四十一話 襲イ迫ル獣
黒から白の世界に飛び出す。眩しさで一瞬眼がくらんだ。乱れた呼吸を整えながら、瞬きを繰り返し眼を明るい世界に慣れさす。
そうして改めて見た白い世界はーー白一色ではなかった。
「はあっ、はあっ、た、助かっ……エルさんっ!?」
「ディナム!」
命からがら楔から出た雷華が眼にしたのは、十数の大きな獣に囲まれているエルクローレンの姿だった。剣を構える彼の足元には、数頭の死骸が横たわっており、辺りの雪と氷を血色に染めている。
「紅燐虎がこんなに群れを成すなんて」
「これが紅燐虎……確かに尾は紅いわね」
雪の中でゆらゆらと揺れる紅い尾は、可愛いと言えなくもない。だが、鋭い牙と長い爪、そして何よりもこちらに向けられている恐ろしい顔が、間違いなく獣が獰猛であることを物語っていた。
後ろでは、岩塊に記されていた通り、冷獄の楔が崩壊の音を轟かせている。崖下に果てしなく広がる海に落ちていった楔の欠片たちは、二度と陸地へと戻ってくることはない。吹雪は止み、凍りついた土は解け、やがて緑豊かな大地へと姿を変えていく。今すぐには無理でも、そう遠くない未来には、それが現実となっているだろう。伝承風に言うならば、楔に繋がれていた男の執念は消え、神の怒りが解かれた、というところか。
しかし、神の怒りは解かれても、違う怒りが新たに生まれたようで、どうやら生命の危機は簡単には去ってはくれないらしかった。エルを囲っていた約半数の紅燐虎の眼が、楔の中から現れた雷華たちに向けられる。
「皆さん、ご無事でしたか!」
「エルさんこそ、大丈夫なんですか!? ヴィシュリは!?」
腰から木刀を抜き、構えながら叫ぶ。吹雪くほどではなかったが、それでもまだ雪は降り続いている。雪と氷に覆われた地面は、全力で走ることすらままならない。これだけの悪条件の中で、己の身の丈の倍以上もある獣を倒せるエルは、間違いなく騎士の名に相応しい強さの持ち主だ。
「ヴィシュリは上にいます」
「上?」
「話はあとあと。ほら、来るわよ。聖師どのはこれ持って下がってて下さいな。ライカちゃんも下がってなさい」
鞘をリオンに渡し、ディーが両手で大剣を構える。口調は軽くても眼は真剣そのものだ。油断出来る相手ではないということが、彼の表情から窺える。雷華はぐっと腹に力を入れ、木刀を強く握り直した。
「大丈夫よ、油断さえしなけれ、ばっ!」
咆哮を上げて襲いかかってきた紅燐虎を最小限の動作でかわし、渾身の力で横腹を突く。よろめいたところに、今度は上段から振り下ろした。
「やるねえ」
口笛を吹く真似をしながらディーが紅燐虎の喉に剣を突き刺し、止めをさす。白かったの大地が赤色に変わり、錆びた鉄の匂いが雷華の鼻を刺激する。けして慣れることのない死の匂い。しかし、殺すことを躊躇っていてはこちらの命が危ないのだ。すぐ近くでもロウジュが紅燐虎の喉を斬り裂き、数を減らしていた。
「ライカ、大丈夫?」
「ええ、私は平気」
眼前の敵を睨んだまま、ロウジュに言葉を返す。一瞬の油断が命取りになるのは明白だった。極寒の地にいるはずなのに、雷華の額に汗が滲み出る。
「絶対に一人では動くな。囲まれたらライカでは防ぎきれん。ディナム、翼竜に乗って弓を使え!」
「分かってる。エルさん! ルークがヴィシュリから弓を使えって言ってます!」
小さな黒犬の姿で大きな紅燐虎を蹴り倒しながら叫ぶルークの言葉を、声を張り上げてエルに伝える。
「分かりました! ヴィシュリ、来い!」
素早い動作で一番近くにいた紅燐虎を斬ると、エルは指笛を鳴らした。すぐに上空から翼竜が滑るように降りてくる。血を流しながら向かってくる獣の上に跳躍し、エルはヴィシュリに飛び乗った。手綱をひいて高度を上げるよう指示すると、剣を鞘に収め、翼竜の首に括りつけてある長弓を手に取り、流れるような動作で弓を番え、踏み台にした紅燐虎めがけて放つ。
「へえ、騎士の兄さんもやるねえ。俺も負けてらんないわ」
そう言いながらディーは大きく跳躍し、大剣で紅燐虎の胴体を斬り裂く。エルの放った矢は、正確に獣の頭を貫いていた。また白い大地が赤に変わる。
「あと六、いえ七頭です。皆さん気を付けて下さい!」
ディーの鞘を胸の前で抱えて持つリオンが叫ぶ。それに呼応するかのように、残りの紅燐虎が一斉に雷華たちに向かってきた。
「嘘でしょ!?」
「落ち着け、相手の動きをよく見れば問題ない」
どすっ、という音とともに一頭が走りながら倒れる。頭には深く矢が刺さっていた。
「エルさん、凄い!」
「これで五」
ロウジュが投げた短剣が、獣の眉間に刺さる。
「これで残り、四だ」
ルークが横腹に跳び蹴りを入れ、よろめいたところをロウジュが、間髪入れずに喉を斬り裂いた。
「三になって!」
跳躍して襲いかかってきた紅燐虎を屈んでかわし、真上に向かって木刀を突き上げる。痛みで後ろに跳び退った獣を、ディーが大剣で斬りつけ、返す刃でさらにもう一頭を両断した。
「ほいっと、二ね」
「いや、一だ」
ルークの言葉と同時にエルの放った矢が、獣を貫く。
「最後」
ロウジュが紅燐虎の攻撃を軽やかに跳んでかわし、空中で短剣を投げる。短剣は真っ直ぐ獣の眉間に向かって飛んでいった。
最後の紅燐虎が地面に倒れるとともに、辺りに静寂が戻ってくる。極度の緊張から解放された雷華は、はぁっと大きく息を吐く。しかし、まだこれで終わりではなかった。




