルークが訊いてくる。唇が触れ合う寸前のぎりぎりの距離。お互いの吐息が、顔にかかり混じり合う。どうしようもなく甘美で、どうしようもなく切ないルークの言葉と表情に、思わず頷きたくなった。その行為が、もし帰るとなったとき、どれほどの重みになるか頭では十分理解してはいても。
だが、雷華が何かを言う前にルークはベッドを軋ませていた手を離した。身を起こし、扉の方へと歩いていく。
「すまない……頭を冷やしてくる」
そう言ってルークは部屋の外へと消えていった。はぁ、と深い溜息が零れる。
「ごめんなさい、ルーク」
一人になった部屋で雷華は呟く。軋んでいたのはベッドだけではない。雷華の心もまた軋み、悲鳴を上げていた。そして、彼の心も叫んでいたはずだ。何故、私と貴方は、俺とお前は、同じ世界に生まれなかったのだ、と。
夜が明けてもルークは部屋に戻って来なかった。
「ええっと、忘れ物はないわね。それじゃあ行きましょうか、と言いたいところなんだけど」
翌朝、さて港に出発というところで雷華は待ったをかけた。
ルークはどうやらリオンのところに行っていたらしく、朝食後に聖師が神々しい笑みを浮かべて服を持って来た。
黒犬の姿となっていた第二王子は最初、雷華に近づくことを躊躇っていたが、リオンに笑顔で蹴り飛ばされ、よろめきながら傍に寄ってきた。多少ぎくしゃくしながらも朝の挨拶を交わし、一緒に『海辺の誘惑』を出る。
そこにはすでに皆が揃っていたのだが……問題が一つ。
「ねえ、どうしてディーもエルさんもそんなに荷物持ってるの? ヴィシュリは?」
昨日まで身軽だったディーとエルが、そこそこ大きな革袋――明らかに長旅用――を持っていた。さらに――ディーは城を発つときからだが――エルまでもが騎士の服ではなくなっている。
「そんなの俺もヴィトニルに行くからに決まってるじゃないの」
「微力ながら私もお供させて頂きます。ヴィシュリは姫鳥で連絡していた同僚の騎士に、先ほど迎えに来てもらいました」
「……そうですか。ありがとうございます、エルさん。じゃ、ディー案内よろしく」
一国の将軍がそんなにあちこちふらふらしていていいのかとか、同僚の騎士にいつの間に連絡していたのだとか、色々訊きたいことが頭に浮かんだが、訊いたところで結局一緒に行くことに変わりはないのだろうから、何も言わないのが吉だと判断した雷華は軽く流すことにした。朝から余計な体力は使いたくない。地面に置いていた皮袋をよいしょと担ぎ、港がある方へと歩き出す。
「ライカ姐、荷物持つっすよ」
「ありがとうキール。でも大丈夫よ」
「荒れた天気にならなくて良かったですねー」
「そうですね。このまま晴れが続いてくれればいいのですが」
「何故俺がお前の分まで持たなくてはならんのだ」
「貴方は私の助手兼護衛ですから」
「…………」
雷華とルーク、それにキール、マールとエル、リオンとロウジュがそれぞれ並んで歩く。
「えっ、ちょっとなんか扱いが軽くない? 待って待って、ライカちゃん船がどれか知らないでしょ」
置いてきぼりにされたディーが、大剣と皮袋を持って慌てて追ってきた。あっという間に四人を追い越し雷華の隣まで来る。地面近くでルークが牙を剥き出しにしてディーを睨んでいる。
ザーラグの住人は雷華たち一行を一体何の集団だと思うだろう。すれ違う人は大抵奇異な視線を向けてくる。だが、雷華は嬉しかった。年齢も出身国も生い立ちも違う人間が肩を並べて歩いているというのは、実はとても凄いことなのではないかと思うからだ。
(貴方もこんな風に多くの人に助けられたのね、シトー。私と同じ《白き神の宿命を持つ者》だった人。貴方は何を思って己のいた世界に戻ったの?)




