深夜のノック
コンコン……。
ノックの音がアパートの冷え切った狭い自室に響き、中嶋 遥介は目を覚ました。暗闇の中、布団に包まったまま玄関ドアへ顔を向ける。
コンコン……。
枕元のスマートフォンを見ると時刻は深夜二時。訪問者が来るには非常識な時間帯。
――なんだよ? 誰だよ?
コンコン……。
遥介の疑問に応えるようにノックの音が響いた。
いくら安アパートとは言え、ドアチャイムくらいは備え付けられている。何故ノックを繰り返すのか。
深夜に続くノック音に遥介は恐怖を覚える。玄関ドアの向こう側の人物がノック以外、何もしないことが余計に遥介の恐怖を増幅させる。
コンコン……。
当然、遥介はドアを開けるつもりなどない。このまま無視するか、警察に電話するかを迷っている。
そのとき――、
「中嶋殿……」
薄い玄関ドアの向こうから呼び掛けられた。遥介はその声を知っている。
隣室の岡村という中年の独居女性の声だった。出勤時、顔を合わせたら挨拶する程度の関係しかない。
ノックを繰り返す人物が誰かは分かったが、遥介は更に混乱し、更に怯えた。
なんだよ。「殿」って……。
今まで岡村から「中嶋殿」などと呼ばれたことはない。
「中嶋さん」としか呼ばれたことはない。
声色そのものにも堅苦しいものを感じる。
コンコン……。
「中嶋殿」
遥介は布団から出て、玄関へ向かう。
あきらかに異常な状況は続いている。しかし相手が強盗の類ではないと分かり、警察沙汰にするつもりはなくなっていた。
「岡村さん……、何ですか?」
遥介はドア越しに問い掛けた。
短い静寂の後、岡村の声が聞こえてくる。
「中嶋さん、すみません。今から義理を通します。今までありがとうございました」
「えっ!?」
「殿」から普段の「さん」に、声色も普段の岡村の柔らかいものに戻っていることに遥介は気付く。
しかしそれは今の遥介にとって、些末な変化だった。
遥介の頭は、事の成り行きについていけない。
午前二時。
ノック。
全く理解出来ない挨拶。
なんなんだよ?
訳分かんねえ……。
遥介が我に返ったとき、ドアの向こう側から人の気配は感じられなくなっていた。
翌朝、岡村の遺体が発見された。包丁で割腹自殺をしていたらしい。
遥介はその話を聞いた瞬間、引っ越しを決意した。
――――
関わらない。
関わらない。
関わらない。
江川 菜月は通勤に利用しているバス停へ歩きながら、頭の中で唱え続けている。
顔を下に向け、幼い頃に祖母から渡された御守りをコートのポケット内で握り締めている。
菜月は「視える人」だった。
そのことをいち早く察した祖母もまた「視える人」だったのだろうか。既に祖母は他界し、確かめることは出来ない。
――いいかい? あいつらと関わってはいけないよ。いいことなんて絶対ないからね。知らんぷりするんだ。
間違っても「成仏させてあげよう」とか「祓ってやっつけよう」なんて考えないことだよ。もし見つかってしまっても、すっとぼけな。
菜月は祖母の言いつけを守り続けた。この能力は「大人になったら消えてしまう」なんてことはなく、二十代に入った菜月は今でも視たくもない者たちが視えている。
菜月は恐る恐る顔を上げてみる。
いる――。
すれ違う歩行者の中に。
電柱の陰に。
古ぼけた家のベランダに。
ベランダに立っている老婆と一瞬目が合ってしまい、慌てて足元へ視線を戻す。
関わらない。
関わらない。
関わらない。
菜月が「いつもの朝の光景」にため息を吐いたとき、バス停が見えてきた。
――――
深夜、菜月はベッドで目を覚ました。一人暮らしをしているアパートの自室。
鳥肌が立っている。
理由は寒さではないと菜月は理解している。
嫌な予感が鳥肌を立てていると。
コンコン……。
暗闇の自室にノック音が聞こえた。
菜月の身体がガクリと一度、大きく震えた。
来た……。なにが来たの?
菜月は布団を被り、目を強く閉じた。
コンコン……。
コンコン……。
コンコン……。
ノック音が続く。
関わるな!
関わるな!
関わるな!
菜月が強く念じたとき――、
「江川殿」
男の声が聞こえた。菜月はその声に聞き覚えがある。
たしか、こないだ隣に越してきた、……中嶋さん? なんで!?
今どき引っ越しの挨拶をしてきた男性がめずらしく、菜月は隣人を覚えていた。
「江川殿」
「殿」などという呼び方も含め、菜月はこれが夢なのではないかと疑いはじめる。
菜月は中嶋が泥酔しているのではないかと疑いはじめる。
いや、そんなんじゃない。
菜月自身がその可能性を否定した。そして確信めいたものを感じている。
「知らんぷり」は通じない。私を――、江川 菜月を訪ねてきてるんだから。
菜月はベッドから出て、ハンガーに掛けていたコートを羽織る。
ポケット内の御守りを握り締める。
「江川殿……」
菜月は突っ立ったまま、声が聞こえる玄関ドアを見ている。
中嶋の声が続く。
「江川さん、すみません。今から義理を――」
「熱っ!」
菜月が思わず上げてしまった声が聞こえたからか、中嶋の挨拶は途切れた。
手の中の御守りが異常に熱くなり、菜月が上げてしまった声に。
菜月に何度も聞いた祖母の言葉が届く。
間違っても「成仏させてあげよう」とか「祓ってやっつけよう」なんて考えないことだよ。
もし見つかってしまっても、すっとぼけな。
菜月は玄関に向かい、声を掛ける。
「中嶋さん、せっかく来て頂いて申し訳ないんですけど今は困るんです。また別の機会にお願いします」
「……そうですか。では森本さんの部屋に行きます」
菜月は中嶋の部屋の二部屋隣に住んでいる若い夫婦を思い浮かべる。
何も言えない。
玄関に立ち尽くしている。
隣の部屋をノックする音が聞こえ、しばらくするとボソボソと会話している声が聞こえはじめる。
やがて何も聞こえなくなった。
――――
翌朝、割腹自殺をした中嶋 遥介の遺体が発見された。
数日後、森本夫妻はこのアパートを出て行った。
江川 菜月は今までと同じ生活を続けている。
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