十七話 独リ見ル幻
ディーが馬を止めた場所、『東風』はかなり上等な宿だった。大分前にウォルデイナの町で泊まった高級宿『水辺の輝石』に勝るとも劣らない絢爛豪華な雰囲気に、居心地の悪さを感じながら部屋に入る。
根っから庶民の雷華は、一泊いくらするのだろうかと自分が払うわけでもないのに不安になった。さすがに口には出さなかったが。
長椅子に座りディーとこれからのことなどを話していると、宿の人間が食事を持って入ってきた。どうやらディーが頼んでいたらしい。
高級な宿に相応しい、豪華な食事を二人で黙々と食べる。
こんなときでも腹は空くのだから、自分は逞しい人間の部類に入るのだろうなと、胡桃入りのパンをちぎりながら雷華は思った。
か弱い女性、たとえば貴族の女性なら、食事を取ることもなく部屋に篭って涙を流し、哀しみに浸るのだろう。
(そんなの私の柄じゃないわ)
浸っているだけでは前に進めない。立ち止まったままでは真実は見えてこない。
未来は誰かに与えられるものではなく、自分で掴み取るものなのだ。
(そのためにはしっかり食べて、しっかり寝ないとね)
食事を終えて間もなく、部屋の扉が叩かれ、ゼフマーたち三人が姿を現した。
皆、憔悴した顔をしている。
ディーが三人を促して廊下に出ていったので、雷華は風呂に入ることにした。煌びやかで広すぎる部屋は落ち着かないが、風呂が付いているのは素直に嬉しい。
久しぶりの風呂を堪能して、身体から湯気を立ちのぼらせながら浴室から出ると、ミレイユが一人で長椅子に座っていた。
「ミレイユさん、怪我は大丈夫なんですか」
雷華が近づくと、ミレイユは立ち上って頭を下げた。
服の左腕の部分が不自然に盛り上がっている。包帯を巻いているのだろう。
「はい、腕を少し斬られただけですので。でも……私が注意を怠らなければ、シルグさんは死なずに済んだんです」
左腕をさすりながら俯くミレイユ。
慰めの言葉を口にするのは簡単だ。だが、それでは彼女のためにならない。雷華はあえてきつい言葉を選んだ。
「確かに、そうかもしれません。だけど、自分を責めても何も解決しないと思います。シルグさんは亡くなって、貴女は生き延びた。この事実はどうやっても変えられないんですから。シルグさんの死を哀しむのは当然です。私だって哀しい。でも、哀しんだ後はちゃんと顔を上げて未来を見ないと、過去ばかり見ていては道を見失ってしまいますよ」
「…………」
ミレイユは何も答えない。俯いたまま唇を噛み、肩を震わせながら懸命に泣くのを堪えている。
雷華もそれ以上喋ることはせず、黙って彼女を見ていた。
沈黙は部屋の扉が叩かれるまで続いた。フォレスが扉の外からミレイユを呼ぶ。
彼女は消え入りそうな声で失礼しますと言って足早に部屋から去っていった。
「……少し冷た過ぎたかしら」
はぁ、と溜息を吐いてベッドに倒れ込む。天蓋付きのベッドは広く、三人は寝れそうだが、一緒に寝る相手はいない。
「ルークがいれば一緒に寝るのに……もちろん犬の姿限定でだけど」
黒犬の彼は丁度良い懐炉になると、ルークが聞いたら全力で拒否するであろうことを考えながら、雷華は眠りについた。
そしてまた夢を見た。
『私に異存はありません』
『そうかそうか、その言葉を聞いて安心したぞ』
荘厳な雰囲気が漂う、とてつもなく広い部屋に複数の人間がいる。しかし、誰も雷華を見なかった。
『夕食は俺が作るから、休んでて』
『そう? じゃあちょっと散歩に行ってくるわね』
今度は素朴な、生活感溢れる家の中だ。すぐ眼の前で会話をしているのに、雷華の存在を気にしている様子は見られない。
『戻るのは三日後になる』
『ええ、気をつけてね。行ってらっしゃい』
次は立派な屋敷の前で抱擁する二人。
『あっ、お帰りなさい! 今回も上手くいった?』
『当然だろう。誰に訊いている。ただいま、――』
大きな建物の前で良く似た顔立ちの男女が、笑顔で言葉を交わしている。
その後もくるくると場面は変わり、どれもが幸せに暮らしていると一目で分かる人たちばかりだったが、そのどこにも自分の姿はなかった。
「どうしたの、具合でも悪い?」
「えっ、ああ、ううん、大丈夫。少し考え事してただけだから」
後ろから声をかけられ雷華は、はっと我に返り首を横に振った。
黒翔馬の上で、昨日見た夢のことを考えていたのだが、どうやら夢中になり過ぎたようだ。
アディシェを朝早くに出たのは覚えているが、それ以降の記憶が曖昧にしかない。空を見て、太陽が真上近くまで移動していることに驚いた。
(随分と没頭しちゃったわ。でも、ここ数日の夢って絶対に変だと思うのよね。内容は覚えているのに誰の顔も分からないなんて。……それに、夢とは別に気になってることもあるのよね。私の思い過ごしならいいのだけど……)
雷華の思考は再び底なしの海へと沈んでいく。夢のことも気になることも、誰にも相談せずにひたすら一人で考え続けた。
そうして、一つの答えが得られたのは、王都に着いてから二日後のことだった。