四十四話 死ニ向ク瞳
夜二の刻、深々と冷たい廊下を歩き、女王の私室へと入る。ふわりと身を包みこむ暖かさに、雷華は知らず息を吐いた。
執務机には女王シェラルダが座り、すぐ隣には姉のエレミヤが寄り添うように立っている。侍女のニアザの姿はない。雷華たちをこの部屋まで案内してくれた侍従のバフマーも、中には入ってこなかった。
「ルークウェル王子、このような夜更けにお呼び立てして申し訳ありません」
「気になさる必要はありません。私も陛下にお話したいことがありますので。それで、用件とは凍土の地のことでしょうか」
正装に身を包んだ人間の姿のルークが、シェラルダに話を促す。雷華とリオンは一歩下がった場所に並んで立っている。ロウジュはさらに一歩下がったルークの真後ろに、ディーは部屋の扉の前に控えていた。エルはこの場には来ていない。
「ええ、そうです。何か分かりましたか?」
「結論から言えば、もう凍土の地が広がることはないかと。その代わり、あの場所に生息している獣が凶暴化する可能性があります。気候の変動による影響かと考えられますが確証はありません。詳しくは後ほどヴェルク将軍にお聞き下さい」
シェラルダは、目線を動かしてディーを一瞥すると、眼を閉じてゆっくりと頷いた。
「……本当に感謝します。私たちはあの地の調査を止めるべきではありませんでした。結果が得られなかったからと、広がりを止めることは不可能だと、すぐに結論付けて別の道を進むことしか考えなかった。あのとき諦めなければ、また違う結末を迎えていたかもしれません。心から後悔しています。それと……今回のことで貴女には多大な迷惑をかけてしまいました。国を存続、繁栄させるためだとはいえ、私は重大な過ちを犯すところでした。どうか許して下さい、ライカ」
初めて名を自分の名を呼んだことに少々驚いたが、それが彼女が本当に反省している証だと雷華には思えた。シェラルダに続いて、エレミヤも口を開く。
「妾からも謝罪する。そしてこの国に光をもたらしてくれたこと、感謝してもしきれぬ」
「女王様もエレミヤ様も、謝る必要なんてありません。確かに攫われたときは、納得出来ませんでしたし驚きもしましたけど。私は自分が出来ることをしただけですから」
一国の王とその姉に頭を下げられ、慌てた雷華は大仰な手振りをしながら早口で喋る。それを見たリオンが隣でふっと微笑んだ。
しばらく会話し、明日には発つことを告げ、雷華たちは女王の執務室を後にした。エレミヤから何度も城に残ってほしいと言われたが、自分にはやらなければならないことがあるからと断った。姉妹の力を合わせればきっとクルディアは良い国になる、と付け足して。
先に部屋に戻ると言ったリオンと別れ、薄暗い廊下を歩き広い階段を下りて、月の見える回廊を進み、雷華は一つの扉の前で立ち止まった。後ろにいるルークとロウジュ、ディーに一人で入ると言い、深呼吸をして扉の取っ手に手をかける。
部屋の中は、つんとする匂いで充満していた。あまり良い匂いとは言えない薬の匂い。そう広くない部屋の真ん中に置かれたベッドに近づき、そっと声をかけた。
「ミレイユさん」
雷華の声に反応して、ベッドに横たわる人物の眼が薄く開かれる。
「神子……いえ、ライカさん」
「意識を取り戻したって聞いて。本当に良かった」
「良くありません。どうして助けたりなんかしたんですか。私は助かりたくなんてなかった。生きていたってもう何の意味もないのに」
光の宿らない濁った眼で、ミレイユは雷華を睨む。全てに絶望し、諦めきった表情。意識を取り戻し、死ねなかったことが分かると、彼女は護衛兼監視役として付いていたフォレスの剣を奪って、もう一度自殺を図ろうとしたと、ディーが言っていた。
「意味ならあるわ。貴女はまだ自分の気持ちを伝えていないのでしょう?」
ベッド脇の椅子に腰かけ、優しく語りかける。今日来たのは、死にしか向いていない彼女の眼を、生に向けさせたかったからだ。
「ど、うして、それを」
掠れた声でそう言うと、ミレイユは激しく咳きこんだ。上半身を起こすのを手伝い、脇に置いてあった水差しからグラスに水を注ぎ、彼女に手渡す。背中をさすってやれば、徐々に落ち着きを取り戻していった。中身が半分ほど減ったグラスを受け取り、再び彼女を横たわらせてから、雷華は静かに口を開く。
「後悔のないように生きるのはとても難しいわよね。私だっていっぱい後悔しているし、迷っていることだってたくさんある。でも、それが人間なのよ。楽しいだけの人生なんて、そんなの嘘っぱちだわ。辛いことや哀しいことがあって、幸せだと思えることもあって、それら全てが生きてるってことだと思うの。ミレイユさん、生きることを途中で投げ出したりしないで。貴女には背負うべきものがあるはずよ」
「……シルグさん」
ミレイユの口から、かつて共に行動した仲間の名前が零れる。
「そうね、貴女が奪った命もそう。だけど、それだけじゃないわ」
「他に何があるというの」
「公爵を支える。その役目も背負ってもらわなくては。彼に今必要なのは貴女だと、私は思うわ」
「な……」
会えるのは罪を償ったあとになると思うけど、という雷華の言葉を聞いているのか否か、ミレイユは眼を見開いたまま動かなくなってしまった。口を半開きにして虚空を見つめている。雷華はただ黙って彼女を見ていた。
「……あの方は、私を用なしだと仰いました」
ぽたり。言葉とともにミレイユの瞳から涙が零れ落ちる。彼女の瞳にはうっすらと光が宿っていた。
「そうね。でも、好きなのでしょう? アドラーレのことが」
過去を見たとき、雷華は知ったのだ。彼女の公爵に対する想いを。ミレイユは、主としてではなく、異性としてアドラーレを見ていた。絶対に叶わぬ恋だと自らに言い聞かせ、暗い部屋で一人涙を流す彼女の姿は、見ているこちらが辛くなるほど痛々しかった。
「本当に何でもお見通しなのですね……そうです、ずっとお慕いしていました。二十年前、道端にごみのように捨てられていた私を拾って下さったときから。あの方は、とても大切に想っていた年の離れた妹君を病で亡くされたばかりでした」
『……を助けてくれなかった神を信じる国なんか滅べばいいんだ!』
謁見の間でのアドラーレの言葉が脳裏に甦る。あれは、妹のことだったのだ。
「私はその妹君と少し似ていたらしく、あの方はとても優しくして下さいました。この王都ではなく、公爵家の領地の一つであるリコという小さな村の長老に私を預け、公務の合間に様子を見に来てくれたりして。とても、とても幸せでした」
溢れる涙を拭おうともせずに、ミレイユは話し続ける。
「大きくなった私は、軍に入りました。あの方の役に立ちたかった。何より傍にいたかった。あの方に命を下されるたび、私は喜びで身体が打ち震えました。下された命がどんなものであれ、私は躊躇うことなく遂行しました。必要とされている、ということがこの上ない幸せだったんです。エレミヤ様と婚姻関係にあっても、一番必要とされているのはこの私だと思えたからこそ、何でもすることが出来た。貴女を殺すこと以外は……。お役に立てなかった私を、一度は用なしだと言われた私を、あの方はまだ必要としてくれるでしょうか」
アドラーレにはおそらく厳しい処分が下されるだろう。爵位の剥奪や領地の没収などはもちろんだが、一生軟禁生活ということも十分に考えられる。そうなったとき、彼の傍にいるのは、妻であるエレミヤではなく、彼を想って涙を流すミレイユが相応しいのではないか。そう雷華は思った。
「ええ、きっと」
ミレイユの青白い手をぎゅっと握った雷華は、彼女の眼を見てしっかりと頷いた。




