四十二話 飛ブ金ノ魚
「ライカ、怪我はしていないか?」
「大丈夫だけど……どうして襲ってきたのかしら」
木刀を腰に差し、足元に駆け寄ってきたルークの頭を撫でる。隣ではディーがリオンから鞘を受け取っていた。
「ありがとさん。さあねえ、楔が崩れたことに怒ったんじゃないの? あいつら寒いところが好きだから」
剣を振って刃に付いた血を落とし、鞘に戻しながらディーが答える。
「なんで楔がなくなったら雪が止むことを、獣が知ってるのよ」
「適当なこと言うな」
「いえ、あながち間違いではないかもしれませんよ。獣は本能で行動すると言いますから」
そう言ってリオンは、顔にかかった髪を後ろに払い、外していたフードを被る。まだ雪は止みそうにない。雷華も彼を見習って、髪についた雪を適当に手で払ってからフードを被った。
ヴィシュリが翼をはためかせて白と赤の大地に降り立つ。エルは長弓を持ったまま、翼竜の背中から飛び降りてきた。獣は全て倒したというのに、厳しい顔つきのままだ。
「皆さん、早くここから離れた方が良さそうです」
「どういうことですか」
「遠くに小さな炎がいくつも見えました。おそらく紅燐虎ではないかと」
「なっ……」
エルの言葉に絶句する。またあんな凶暴な獣が襲ってくるというのか。
「仲間を呼んでたってことなのかねえ」
「呑気に感心してる場合じゃないわよ。ほら、早く」
緊張感の欠片もないディーの背中を叩いて、雷華はヴィシュリをよじ登る。出来ることならもう二度と戦いたくはない。先に飛び乗っていたロウジュに引っ張り上げてもらい背中に座ると、すぐにルークが後を追って来た。雷華が防寒着の前を開けると、躊躇いながらも中に入ってくる。
「全員乗りましたか?」
リオンに手を貸していたエルが、長弓をヴィシュリの首に戻し、後ろを振り返って訊く。
「ちょい待って……ほっ、と。ほい、いいわよ」
まだ乗っていなかったディーが、地面を蹴って翼竜の後ろ脚に乗り、もう一度跳躍して、すとんと雷華の前に着地して座る。それを見たエルは、正面に向き直り、ヴィシュリの手綱を引いた。ぐおおん、という唸り声のような鳴き声とともに、翼をはためかせ、翼竜が宙に舞い上がる。何とも言えない浮遊感を身体に感じながら、雷華は跡形もなく崩れ去った楔を見下ろした。
あれだけ巨大だったにも拘わらず、大地に残る残骸は驚くほど少ない。大半が海へと沈んだのだろう。そうでなければ、雷華たちに楔の欠片が降りそそいでいたはずだ。
「偶然……なのかしらね」
「何か言ったか?」
防寒着の隙間から顔だけ出しているルークが、雷華を見上げる。
「何でもないわ」
首を振って、遠ざかる海原に眼を向ける。
広がる凍土の地を止める方法は、冷獄の楔にあった。楔に用があったのは雷華とルークだけ。雷華たちが来なければ、永遠に問題が解決されることはなかった可能性もある。楔と凍土の地を関連付ける伝承はあっても、今まで誰一人としてそれを確かめようとはしなかったのだから。
(私が行くことで、凍土の地の問題が解決されるようになっていた? それが《色のない神》の目的? ……分からない。彼の地とかいう場所で直接訊くしかないわね。どうやら次の場所で逢えるみたいだし)
石碑にあった最後の一文は、“さすれば我と相見えん”。我というのが《色のない神》のことであれば、ようやくルークとの約束が果たされる。旅が終わるのだ。
(でも、それは……別れのときでもある)
俯いて眼を閉じる。元の世界へ戻れるのだと、素直に喜ぶことがどうしても出来ない。帰りたいと願っていたはずなのに、いざそれが現実味を帯びてくると、途端に帰りたくないという想いが膨れ上がってくる。
矛盾する心を雷華が持て余していると、ロウジュとエルが緊迫した声を発した。
「何か来る」
「右後方から何か来ます!」
「えっ、何!?」
はっと顔を上げ、眼を細めて後ろを振り返る。雪と風で視界はあまり良くないが、二人が言うように確かに黒い影のようなものが見えた。影は見る間に大きくなっていく。
「おいおい、嘘でしょ……金縛魚なんて、十年に一度目撃されるかどうかの、ほとんど幻に近い獣なのに」
影の正体をいち早く見抜いたディーが、半笑いの表情で剣を抜いた。リオンが「預かります」と言って鞘を受け取る。ロウジュとエルもそれぞれ短剣と長弓を構えた。
「俺も実際に戦うのは初めてなんだけど、噂では皮膚に猛毒があるらしいのよね」
「大丈夫なの!?」
「分かんない。ライカちゃんと犬っころ王子は動かないでよ。騎士の兄さん、翼竜をもう少し低く飛ばしてちょーだい」
ヴィシュリの背の上に立ち、ディーは大剣を正面に構え、黒い影が近づいてくるのを待った。
金縛魚はかなり奇妙な姿をしていた。一言で言い表すならば、空飛ぶエイというのが一番近いだろう。大きさはヴィシュリとそう変わらない。ぬらぬらした灰色の背に黄金色の腹。頭の先からは鞭のような長い触覚が一本生えている。これだけでも十分気持ち悪いが、極めつけは、腹側にある口だ。横幅いっぱいある大きな口からは、肉食獣に負けずとも劣らない鋭く尖った歯が無数に覗いていた。
「うええ、気色悪い」
金縛魚を間近に見た雷華は、顔を歪めて呟く。見た目だけで言えば、先ほどの紅燐虎の方が何倍もましだった。ぬめっとした生き物は苦手なのだ。見ているだけで背筋に悪寒が走る。
「はい、頭屈めて」
ディーに頭を抑えられた直後、真上を金縛魚が通り過ぎていく。風圧でヴィシュリから落ちそうになった。
「ライカ、大丈夫?」
「あ、あんまり大丈夫じゃないかも」
金縛魚が身を翻して、再び迫ってくる。エルが矢を放ったが、触覚によって叩き落とされてしまった。
「なるほど、触覚は攻撃を防ぐためにあるわけね……」
「ディナム、もう一度矢を放て! お前は奴が矢を弾いた瞬間を狙って短剣を投げろ!」
ルークが叫ぶ言葉を雷華が復唱する。
「分かりました!」
「俺に指図するな」
嫌そうな顔をしながらも、ロウジュは立ち上って短剣を投げる体勢を取った。
「来ますよ!」
リオンが叫ぶのとほぼ同時にエルが矢を続けざまに二本放つ。一瞬遅れてロウジュも触手目がけて短剣を投げた。
矢を防ぐことに気を取られた金縛魚は、短剣を防ぎきれず、触手に傷を作った。激しく身体をよじり、咆哮する。空気を切り裂くような甲高い鳴き声に、雷華は思わず耳を塞いだ。
「兄さんたちやるねえ。それじゃまあ、俺もちょっと本気を出すとしますか」
「どうするつもり?」
怒り狂った金縛魚が口を限界まで開けて、先ほどまでより倍近い速さで向かってくる。ディーは、たんっ、とヴィシュリから跳ぶと、迫りくる空飛ぶ獣の真上から大剣を突き刺した。
「ディー!?」




