第二話 初めての会話
「……はい」
呆気にとられながらも、僕は頷いた。
「あなたは……」
僕は何を言い出せばいいものかすらわからない。
「私……私は、トト。トトってよんで」
「トトさん……」
「呼び捨てでいいのに」
「トト……」
言われた通り呼んでみる。トトの言葉は温かみがあって、でもどこか翳りがあって、それが僕のトトに対する距離感を難しくさせてもいた。
彼女はいったい何歳なんだろう? しかし、女性に年齢を聞くのはマナー違反らしいとも聞く。
「うん、それでよろしい。君は?」
初対面の人間に名前を教えてはいけない、と先生は言っていたけれど、しかし一年ぶりに出会うことのできた人間に名前を聞かれてそれを無視することができる人間がどれだけいるものだろうか。
「悠人……」
僕はそう返した。
「悠人?」
僕は頷く。
「悠人か。いい名前だ」
僕は無言で彼女の方を見る。どうしたらいいのかわからなかった。
「まあちょっと立ち止まって、ここで私の演奏を聞いていってよ」
何の説明もなく、彼女は自分の演奏に戻ってしまった。
アコースティックギターの弦の上で彼女の腕が踊り、僕と少ししか違わないはずの彼女の言葉はなぜか僕の胸に響いた。
演奏が終わった時、僕は思わず拍手してしまった。
「ありがとう」
トトはそう言って僕に一礼した。そして僕から見て右側のフリップを指さす。
『トト アコースティックギターライブ 投げ銭↓』
お金かよ、と心の中で突っ込む。
「お金なんて持ってきてないですよ」
「じゃあここで跳んでみろよ」
「ポケットの中に小銭が入ってたりしませんって」
「ほら、ジャンプ」
僕はたんっ、という小気味いい音を立ててジャンプしてみせた。
「ちゃりん」
「ちゃりんって言っても僕のポケットの中身が変わるわけじゃないですって」
「はは、冗談だよ冗談。……でもよかった、人に会えて」
そうトトは言った。
「ずっとここに立って歌ってたんだ。ここに立っていればいつか人に会えるような、そんな気がして。何の確証もないのに、何でだろう」
「分かりますよ」
毎日登校し、自分の机の上でただぼんやりとしているしかなかった一年間を思い出す。
「ふふ。……よかった」
そしてトトははあ、と大きなため息をつく。
「じゃ、早速なんだけど……助けてくれる?」
「助ける?」
「ちょっと色々あって、元々住んでた場所に戻れなくなっちゃって……もしよかったら、君の家のお風呂を貸してもらったりとか」
「色々?」
「まあ、それは色々……だよ」
僕は久々に人に会って動転していたのか、それ以上トトから何かを聞き出そうとは思いつかなかった。そこで『色々』とは何なのか、あるいは『元々住んでた場所』がどこなのかをはっきりさせておけば、そのあとの展開はずっといいものになったかもしれないが……僕はそれ以上彼女に質問を投げかけることはなかった。
「いいよ。付いてきて」
むしろ年上に見える女性を助けられることに、僕の幼いながらも持っている男性性が刺激されていたのか――僕はトトを先導して、来た道を戻った。
「ふむ。立派な家だね」
本来これは僕の両親の家であって、僕の家ではないのだよな、と思いながら、満更でもない気がした。
「上がってください」
「うわあ……」
トトがそう声を漏らした。
「これは結構、……汚いね」
「他人の家に上げてもらっておいて?」
と僕は彼女に反論したものの、実際僕の家は随分汚い。小学六年生の僕にはまず何を掃除すべきなのかが分からないし、どこにどんな掃除用具があってどうやって使えばいいのかも分からないし、そもそも掃除をする必要をあまり感じていなかった。
「洗濯は?」
「生活で洗濯機の使い方は習ったから……」
「よかった……」
と彼女は言う。彼女の態度がちょっと大げさすぎるのではないかという気がして、僕は少し不満に思う。
「じゃ、お風呂場はどうかな」
脱衣所のドアを開けて、トトはそこで動きを止めてしまった。
「……うーん……掃除機、あるかな」
掃除機? 一年間使っていなかったものなので、すぐにどこだったかを思い出すことができない。
「えっと」
僕が言い淀んでいると、トトは勝手に僕の家の納戸を漁り始めた。
「ちょっと」
僕が止めようとしたのも束の間、彼女は目当ての掃除機を見つけたらしい。勝手に電源プラグを刺して掃除機の運転を始めた。ものの十五分もしないうちに脱衣所とその周辺は見違えるように綺麗になった。ぼさぼさの髪の毛や洗濯機の裏に溜まっていた埃は、――完全にとまではいかないが――ほとんどなくなってしまった。
「すごいんだ、トトは」
僕が感心すると、トトは鼻の下をこすってみせた。大人っぽいように見えるトトだが、褒められると年相応に照れるらしい。
「じゃ、お先に」
僕は脱衣所から追い出され、一人で取り残されてしまった。シャワーの音が遠くから聞こえてくるだけというのが妙に艶めかしくて困る。
リビングで待っていると、遠くから「おーい」という声が聞こえた。
「タオル持ってきてー!」
と言っているらしい。
洗面所の方に僕はのそのそと歩き出した。
「タオルです。下着も……親のおさがりでいいなら、ありますけど」
そう言いながら、僕は洗面所の扉を開けた。
「ううん。さすがに、自分の下着の代えはあるから、大丈夫だよ」
その言葉を聞きながら、僕はトトが裸であることをすっかり失念していた、ということに気付いた。




