夢乃望海は流星少女と出会いを果たす①
本格始動です。よろしくおねがいします。
ガツン、と振りかざされた木製のドラムスティックの、はじけるような刺激が脳天から伝って、夢乃望海は目覚めた。無理やり電源を入れたコンピューターのように視界はぼやぼやで、頭頂部に突っ張るような不快な感触に思わず唸り声をあげる。フードコートは夕食時の夜の賑わいから一転、閉店前の閑静な雰囲気を纏っていた。店内証明の明るさは変わらないはずなのに、どことなく暗い感じがした。
随分長い間寝てしまったのだろう。テーブルにくべた腕をどけると、紺色のカーディガンに薄く肌色のファンデーションがうつっていた。その下にくっきりと折り目のついた教科書と、ノートに書かれたヘビのような薄くて細い文字が顔をのぞかせる。
「おはよう望海。留年予備軍のくせに居眠りなんて、ずいぶん余裕じゃない?」
目の前から、ひどくトゲのある、優しい言葉が聞こえた。反射的に顔を上げると、そこには、黒い威圧感を纏わせながら、ニコニコと人の良い笑みを浮かべる草野あきらがいた。
肩甲骨に触れるまで伸びたセミロングの黒い髪は逆立ち、頬杖をつく手と逆の手には、今しがた望海をぶったであろうドラムスティックが強く握られていた。照明で一部分が白くなっている、つるつるとした期の延べ棒は彼女の貧乏ゆすりとともにリズムを奏でていて、望海は思わず、その微かな揺れを目で追ってしまう。
「……おはようあきら~。……起こし方乱暴すぎない? すっごい痛いんだけ――」
「弁明」
望海の冗長な言葉を遮って、あきらがぴしゃりと言い放つ。それは雨音を切り裂く雷鳴のように、有無を言わさない絶対的な響きで、彼女は言いかけた言葉を思わず飲み込んだ。
「……期末テストの勉強会、やるって言ったよね。私、ちゃんと教えるから、赤点は阻止しようって。なのに肝心のアンタは私がポテトを差し入れようと席を立った間にグーグー、グーグー……どういうことか説明してくれないかしら?」
「……あー」
望海はテーブルの端に除けられたポテト(所謂フレンチポテトと言われるような、皮のついた、切り分けた林檎みたいな形やつ)を一瞥して唸る。彼女は軽音部でギターだったあきらがなぜスティックを常備しているのか気になったが、その疑問を口に出すのをやめた。能天気を地で行く望海も、流石に目の前の怒りをぐっと抑えるあきらの様子を見て、そんなことを言う勇気はなかった。彼女は冷や汗をかきながら、カーディガンについたファンデを塗り広げるようにこぶしでこすりながら弁明の言葉を寝起きで動きの悪い頭で絞り出そうとしていた。
「そのー……さ、睡眠学習ってあるじゃん? 寝てるうちにベンキョー覚えられるっていうアレ。実践しようと思って」
「……睡眠学習は勉強した後に寝ることで初めて意味があるのよ。アンタのはただの惰眠なんだけど、その辺はどう思う?」
ギロリ、とあきらの怒りに満ちた鋭利な視線が望海を穿った。
「マズった、完全に『お説教モード』だ」と彼女は殊勝な態度で体を縮みこませた。このぶんには、謝るのは既定事項で、そこから許してもらえるかどうかといった具合だろう。
「ごめん。ちょっと、油断してた。その、最近暖かくなってきたから」
「……今日の気温は終日一桁度の大寒波よ。暖かくなってきたのはフードコートの暖房のことでしょ」
呆れたようにため息を吐きながら、あきらは望海のヘタクソな言い訳を処理する。
「そっかー」と望海はあきらの仏頂面から目をそらしながらつぶやいた。彼女は内心、この後始まるであろうあきらの大説教に身構えていたが、自分の生返事にいつまでたっても返答がないため、微かな疑問を胸に抱えながらも、それを良しとして、テーブルの上に置いてあるポテトに手を伸ばした。
「ボソボソ……旬が過ぎてる……」
しょんもりとした表情で、望海はポテトを奥歯ですりつぶした。
「寝てたアンタが悪い。それに懲りたら、明日はちゃんと起きなさいよ」
言いながら、あきらもポテトに手を伸ばしてもそもそと食べ始めた。荒れ肌体質故に美容意識が高く、夜8時以降の間食をしない彼女が冷めたポテトをつまんでいるのは、食べ物を粗末にすることを嫌う望海の人間性を知っているからであった。
「……ありがとう、あきら」
「いえいえ、とんでもないですよ」
そう言って、あきらはポテトを頬張りながら、会釈程度に頭を下げた。
「……それより、明日はちゃんと勉強しなさいよ。アンタ、マジで留年しそうなんだから、気合入れなさいよ」
「大げさだなあ、二教科赤点だったらヤバい『かも』って言われただけだよ。一教科なら、おっけー」
望海は間延びした声とともにぎゅっと人差し指と親指でマルを作った。
「それでなにがおっけーなのよ……!」
あきらは頭を抑えて愕然とした。期末試験は副教科併せて十二科目。試験まであと六日……いや、今日を除いたらあと五日。その間に、この毛ほども勉強する気もない女に試験範囲をすべて叩き込まなくてはならない。
「……考えるだけで悪寒がしてきた。そんなのムリに決まってるじゃない……!」
「まあまあ、そんな気負うものでもないっしょ。留年だって、脅しだよ。きっと」
けらけらと笑いながら、他人事のように望海が答えるのを見て、あきらは絶望した。彼女は留年の話を望海から聞いたわけではない(そもそも望海が教えるはずがない)。たまたま職員室に用事があった時に、苦い顔をした学年主任と、今と同じように何も考えていない表情の望海が対峙している場面に出くわしたことが運の尽きだった。彼は物珍し気に視線を寄せるあきらを目ざとく見つけると、まるでエマージェンシーの果てに胴体着陸先を見つけたパイロットの様な、心から助かったという表情をしていた。
『草野、ちょうどいいところに来てくれたな。夢乃を何とかしてやってくれないか? コイツ、本気で留年しそうなんだよ』
苦笑交じりに出されたその要求は、あきらにとって、この世のどんな提案よりも過酷なモノであった。もし、悪魔に魂を差し出すか、望海を『何とか』するかどっちか選べと言われたら、小一時間悩んだ末に悪魔に魂を売ることを選ぶほどに。
『お、あきらが勉強教えてくれるんだ。助かるよ。あきら、頭いいから』
そう言って、望海はへらへらと口元だけ緩ませた笑みを浮かべてあきらに手を振った。
あきらは目の前の海のように深い群青色の瞳の少女の「助かる」という言葉の真意が、どれほど本当なのかわからなかった。それは彼女が昨年の期末テストを、わざとすべて白紙で提出した真意を知っているからであり、彼女がもう、高校に通う意義を見いだせていないことを知っているからであった。
「やめちゃおっかなー、高校」
昨年の11月、あきらと望海にとって、人生の終わりと言っても過言ではない衝撃的事件の後、抜け殻の様な白んだ瞳で彼女がつぶやいた言葉を思い出す。この時、あきらはその言葉を本気にしていなかった。たしかにその出来事――ガールズバンドの解散――は辛く悲しく、受け入れがたい、やるせない気持ちで、胸を掻きむしりたくなるほどだったが、俯瞰してみれば世間でありふれたものだし、えぐれた肉がカサブタとなって固まるように、記憶の隅に放っておけば、いつか、大丈夫になると思っていた。そしてそれは、望海も同じ気持ちだと思っていた。
――それが全くの見当違いだと言うように、一月後の期末試験、望海は全ての答案を白紙で提出した。
それは何の脈絡もなく、まるで初めから運命で定められていたように、唐突で、腑に落ちた結末だった。教室の喧騒の中、職員室に連行される彼女の後姿を眺めながら、この時もあきらは望海の魂が抜け落ちた、深海の様な黒ずんだ瞳から出た言葉を思い出していた。
あの言葉は、一過性のモノでも、投げやりのモノでもなかった。彼女の死にそうな思いを馳せた、純で切実な叫びだった。そして、この時ようやく、草野あきらは気がついた。
――夢乃望海はどうしようもなく、学校を辞めたがっているというコトに




