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或る一日のアラベスク

作者: 田中教平
掲載日:2026/03/17


 祐介、彼は朝湯から出て、体を丹念タオルで拭くと、新しい服に着替えた。

 鏡の前で自身をじっと見つめた。

 禁煙薬は服している。彼はそれを承知の上でハイライトを喫った。一本も満足に喫えなかった。

「つまんないことしてるなぁ」

そんな言葉が彼の口からおもむろに出た。

 彼は今朝、妻の不満に逐一、しっかり反論した。

「祐ちゃんはわたしの事ガキンチョだと思っているでしょう?」

「ガキンチョとかそういう事ではない」

「精神年齢が低いと思っているんでしょう?」

「精神年齢って何?そういう事ではない」

 妻の香奈は「わたしの事が」ガキンチョか、訊いてきたんだし、「わたしの」精神年齢が高いか低いか、訊いてきたのだし、つまり「わたし」、いつも自分を話題にしてその印象を問題にしていたのであった。

 祐介はそれが生きてゆく上で、生活してゆく上で、それほど重要な事だと考えられなかった。そういう類の話は、早々、切り上げたかった。

「AIで精神年齢について調べた」

そうして、精神年齢についての知識を延々、祐介に説明する香奈に対し、彼は彼の持論である「論理と情緒」について説いても全く無駄だと思ったし。話しても、香奈はすぐに忘れてしまうというか、その考えを咀嚼するには早いと考えて、ただ机に突っ伏して、そのスマホに羅列される知識を説明する、香奈の声を聞いていた。



 祐介、彼は灰皿と吸殻を片づけながら

「もう煙草は喫わない、買わない」

と誓った。禁煙薬が少なくなっているのも気になっていた。

 彼は書斎に向かい、小説を書きはじめた。間延びした私小説にならざるを得なかった。

 彼は小説を書く事を完全に「リハビリ」また、「仕事」という所に位置づけていた。彼は読者に対して誠実でありたかった。彼はまず今まで書いていた原稿用紙五枚を破いて捨てた。



病院の待合室で、母の隣に座った祐介は、母に私小説「宿命」の原稿を渡した。

「もうネット上で発表しちゃったけれど、公募に応募する予定で書いていたんだ」

「ふうん、やるじゃん、お兄ちゃん」

「自叙伝的小説だけど、あちらこちら誇張してある。それと酒と煙草の描写があるけれど、昔の事だから」

「まあ、読んでみますわ」

 母は赤色のセーターに黒い帽子を身につけている。祐介は何か、母が小さくなったと感じた。

 母は「宿命」をじっくり読みすすめてゆく。

その間に、トイレに行っていた香奈が帰ってきた。

「お義母さん、はいこれ、レモンティー」

「あ、買ってきてくれたの、ありがとう」

「祐介さんの小説読んでる?」

「今、初めのとこ読んでるけれど、これ全部祐介の事ね」

 母、祐介、香奈の順で座った。時刻が昼の十時になった。香奈は面談コーナーに向かって行った。

 二階から、ケースワーカーの水木さんが下りてきて、周囲を見渡した後、面談コーナーに向かっていった。

「母さん、あれが水木さんだよ、香奈と僕がお世話になっている・・・。元々、香奈ちゃんの担当のケースワーカーだったんだけど」

ふうん、と言った面持ちで母は小説から水木さんのうしろ姿に目を向けていた。

 母は「宿命」を読了した。

「何か、気になる点あった?」

「そうねぇ、ラスト・・・香奈ちゃんが祐介に、おじいちゃん、と呼びかける所は、おじいちゃんみたい、にした方がいいね。それから、これもラスト、妻、と書いているけれど、これは香奈、としっかり明記した方がいい」

「なるほどね・・・ええっと、他には?」

「他は特にないよ、ともかくラストよ」

母は「宿命」の原稿を丁寧、祐介に返した。

受けとった祐介はそれを自身のナップサックに収めた。


 香奈が水木さんとの面談を終えて帰ってきた。

「よく話聞いて貰えた。なんか水木さん明るかったよ」

「そう。香奈ちゃん、この後診察でしょう?」

「ああ、もう時間だ、行ってきます」

 また母と祐介が二人残された。

 母が言った。

「香奈ちゃん、この四月からここから駅前のメンタルクリニックに移るんでしょう?」

「うん。立地的にそっちの方が合っているから」

「それなら、その、相談をしなきゃいけないんじゃない?祐介も診察室入ったら?駄目かしら」

「ああ」

 祐介は受付に向かい事情を話して、診察室に入れて貰う事にした。

 桜木ドクターと、香奈が熱心話し込んでいる。桜木ドクターは女医である。家族都合か、この病院を退職する事になった。十年診ていただいた桜木ドクターが退職する事に最初、香奈はショックを隠せなかった。香奈は色々考えて、桜木ドクターがやめるのならばいっそ、駅前のメンタルクリニックに移ってしまおうと考えたのだった。

「じゃあ、メンタルクリニックへ移るに必要な紹介状も書いておきますからね」

「先生、本当に長い間、ありがとうございました」

 そっと、香奈は桜木ドクターに手紙を渡した。

「ありがとう。読ませていただくわ」

 後ろで、話を聞いていた祐介も、ありがとうございました、と頭を下げた。

「話は順調に進んだ?」

待合室で待っていた母が、診察室から出てきた祐介と香奈に言った。

「はい。しっかりお別れできました」

「出会いあれば、別れあり、だな」

 香奈は診察の会計を済ませ、三人、近くの薬局に向かった。長時間待たされる事はわかっていたから、薬はまたとりにゆく事にして、

イオンショッピングモールに向かう事にした。

 祐介も香奈も病気の影響で車が運転できないし、所持していなかった。しかしこの日は母が車を出してくれて、運転もしてくれるのでありがたかった。その旨伝えると

「おばあちゃんが亡くなって、告別式まで日があるけれど、動きまわっている方がいいのよ」

と言った。

 緑のクーパーは寒いのか、暑いのか分からない春の空の下をすべってゆく。



 イオンショッピングモールに着くと、母が張り切って

「お昼、二階のフードコートで良いかな?それからお葬式用のフォーマルスーツを買おう」

と言って先頭を歩いていった。

 祐介はハンバーガーを食べ、香奈は海鮮丼を食べ、祐介の母は浅利パスタを食べた。

 食べ終えると、祐介と香奈のフォーマルスーツを新調する為に、「フォーマル」と掲示されたコーナーに向かった。

 この時、祐介は、病院で長時間待った事もあって、疲弊してきた。フォーマルのコーナーを担当している方のアドバイスに則って、半ば、されるがまま、スーツを決めた。

 丈を直すのに一時間かかるという。その間、近くの書店に三人向かう事にした。

「予算、ある?」

と母が気遣った。

「図書カードが二千円ある」

「どうしたのそれ」

「文芸賞の副賞で貰った」

 祐介は書店の本棚を丁寧見ていった。小説を書いている身で小説を買うのは影響されそうで嫌だと香奈には言っていたが、実際、本棚の前に立つと興味は尽きなかった。

 そこに一冊の本を見つけた。

西村賢太著「一私小説書きの日乗」の文庫であった。

 祐介は西村賢太氏のミーハーであった。しかし出版されている本で、それが近くの図書館に揃っていれば、すべて読んでいた。芥川賞を獲得した「苦役列車」の文庫は現在でも堂々と書店の2026年時点でのラインナップに入っている。

 しかし、この「一私小説書きの日乗」の文庫で出会いは初めてであった。裏側から確認すると初版、であった。

 1500円に税であった。買える。

(これに決めた)

 祐介はその本をレジに持っていった。しかし、ここで問題が起こった。財布の中に図書カードが無いのである。

「どうされました?」

「ちょっと待って下さい、うーん」

何度捜しても無い。仕方なく祐介は現金で唯一持っていた千円札二枚を差しだし、小銭をじゃらじゃらと受け取ったのであった。



 帰りの車の中で、香奈が

「何読んでいるの?」

というから、中身を見せてやった。

「え?日記?日記なんて出版できるの?」

と驚いていた。

「日本文学で日記というのは別段、珍しい事じゃないの。伝統的にあるのよ」

と、母が行った。

 夕暮れの道を、三人、南下していった。



 帰宅して祐介は風呂を沸かして入った。香奈は常々思う。この人はなんでこんなに風呂好きなのかしら。祐介はゆったりつかって顔をごしごし洗うと、窓を見つめた。夕暮れの光が白く変わりつつある。それを眺めていた祐介は、イランの基地がアメリカのミサイルによって爆撃されて白い光を放っている映像を思い浮かべた。そうしてはあ、とため息をつき、もう一度、顔を洗った。オイル、ガスがタンカーによって日本に供給されなくなれば、電気代、ガス代が上がるのは必然だった。

彼は風呂のパネル「追い炊き」を押そうとして、やっぱり、やめたのであった。風呂の湯面が、夕暮れの白い光を揺らしていた。



 

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