二話 夜ヲ追ウ者
「ライカがいなくなっただと!?」
深夜というにはまだ早い、夜一の刻を少し過ぎたころ。イシュアヌの王都リムダエイム、その上層区画にいくつもある迎賓館のうちの一つ、マーレ=ボルジエの貴族、ヴォード伯爵に宛がわれた館の一室に、ルークの怒鳴り声が響いた。
と言っても、ルークは犬の姿をしており、唯一彼の言葉が分かる雷華もいないので、ただ犬が吼えているようしか聞こえない。
だが、いつもなら率先してそのことを突っ込むはずの若き伯爵――クレイ・ヴォードは、今はその気力なく、真剣な顔で長椅子に身を沈ませていた。上着を脱いで襟元を緩めていはいるが、服は正装のままだ。着替えるわずかの時間さえ惜しいと思うほど赤髪の伯爵は焦っていた。
このままではまともに会話が出来ないと思ったルークは、自分たちの荷物が置いてある部屋に行き、人間の姿に戻って衣服を纏った。首元で肌身離さず身に着けているチョーカーの紅玉石が、ランプの灯りを反射して仄かに光る。雷華から貰った大切なものだ。
石をぎゅっと握りしめると、ルークはクレイのいる部屋に急いだ。
「お前は何をしていたんだ」
部屋に戻ると、ロウジュがクレイに詰め寄っているところだった。短剣こそ手にしていないものの、強烈な殺気を部屋の主に向かって放っている。
三人がいるのはクレイが私室として使っている部屋で、基本的には誰も近づかない。唯一の例外であるヴォード家の執事、バルーレッドも、呼ぶまで来るなと城から戻ったクレイより言い渡されていた。
「公爵と短い言葉を交わしていた。だが、すぐにライカのいるテラスに行ったんだ。なのに、彼女の姿はどこにもなかった」
向けられる殺気に怯むことなく答えるクレイだが、その瞳には後悔と焦りの色がはっきりと浮かんでいる。誰も予想できなかったことだとはいえ、すぐ傍にいて阻止出来なかったことを悔やんでいるのは明白だった。
「言い訳はいい」
「落ち着け。ヴォードを責めても何も解決しない」
今にもクレイを殴りそうなロウジュの肩に手を置く。本当はルークも何故だと言いたかった。何故、雷華が攫われねばならないのだと。だが、彼にその理由が分かるはずがないことも、落ち度がないことも分かっていた。
「……俺に触るな」
舌打ちをしてルークの手をはねのけると、ロウジュはクレイから離れ、窓に近づいた。
「どこに行く」
「ライカは俺が見つける」
振り向きもせずそれだけ言うと、黒髪の元暗殺者は窓を開けて夜の闇へと消えていった。
「……悪かった。俺が離れなければこんなことには」
「謝る必要はない。お前に非がないことは分かっている。ライカが狙われているなど、誰も思いもしなかったのだからな」
「……すまない」
開け放たれたままの窓を睨みながら奥歯を噛みしめる。
自分も一緒に城に行っていればこんなことにはならなかったかもしれない。攫われたとしてもすぐに後を追えたかもしれない。
起こってしまったことは変えられないのに、そんな考えばかり頭に浮かぶ。ロウジュも似たような考えを抱いたのだろう。だからクレイを殴らなかった。先ほどの殺気の中には己に対する怒りも含まれていたはずだ。
――ルークとロウジュって、本当は気が合うんじゃないの?
風に乗ってライカの声が聞こえた気がした。この館で彼女を見送ってからまだ半日も経っていないというのに幻聴が聞こえるとは。
心底惚れている証拠だなと、苦い笑みを浮かべながらルークは窓を閉めた。
「それで、ライカがいないことに気付いたお前はどう動いたのだ」
振り向いたルークの顔は、マーレ=ボルジエが誇る特務騎士に相応しいものに変わっていた。それを見たクレイの顔つきも変わる。
過去を振り返るのはもう十分だ。今からは未来を考えなければならない。雷華を見つけ助け出すという未来を。
「テラスに身を隠せる場所はなかった。だから俺は広間に戻り、警備の兵士に会場が広すぎて連れとはぐれたから捜すのを手伝ってくれと頼んだ。ただ迷子になっているだけならすぐに見つかると思ったからだ。彼女は目立つからな。しかし、半刻経っても見つからなかった」
どうすべきか迷ったが、城にはいない可能性が高いと思ったから戻ってきた。
クレイの言葉に頷く。自分でも同じことをしただろう。マーレ=ボルジエならともかく、ここはイシュアヌだ。城に残っても出来ることはないと言っていい。
「そうか。ヴォード、お前はどう思う? 何が目的だと考える?」
「さあな。だが、金目的じゃないだろ。ただ金が欲しいだけなら、わざわざ警備の厳しい城に忍び込まなくても他にいくらでも方法はあるわけだからな。それにライカを知っている人間はほとんどいない。貴族だと勘違いした可能性はあるが、それでも正体の分からない人間を攫うなんて考え難い。初めからライカを狙っていて、目的は彼女自身と考えるのが妥当だな」
さあなと言いながらクレイは鋭い指摘をした。ルークのもう一人の幼なじみ、リオン・グレアスほどではないにせよ、彼も十分頭が切れる。そうでなければ領主など務まるはずもない。
「同感だ。付け加えるなら、ライカはけして弱くない。実際に警備を掻い潜れるかは別にして、その辺りの賊が彼女を攫えるとは思えん」
「確かに。俺の屋敷でもドレス姿でロウジュとやり合ったんだったな。つまり犯人は……前からライカを知っていて彼女に用がある強い奴、ってことか。ルーク、お前心当たりあるか?」
「ああ……だが」
歯切れの悪い答え。頭には一人の男が浮かんでいた。だが、理由が思い当たらないのだ。確証がないまま決めつけてもよいものなのか。
迷いながらもルークは額に傷のある金色の瞳の男の名を口にした。