エピローグ 吟遊詩人の沈黙
あたしがその庭園を訪れたのは、春の早朝のことだった。
代々続く王家の庭師が、かつてその功績を認められて貴族になったのは数十年前のこと。今は広大な土地で農作物の改良と、美しい花の栽培をしているらしい。あたしが魔王だったら、まずこの館を焼き尽くして、この国の農作物の技術を百年は遅らせてやったんだけど。
まあ、お父様はあんまりそういう小手先の仕事は興味なさそうだったし、あたしも魔王軍の勝利に執着は無かったから、進言はしなかった。
その結果、あのバカな妹に裏切られて、敗けたわけだけど。
ぐるりを見回し、立派な門扉の奥に広がる庭園を眺める。正面から入っても良かったけど、こう広くちゃね。つい、策略の兵器の本性が疼き、警備をすり抜けてこっそり庭園の中に潜り込んだ。
無限に広がると思われるほどの薔薇の低木が植えられていて、一部は満開だった。紅色、橙色、黄色、深紅、白、薄紅色、グラデーション。酩酊しそうなほどの芳しい香りの中、暖かい色彩の花で満ちたこの庭は、妙にあたしを場違いな気持ちにさせる。
魔物の棲んでいた瘴気の地とは正反対の、清浄な地。
「おえー。胸焼けしそう」
そう嘯いてみるが、自分の本心は隠し通せない。
この美しい地は、意外と居心地がいい。
魔物だからといって、清浄な場所が相応しくないという訳ではないのだ。澄んだ空気は気持ちがいいし、優しい匂いは気分が良くなるし、青空に映える花弁は心が穏やかになる。
人間も、恐らく同じ気持ちになるから、こんな美しいものを作ろうとするのだろう。
「……あ」
ゆっくりと薔薇を眺めながら低木を縫うように歩いていると、奥まった場所に、ひとつだけ隔離されるように咲いている薔薇の樹があった。
その薔薇は、青空のように綺麗な空色をしていた。
「………青薔薇姫」
青薔薇姫として造り替えられた、この世の『価値あるもの』のひとつ、空色の薔薇。
彼女の分身たちが、こんなところにいたのだ。
青薔薇姫は冷酷無慈悲で、口も利かず、目も見えず、誰よりも兵器らしい魔物で。
人間をたくさん殺し、魔王に献上して魔物に変えた。
最期は妹の裏切りによって呆気なく斃され、粉々になって砕け散った。
そんな彼女の元となった花は、庭師たちが心を砕き、愛情を注ぎ、丁寧に育て――この庭園の全ての薔薇の中で最も美しく、気高く、空に向かって咲き誇っている。
「あんた、けっこう綺麗じゃん」
朝露に濡れた花弁にそっと指を這わせ、水滴を落とす。
朝日を浴びて輝く青いその花は、誇らしげに微かに揺れた。
ふと、遠くから誰かの声が聞こえた。
そちらの方に向かうと、朝も早いのにもう庭で作業をしている者たちがいるようだった。
彼らはひときわ若い樹に向かって、灰を混ぜた水を樹にかけたり、小さなナイフで葉の裏をこそいだりしている。薔薇の天敵、アブラムシを潰しているのだろう。近くには銀色の犬が寝そべり、ひらひらと彷徨う蝶を追っていた視線を、ちらりとあたしに向けた。
その二人は、まるで恋人のように親しげに、楽しげに、その作業を黙々とこなしている。
二人がお互いを呼び合う名前に、心当たりは無かったけれど。少し恥ずかしそうに相手の名前を呼ぶ娘の表情は、初めて眼にする優しげなものだった。
まあ――バカなりに考えた結果がこれなら、いいんじゃないだろうか。
魔王軍を滅ぼすだけの価値のある未来がこれだとしたら、全く忠誠心のないあたしとしても、それなりに溜飲は下がる。
どれだけ忠誠心がないかと言えば、今は流れの吟遊詩人として、勇者の英雄譚を歌って回っているくらいだ。これがまた、あたしは歌が天職だったようで、非常に評判がいいのだ。
しかし、あのチマチマした退治方法だと、この庭園いっぱいに広がるアブラムシに対抗できないのではないだろうか。弱毒魔法のひとつでも教えてやろうか、姉として――。
そう思案していると、娘がこちらに気付き、大きく目を見開いた。
「――氷雪姫お姉さま!」
柄杓を放り出して、彼女が駆けてくる。
「あーあ、めんどくさ。見つかっちゃった」
あたしは口の端を上げて肩をすくめた。
若い低木の傍に佇む赤毛の青年は、あの頃とは全く違う、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめている。
幸せか、と聞こうとして、口を閉じる。
満面の笑顔で抱き着いてくる娘の、オパールのような虹色の瞳。
それによく似た虹色の、若い低木の薔薇のつぼみ。
――この声が枯れても歌い尽くせないほどの幸福なんて、商売道具にもなりゃしない。
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