第2話 貴石姫の恋(2)
それから、私の行動は一変した。
魔王軍として勇者一行を邪魔するという建前は保ちつつも、実際には赤毛の剣士の推し活を始めたのだ。
「今日も剣士様は素敵だわ……!」
邪鬼の森を進む勇者たちを、私は木陰から望遠鏡で観察していた。完全に怪しい人物だ。自分でもそう思う。しかし、やめられない。
剣士の一挙手一投足が美しく見える。
朝露に濡れた毒草を踏みしめる足音、仲間に声をかける時の信頼感に満ちた声音、瘴気の中でも目を惹く赤毛、たまに見せる控えめな笑顔──すべてが私の心を捉えて離さない。
「あら、トラップが強すぎたかしら……。ちょっと助けてあげましょう」
森に仕掛けられた古い罠に勇者一行が引っかかった時、私は遠くから魔法を使った。
こっそりと罠の動きを鈍らせる魔法をかける。本来なら致命的な威力を持つ巨大な茨棘の鞭が、ゆっくりとした動きに変わった。
剣士が華麗に剣を振るって罠を破壊すると、私は木陰で小さくガッツポーズをとった。
「さすが剣士様! かっこいい!」
大声に出してしまいそうになり、慌てて口を押さえる。隣の銀狼が呆れたように「くぅん……」と鳴いたが、無視をする。
そんな日々が続いた。
表向きは魔王軍として勇者たちの行く手を阻みながら、実際には剣士が危険な目に遭わないよう陰ながらサポートする。我ながら、なんと複雑な行動だろう。
邪鬼の森を踏破した勇者一行が毒の大河に差し掛かったある日、ついに避けられない時が来た。魔王軍の幹部として、勇者たちと対峙しなければならない時が。
「ホホホ! 魔王の命により、お前たちを殺させていただくわ!」
慣れない笑い方で威圧的に登場したものの、内心ではドキドキが止まらない。
直接彼の視線を受けるのは、あの森での出来事以来初めてのことだった。
(剣士様と戦えるなんて……! サイン欲しい! いやいや、敵ですもの、ダメだわ! でも、もしかしたら剣士様が探しているという魔王軍の仇を差し出したら、サインをいただけるかも……?)
いけない、いけない。今は魔王軍序列三位の貴石姫なのよ。しっかりしなさい。
「覚悟しろ、魔王軍の幹部!」
勇者が啖呵を切り、剣士が黙って剣を構える。頬や腕に残る薄い傷痕は、彼のこれまで掻い潜ってきた死戦の数だろう──ああ、とても強いのね! なんて推せるの!
私の頬がますます赤くなる。大丈夫かしら? 髪の毛、ちゃんとセットがキープされてるかしら?
「フ、フン! 私は貴石姫。死にゆく貴方たちの名前も聞いておいてあげるわ。この地に墓標を立てることになるんだから! ……なんてお名前なの?」
これはチャンス! 名前を聞き出せれば、後で匿名でファンレターでも――。
「お前に名乗る名などない!」
光る剣を振り払い、金髪の勇者がきっぱりと断言した。
貴方じゃないわよ! 貴方はどーでもいいのよ!!
怒りで瞳の色が赤く染まるのを感じる。なぜこの愚鈍な勇者は私の質問を遮るの。私が聞きたいのは剣士のお名前なのに!
「い、いきますわ! 宝光裂斬!」
わざと威力を抑えた魔法攻撃を放つ。本気で戦えば彼らを倒せるだろうが、剣士に怪我をさせるわけにはいかない。
目論見通り、赤毛の剣士は降り注ぐ宝石の刃を難なく避ける。
「気をつけろ、触れると手足を斬り落とされるぞ!」
きゃー! 剣士様にそんなこと言われたら照れちゃう! 私の攻撃を危険だと認識してくださっているなんて!
顔がにやつきそうになるのを必死に堪える。戦闘中よ、戦闘中! しっかりしなさい!
「紅玉飛弾!」
「黒真珠槍!」
次々と魔法を繰り出す。こんな必殺技みたいな呪文、本当は必要ない。でも、あった方が攻撃の内容とタイミングが分かって対処しやすいはずなので、それっぽい名前を適当に叫ぶ。
思ったとおり、彼らは私の猛攻を避けることが出来て――私は剣士の動きに見惚れていた。無駄のない剣さばき、的確な判断力、仲間への気遣い。すべてが完璧だ。
しかし、あまりにも彼の姿に夢中になりすぎて、周囲への気配りがおろそかになってしまう。
銀髪の弓使いが弾を避けた時、バランスを崩して転びそうになった。転ぶその先には、私が放った宝石の刃が地面に槍のように突き立っている。
慌てて風の魔法で彼を吹き飛ばし、弓使いは何もない地面に尻もちをつく。はっとした顔で、彼は急いで飛び退った。
……問題ない、勇者たちには気づかれなかっただろう。
ひとしきり戦闘を繰り広げた後、私はそろそろ退散の時だと判断した。
これ以上続けていると、手加減しているのがバレてしまうかもしれない。
「――つまらないわ。貴方たち、弱いのよ。もう少し強くなったら、また遊んであげる」
そう言って煙幕を張って逃走した。
嘘よ! 全然つまらなくないから! 本っ当に楽しかったわ!
安全な場所まで逃げ切った後、私は大きな岩に背中をもたれかけ、頬を抑えて息を荒げていた。
そんな私に向けて、銀狼が心配そうに鼻を鳴らした。
「クゥ……」
「なに?」
さっきの戦闘、明らかに手加減してたよね? と、彼女の白けた瞳が私を責める。
「て、手加減なんてしてないわよ!」
慌てて否定する。しかし、銀狼の呆れた表情を見ると、彼女には完全にバレているようだった。
「はぁ……」
私は大きくため息をついた。これでは魔王軍の幹部失格だ。しかし、剣士が傷つくことは耐えられない。
どうしよう。このまま勇者たちを追い続けていても、まともに戦えるとは思えない。でも、彼の姿を見ていないと落ち着かない。
もはや、赤毛の剣士の壮健な姿を見ることが、私にとってただ一つの、そして初めての生き甲斐になっていた。
「難しいわね……」
私は夕日に染まる空を見上げながら呟いた。恋とは、なんと厄介なものなのだろう。
のろのろと帰ったあと、私は魔王城の自室のベッドの上で、ごろごろと転がっていた。
「はぁ……剣士様……」
首飾りとしてあしらった高級ポーションを見つめながら、彼の凛々しい顔を思い浮かべる。あの傷痕だらけの手足、心配そうに私を見つめてくれた翠色の瞳、「命は二度と戻らない」と真剣に語ってくれた声。
すべてが愛おしくて、胸が苦しくなる。
このまま一日中、彼のことを考えていたい……。
「あんたさ。好きな男でもできたの?」
突然の声に、私は飛び上がった。
「ひゃっ! お、お姉さま! いつからそこに!?」
慌てて起き上がって振り返ると、序列二位の氷雪姫が部屋の入口に立っていた。
いつものように冷気を纏い、冷たく美しい相貌で、冷ややかに私を見下ろしている。
「さっきからずっとよ。気持ちわる」
氷雪姫は肩をすくめながら部屋に入ってきた。私の頬が熱くなる。
「ちょ、ちょっと考え事をしてただけよ!」
「相手は勇者一行の剣士でしょ。バレバレ」
「!!!」
氷雪姫の鋭い指摘に、私は言葉を失った。
これでも、誰にも見破られないようにしているつもりだった。しかし、冷静に敵の心理を看破し、相手を翻弄する戦い方を好む氷雪姫にとって、私の恋心など、手に取るように分かるものだったのだろう。
「……そうよ」
観念して俯く。
氷雪姫は窓辺に向かい、外の昏い空を眺めながら気だるげな声で言った。その声は細い氷のように透き通り、聞く者の琴線に触れるような美しい響きを持っている。
「そんなに気に入ったなら、洗脳魔法で手っ取り早く自分のモノにすれば?」
「そ、そんな! それでは意味がないわ! そんなことしたいんじゃないの!」
私は激しく首を振った。
洗脳? そんな恐ろしいことを剣士に? 絶対にダメだ。彼の優しさも、信念も、すべてが偽物になってしまう。
氷雪姫は振り返ると、凍える視線で妹の私を見下ろした。
「あたしたちはただの魔物よ。勇者が勝てば、あたしたち全員皆殺し。人間に殺されたくないから戦ってるだけの、大義名分のない、魔王の兵器よ」
噛んで含めるように言うその言葉は、氷の刃のように冷たく鋭利だった。胸に突き刺さって、息が詰まる。
「勇者たちみたいに、死を覚悟して魔物の大群の中に突撃する異常者の気持ちなんて、わからないわ。あたしたち全員を殺せば、世界に平和が訪れると信じ切ってる。人間の問題の全てが解決すると思い込んでいる。――そんな筋違いな憎悪を、洗脳して忘れさせてあげたほうが、相手のためじゃない? そもそも相手は、あんたを殺す相手としか見てないんだし」
私は何も言い返せなかった。
確かに、氷雪姫の言う通りだ。私たちに大義名分などない。
魔王に作られた人工的な存在で、ただ生きるために戦っているだけ。勇者たちのように「世界を救う」という目的があるわけでもない。
そんな私たちと、勇者たちは、永遠に交わることはない。絶対に。
でも――。
「それでも、私は……」
小さくつぶやいた言葉に、答えを返す者は誰もいなかった。
氷雪姫は再び窓の外に目を向ける。
「まあ、好きにすればいいわ。どうせ最後は殺し合い。いや、序列一位の青薔薇姫に勝てる人間なんて存在しないんだから、一方的な虐殺か。……あんた、くれぐれもよく考えて行動しなさいよ」
そう言い残して、彼女は部屋を出て行った。
一人残された私は、再びベッドに倒れ込んだ。天井を見つめながら、氷雪姫の言葉を反芻する。
私たちはただの兵器。
勇者が勝てば私たちは皆殺し。
相手は私を殺す相手としてしか見ていない。
「そんなの……分かってるわ……」
胸が締め付けられる。剣士と私は、生まれながらの宿敵だ。
彼は私に高価なポーションをくれた。見ず知らずの私に、「命は二度と戻らない」と真剣に語りかけてくれた。あの彼の優しさは、本物だ。
でも、それは私が村娘のフリをしていたからだろう。
私が人間ではない魔物であることを知っていたら、彼はあんな態度を取っただろうか? きっと、有無を言わさず斬りかかってきたに違いない。
彼の優しさに触れた時に初めて感じたあの温かさは、すべて虚構。私ではない「人間」に向けられたものだったのだ。
どんなに恋だ推しだと騒いでみても、現実は変わらない。
私は魔王軍の貴石姫。彼は勇者の仲間。私たちは敵同士で、いつかは戦わなければならない。
「剣士様……」
枕に顔を埋めて、私はもう一度彼に想いを馳せた。心臓がまた激しく鼓動を始める。この気持ちは消せない。でも、消さなくてはならない。
もう、タイムリミットだ。
私は自分の想いを捨てる決意をした。
勇者たちを――赤毛の剣士を殺し、魔王軍に勝利をもたらすために。
◇ ◇ ◇
ついに、その日が来てしまった。
魔王城の大広間で、勇者一行との決戦が始まった。私は彼らの前に立ちはだかる。
でも、その声は微かに震えていた。どうして震えているのかは、自分でもよくわかる。
「よくここまで来たわね、勇者ども。これ以上先へは行かせないわ!」
強い言葉とは裏腹に、私の心は緊張で千々に乱れていた。
「また会ったな、貴石姫。今度こそ決着をつける!」
勇者の号令に合わせて、あの時のように剣士が剣を抜く。その熱く真剣な眼差し、揺るぎない決意。私の胸が痛んだ。
ああ、この人は本気なのね。私を敵として、殺すべき存在として見ている。
でも、それが正しい。私たちは敵同士なのだから。
兵器である私たちには、戦う理由などない。ただ、死にたくないだけ。生き延びるために、目の前の敵を倒すだけ。それが私たちの存在意義。
でも、剣士や勇者たちは違う。
彼らには守りたいものがある。信じるものがある。世界を救うという崇高な目的がある。
それは、私には全く理解ができないものだった。
私には守りたい世界もなければ、救いたい人々もいない。
ただ、この城で作られた人工的な存在として、命令に従って生きてきただけ。
でも、だからこそ――兵器の私には、判断がつかなかった。
魔王軍が勝った先の未来に、いったい誰の、どのような幸福があるのか。
果たして勇者たちの目的が、殺してまで阻止すべきものなのか。
――二度と戻らない命を、彼らから奪うべきなのか。
「……ふふ」
私は思わず笑った。自分が決めたことが、我ながら理解不能で、不合理だったからだ。
そして、勇者たちに進路を開けるように、ゆっくりと横に移動する。
「な、何を……」
困惑する勇者たち。私は彼らを見据え、はっきりと言った。
「魔王の前に控える最後の幹部、青薔薇姫はとても強いわ。百本の鋼鉄の蔓を鞭のようにしならせ、近づく者すべてを切り刻む。けれど、目が見えないの。周囲のすべてを、音で感知しているわ」
「お前、なぜ……」
剣士が驚愕の表情を浮かべる。
ああ、その驚いた顔は初めて見た。とても素敵だわ。それが見れただけでも、この行いが報われる。
「私、兵器として壊れているみたい。自分の命より、裏切りを選ぶなんて」
勇者たちは私の意図を理解すると、私の横をすり抜け青薔薇姫のもとへ向かって行った。
横を通り抜ける時に、剣士が私に視線を寄越した気がする。これが秋波だったら良かったんだけど、たぶん奇妙な行動をする敵幹部の内心を探るものだったに違いない。ああ、残念。
私は彼らを見送ることもせず、城の外に出た。
大きく空気を吸い込む。昏い空、瘴気に満ちた重い空気。でも、不思議と清々しかった。
やっと、やっと自分で選択したのだ。初めて、自分の意志で決めた。
その行動は――あってはならない、魔王軍への最大の裏切り行為だったけども。
次の瞬間。
黒い影が私に襲いかかった。
「が、あッ……!」
胸を鋭い痛みが貫き、私は膝をついた。
背後に、蝙蝠の使い魔が羽ばたいている。あれが影の剣を生み出し、私の胴体を貫いた。魔王の命令で、私を裏切り者として処刑したのだ。
血が口から溢れる。体が強張り、冷えていく。
「そう……そうなるわよね……」
崩れ落ちて、私は独りで空を見上げた。星は見えない。瘴気に覆われた空には、暗闇しかない。
私の意識が泥のような闇に沈む中、足音が聞こえた。
誰かが私のそばにやってきて、静かに見下ろした。
「だから言ったじゃん、よく考えて行動しろって。その結果がこれ? ほんと、頭の悪いやつだな」
氷雪姫だった。その涼やかな声に感情はない。でも、どこか寂しげにも聞こえた。
「あんたのせいできっと魔王軍は敗北、人間の勝利は濃厚。殺されたくないから、あたしも逃げるわ。まったく、誰に似たんだか……バカな妹を持つと苦労するよ」
氷雪姫は倒れている私に近寄り、胸元をまさぐり、傷に触れた――ように思う。もう、視覚も聴覚も、触覚も、自分のものではないほど遠くに行ってしまったので、分からない。
かすかに遠ざかっていく氷雪姫の足音を聞きながら、私は最後に大きく息を吐いた。ごぼりと、口から血があふれる。
最後に謝りたかったが、彼女の気配は既に消えてしまっていた。
ごめんなさい、私のせいできっと魔王軍は負ける。
でも氷雪姫は、私よりもずっと賢いから、上手く立ち回って新しい世界でも生きていけるはず。
剣士も、私が伝えた青薔薇姫の弱点を利用すれば、勝てるはず。
どうか、どうか、死なないで。
「どうか……死……」
――不意に、涙が頬を伝う。
バカなことをした。
氷雪姫は呆れていた。私もそう思う。
今だって、後悔しかない。
なんでこんなバカなことをしたんだろう。
あとからあとから、後悔の涙が溢れ出る。
本当は、死にたくなんかない。
まだ、生まれて一年も経っていないのに。
こんな恋心など、一時の熱病だと割り切って彼らを殺せば、魔王軍は確実に勝利できた。
私だって生き延びて、楽しく生を謳歌できたはず。
また新しい誰かを見つけて、恋を楽しめたはずなのに。
「………ちがう……」
――違う。
――そんな誰かなんて、いない。この先、未来永劫、ずっと。
優しい、翠色の瞳。
あの人の命は奪えない。
あの人の願いを、叶えてあげたい。
私が初めて感じた恋という感情が、私を壊してしまった。
――誰かのために、命を捨ててもいいと。
これが私の人生の全てだったのだと。
そう、思えてしまったのだ。
「………、……」
意識が遠のいていく中で、私は彼の名前を呼ぼうとしたが、できなかった。
最期に、名前を知りたかった。
そう願いながら、私は永遠の闇に飲み込まれていった。