一話 夜ヲ駆ル者
空から太陽が姿を消し、月が地上を照らす、世界が静寂に支配された夜。
その絶対的な支配に抵抗するかのように、一台の馬車と二頭の馬が、大きな音を立て、広大な大地を走っていた。
御者も騎手も若い男で、三人とも目立たない質素な服を身に纏っている。帯剣しているが粗野な感じはなく、野盗やその他の犯罪集団には見えない。むしろ兵士や騎士といった感じだ。
彼らの顔は一様に緊張に染まっていた。
「将軍、もうすぐ国境門に着きます!」
騎手の一人が、馬車に向かって声をかける。
「手筈通りに」
馬車の窓が少し開いて低い男の声が返ってきたが、顔は見えない。
「はっ!」
騎手は短く返事をすると、もう一人の騎手に眼で合図を送り、同時に馬の速度を上げた。くねくねと蛇行する坂を一気に駆け上がっていく。
国境は坂を上りきったところ、小高い丘の上にあった。
先行する二頭の馬の後を追う馬車の中には、将軍と呼ばれた男以外にもう一人乗客がいた。
ドレス姿の女が、将軍の膝の上に頭を乗せ眼を閉じて座面に横たわっている。胸が上下しているので死んではいないようだが、激しい揺れにも眼を開ける様子はない。意図的に眠らされているようだった。
「眼を覚ましたお前は激怒するのだろうな」
横たわる女の髪を撫で、囁きかける。
返事はない。
当然だ。彼女の意識を奪ったのは、他ならぬ将軍自身なのだから。
忠誠を誓った人から命を下されれば、どんな非道なものでも遂行する。それが将軍という地位を授かった男の生き方だった。
己の意志などありはしない。そんなものはとうの昔になくしてしまった。偽りの仮面を被り、本心を嘘で塗り固め、もはや男自身も己の本当の姿が分からなくなっていた。国のために女を攫えと言われたときも、ただ諾と答えたのみ。女と面識があったことも、少なからず好意を抱いていたことも、異を唱える理由になりはしなかった。
しかし、男の髪に触れる手はとても優しかった。
「すまない」
囁いた言葉は、誰の耳に届くこともなかった。
女は夢を見ていた。
夢の中で女は一人の男と共に過ごしていた。毎日が楽しくて幸せで、何の不満も不自由もない、まさに夢のような生活。
だが、何故か男の顔はぼやけていた。何度眼を凝らしても見ることができない。それに、男の名前も分からなかった。顔も名前も知っているはずなのに、思い出せないのだ。しかし、夢の中の女はそのことを不思議に思わなかった。
『ねえ貴方、私こんなに幸せでいいのかしら』
夢の中の女が、男に訊ねる。
『お前の望んだことだ』
『私が望んだこと……そうね、そうだったわね』
女は頷いて男に向かって微笑む。そうだ、これは自分が望んだことなのだ。女と男がいる世界には他に誰もいない。皆死んでしまった。たった二人だけの世界。己の幸せと他人の命を天秤にかけ、己の幸せを選んだ。
『この幸せがずっと続くのね』
毎日が同じことの繰り返し。永遠に変わることも終わることもない。だが、女に後悔はなかった。世界中の人間の命を引き換えにしてでも、男に愛されたかった。共に在りたかった。
男の肩に凭れかかる。やはり男の顔はぼやけていて、名前も思い出せなかったが、それでも女の心は満たされていた。
「っざけないで」
女の唇が微かに動く。だが、起きる気配はなかった。眉間に皺を寄せて眠る女の姿を見て、男は苦笑した。己の言葉に反応したのかと思ったのだ。あと数刻は目覚めるはずもないのに。
「夢の中でも怒っているのか」
がたん、と激しく馬車が上下に揺れた。車輪が石を踏んだらしい。御者の謝る声に短い返事をしながら、女が落ちないよう抱えなおす。顔にかかった髪をはらってやり、彼女の頬に手を置いた。滑らかな白い肌。何年も前に失ってしまった最愛の女性を思い起こさせる。
男は女の額に顔を寄せ、そっと唇を落とした。
「ごめん……ライカちゃん」
誰にも届くことのない男の呟きは、刹那の間、宙を漂い儚く消えていったが、女――紫悠雷華の眉間に寄っていた皺も消え、穏やかな寝顔に変わった。
国境は目前に迫っていた。