四十三話 迷イ惑ウ道
「嘘でしょ!? ディーー!」
「ライカ、危ない。落ちる」
ヴィシュリの背から身を乗り出して下を見ようとすると、ロウジュに腰に手を回され、ぐいと引き戻される。
金縛魚の耳障りな甲高い鳴き声が遥か下から聞こえてくる。高度を幾分下げていたとはいえ、落ちて助かるような高さではない。まさか、自分たちを護るために身を挺したとでも? あり得ない。絶対にあり得ない。雷華は、震える自らの身体を抱きしめ、浮かんでくる考えを否定し続けた。
「落ち着け、ライカ。あそこを見てみろ」
「どこ…………あ」
ルークが鼻先で示す方向にのろのろと眼を向ける。するとそこには、地上に不規則に生えている木の頂で手を振るディーの姿があった。安堵で身体中から力が抜ける。彼の足元では、木に串刺しとなった金縛魚が、赤い血を地面に滴らせていた。
「どうやら、ヴェルク将軍殿は無事のようですね」
前からリオンが息を吐く音が聞こえてくる。
「今、近づきます」
手綱を操りエルが木にヴィシュリを近付けさせると、ディーは軽く跳躍して翼竜の鈍色の背に着地した。彼の表情は、心配したこちらが馬鹿なのではないかと思えるほど、楽しそうだ。鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気の将軍に、反動で怒りが湧いてくる。
「いやあ、空から落ちるって結構気持ちいいもんだねえ、ってどうしたの、ライカちゃん、ぷるぷる震えて。もしかして寒いの? だったら、おっさんが――」
「もう一遍落ちて来いっ!」
雷華の渾身の怒りの一撃がディーの顎に命中した。
「うぐぉっ! な、なんで……」
「ああ、暖房の効いた部屋ってなんて暖かいのかしら」
王都エクタヴァナに戻ってきた雷華は、城の一角にある自分に宛がわれた部屋に入るなり、うっとりとした表情で暖炉に近づいた。
「ま、ゆっくりしなさいな。ミレイユの容体は俺が聞いてくるから」
「よろしくね」
扉を閉めるディーにひらひらと手を振って見送る。廊下から「騎士の兄さんはこっちの部屋ね」という声が聞こえてきたが、すぐに静かになった。
防寒着を脱ぎ、ベッドに仰向けに倒れ込む。眼を閉じればすぐにでも眠りが訪れるに違いない。それほどに身体は疲れ切っていた。行きと同じ雪山の洞窟で休みはしたものの、寒くてほとんど眠れていないのだ。しかし、もう少ししたら女王の使いが呼びに来ることになっている。夜も大分更けており、出来ることなら明日にしてほしかったが、泊まらせてもらっている身としては、断ることも躊躇われた。
「ライカ、眠るのか?」
「ううん。眠いけどね、ふわぁぁ」
欠伸をしながら雷華は身を起こしてベッドの上にちょこんと座るルークの頭を撫でる。そして、同じくベッドの淵に腰掛けるロウジュを見た。
「そうだ。私、二人に言い忘れていたことがある」
立ち上ってくるりと振り向く。この城で再会してからずっと言いそびれていた言葉。目まぐるしく動く刻の中に、置き去りにしそうになった、雷華の思い。
「何だ?」
「何?」
「来てくれてありがとう。本当は真っ先に言わないといけなかったのに、こんなに遅くなってしまってごめんなさい。本当に嬉しかったわ」
黒と紫の瞳に見つめられながら雷華は頭を下げ、そうしてにこりと微笑んだ。
「いや……当然だろう、むしろ来るのが遅くなってしまってすまなかった」
「ライカが無事で良かった」
ロウジュに抱きつかれ、よろめきながらも受け止める。彼から離れると、雷華は屈んでルークの眉間に唇を落とした。一瞬びくっとなった王子だが、世にも奇妙な顔でしばらく固まった後、雷華に鼻先を近付けぺろりと彼女の頬を舐めた。
「ライカ、俺にもキスして」
「はいはい」
ロウジュの頬に唇で軽く触れる。感謝のしるし。向けられるのは愛情なのに、同じように返してあげられないことに胸がちくりと痛む。受け入れる努力はすると言ったものの、いざとなると二の足を踏んでしまう。深みにはまることが怖いのだ。今でもすでに、帰りたいと思う気持ちが薄れているのに、これ以上二人の想いに応えたら――
(先のことを考えずにいられたらどれだけいいか)
《色のない神》に逢い、ルークを完全に人間の姿に戻してもらえば、自分の役目は終わりだ。元の世界に帰ることになるだろう。そして、旅の終わりはもうすぐそこまで来ている。残り少ない日を、後悔のないように過ごさなくては。誰もが幸せな結末を迎えられなくても、それでも悔いは残したくない。
(でも……私はまだ迷っている)
ずっと前から差し出されている手。取れば心は満たされるだろう。これ以上ない幸せを感じるだろう。だが、一度は掴んだ手を離すことなど出来るのか? 感じたぬくもりを失うことなど耐えられるのか?
何度自問しても、是という答えは得られなかった。




