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元王子が女装する理由

作者: ユタニ

R15です。あらすじを読んでから進んでください。


「フランカ・フォンタナ侯爵令嬢、あなたとの婚約を破棄する!」

この国の第一王子ライナートは高らかにそう宣言した。


今宵はライナートの20才を祝う舞踏会で、たくさんの招待された貴族達がいる。列席者達は開始早々に始まったこの騒動に驚いて息を呑んだ。


人々の注目がライナートと婚約者のフランカ侯爵令嬢、そしてライナートの隣の愛くるしい外観の男爵令嬢に集まる。男爵令嬢の身がすくむのを感じたライナートはそっとその肩を抱き寄せた。


ライナートと男爵令嬢に対峙する形で立っていたフランカは毅然としていた。

今夜のフランカは柔らかな茶色い髪をきっちりと編み上げ、自らの瞳と同じ青いドレスをまとっていた。


「理由をお伺いしてもよろしいですか」

フランカが静かに聞いてくる。


「俺は真実の愛を見つけたのだ。伴侶は彼女以外考えられない」

ライナートが告げるとフランカの澄んだ青い瞳は僅かに揺らいだ。

しかし彼女はすぐに美しいカーテシーをすると「分かりました。殿下、これまでありがとうございました」と一言告げて去っていった。




舞踏会場は大騒ぎとなり、ライナートは中座してすぐに父である国王の元へと報告に行った。


「何ということをしたんだ! 何をしたか分かっているのか? お前の王位継承は絶望的になるぞ」

父は呆れ果てて怒ったが想定の範囲内だ。ライナートだってフランカの実家の侯爵家の後ろ盾を無くせば、己の王位継承権一位の優位が大きく揺らぐことは理解している。


それよりも男爵令嬢との愛を選んだのだ。

あんなに目立つ場所での婚約破棄の宣言も醜聞になると分かって行っている。衆目の前でやってしまえば後戻りは出来ない。

フランカは控えめで穏やかな性格で、仕事に関しても有能だ。身分も王妃として問題なくフランカの側に瑕疵はない。なので多少強引なやり方でなければ婚約破棄が出来ないと考えたのだ。


醜聞は甘んじて受け入れるつもりだった。元々、王位継承権にはそんなに拘りはない。自分よりも上の弟である第二王子の方が優秀で計算高いことも知っている。


(王位は弟が継げばいい。俺は愛をとる)

この時のライナートはそれほどに男爵令嬢との真実の愛の熱に浮かされていた。


第一王子として王位継承権一位だったライナートは弟二人に越されることとなる、継承権は第三位となり、離宮での半年間の謹慎が命じられた。




❋❋❋


謹慎に入って数日間はライナートは真実の愛を貫き通した高揚感でいっぱいだったのだが、一週間もするとそれは冷めた。


外部との接触は手紙のみが許されており、使用人も最低限の離宮でライナートは静かに過ごしだす。


謹慎中であってもライナートが第一王子として行っていた公務は回ってくる。規模の大きなものはライナートに代わって継承権一位となった第二王子へ回される予定だが、その為の引き継ぎ資料の作成は必要である。


娯楽は何もなく、愛する男爵令嬢とはひと目も会えない中、ライナートは黙々と仕事をこなした。


一月ほど経ったある日、ライナートは公務の合間にふと、フランカの淹れてくれた紅茶が飲みたいな、と思った。


フランカはよくライナートの執務室まで来て、紅茶を淹れてくれていたのだ。

時々、香りを変えたりハーブを加えたりする彼女の紅茶は優しい味で、飲むといつも落ち着いたなと思い出す。


思い出してから、やれやれこんなことを思うなんて大分弱っているな、と頭を振ってフランカの紅茶を追い払った。



また別の日、ライナートは離宮からぼんやりと庭を眺めて、ここでよくフランカと遊んだなと思い出した。

離宮の近くの庭は子供の頃にフランカとよく遊んだ場所だった。

ライナートとフランカの婚約はライナートが八才、フランカが六才の時に結ばれたもので、小さい頃は顔合わせの度に二人で遊んだのだ。


少女の頃のフランカは弱虫で泣き虫で、ライナートが木に登ると心配してはらはらと泣いたし、苦手な芋虫を近づけると悲鳴をあげてやっぱり泣いた。


しょうがないなぁ、と木から降りたり、芋虫を草むらに戻してやるとやっと泣き止む女の子だった。


同い年の男の子の遊ぶのに比べると張り合いはなかったが、ライナートは泣き虫のフランカを可愛いと思ったし、一生守ってあげようとも思った。


離宮の窓から昔登った木を見る。

最終的にはライナートが手伝ってやって、フランカもあの木に登った。


『ライナート様、登れました』

頬を紅潮させて喜ぶフランカはものすごく可愛いくて、その頬にキスしたのも覚えている。フランカは真っ赤になって、でもライナートの頬にキスを返してくれた。


ライナートはその時キスをされた頬を撫でる。


フランカが13才の時に王子妃としての教育が本格的に始まり、この頃からフランカは泣かなくなり、淑やかに穏やかに振る舞うようになった。その態度は時によそよそしくてライナートはそれが気に入らなかった。


だがこうして思い返すと、フランカはライナートを支えるために強くなろうとしてくれたのだと分かる。


フランカはライナートが苦手な語学に身を入れだし、家庭教師からは「ライナート様もフランカ様を見習ってお気張りなさいませ」と言われた。

その当時は屈辱感でいっぱいになり、フランカを憎悪したのだが、あれだってライナートのためにやってくれていたのだ。


ライナートが16才から始めた公務もフランカは手伝ってくれた。しかしライナートは自分の苦手な分野にそっと手を加える彼女に対して、全てを見透かされているようでイライラしていた。


フランカはライナートの誕生日にはいつも身の回りのものに刺繍をいれたものを贈ってくれた。

それを毎年毎年、ワンパターンだなと呆れていたのだが、あれはきっと小さい頃にライナートがフランカの刺繍が上手だと褒めたからなのだと今なら分かる。


きっと褒められたのが嬉しくて毎年一生懸命刺繍をしていたのだろう。貰った品々を取り出してみるとどれもかなり凝った意匠で時間のかかるものだった。一針一針心をこめて刺してくれたのだ。


ライナートが離宮にいる間に思い出すのは、捨ててしまった元婚約者のフランカのことばかりだった。

そして身分を超えた真実の愛だと思っていた男爵令嬢への気持ちは急速に冷めていった。


こうしてきちんと距離を置いて思い返すと、男爵令嬢が見ていたのはライナートの外見と第一王子という地位だけだったのではないかと思う。

甘えた態度や『私には殿下だけです』という言葉に胸を熱くしていたのだが、あれらは上辺だけだったのではと気づいた。


以前、男爵令嬢からもらった手紙を読み返すと、字は拙く心のこもらない言葉が並ぶ。


「真実の愛、ではなかったのだな」

全てを理解したライナートはぽつりと呟いた。


自分を愛してくれていたのはフランカで、ライナートもまたフランカを愛していたのだと今更気づいた。

幼い頃から近くにあり過ぎて、当たり前過ぎて気づいていなかったのだ。

だが、遅すぎる気づきだった。


本当の愛に気づいたライナートは一人で後悔して、もしかしたらフランカをまた泣かせてしまったのではと自分を責めた。


謹慎が終わる頃、男爵令嬢の家の主家である伯爵家が第三王子を推している中心的な家であることも知った。

くだんの男爵令嬢は謹慎中の自分へは手紙の一通も送ってきていない。 


ああ、自分は嵌められたのだ、とライナートは悟った。真実の愛の相手だと信じた男爵令嬢はライナートを失脚させるために愛を囁いていたのだ。

謹慎が開けてここから出たらもう接触してこないのだろう。


不思議と腹は立たなかった。引っかかった自分が悪い。

それよりもフランカがどこかで一人で泣いているのではと、そればかりが気がかりだった。



謹慎が開けて、ライナートは第二王子の19才の誕生日の夜会に出席した。継承権争いから事実上退場したライナートに声をかけてくる貴族はいない。

たくさん寄ってきていた令嬢達も皆ライナートを遠巻きにしている。真実の愛の相手だった男爵令嬢は王都から去ったと聞いた。


ライナートは一人でホールの隅で踊って笑う人々を眺めた。

今のライナートにはこの状況はちょうどよかった。ライナートはこっそりとフランカの姿を探した。声をかけるつもりはない。ただ元気な姿を確認したかっただけだ。

あれほど盛大に振っておいて寄りが戻せるなんて考えてはいない。フランカはもうライナートなんて見たくもないだろう。

遠目でいいから姿を見て幸せを願おうと思った。


しかし、どれだけ探しても会場にフランカの姿はない。

第二王子の誕生日の祝いの夜会に侯爵家令嬢のフランカが参加していないなんて変だ。

体調でも崩しているのだろうか、と心配しながらライナートは早々に会場を後にした。


翌日、それとなく侍女にフランカの体調について聞いてみると、侍女は目を丸くしてこう言った。


「フランカ嬢は侯爵家より除籍されて修道院へ入られてますよ」


ライナートは心底驚いた。

謹慎中は外部との接触は禁止だったから全く知らなかったのだ。

ライナートは父親である国王の元へと行き、詰問した。


「どういうことですか!? なぜフランカが修道院に? 彼女には何も非はなかったでしょう」

詰め寄るライナートに国王は険しい顔になる。


「侯爵家が決めたことだ」

「しかし」

「長女とお前の婚約がなくなり、侯爵家は第三王子に近付いた。今は次女を第三王子に添えようと躍起だ。そんな中でお前の婚約者だった長女は邪魔だったのだろう、彼女は侯爵の先妻の子で家での立場は元々あまり良くない。知っていただろう?」


「それでも侯爵家ですよ? フランカは優秀でした。時期を置けば真っ当な縁があったはずです」

「彼女はお前に一途な想いを抱いていた。除籍と修道院行きは彼女本人が望んだことでもあると聞いている」

「そんな……」

ライナートはすぐに父の部屋を出ていこうとした。


「待て、どこに行く」

「フランカを迎えに行きます。侯爵家の令嬢だった彼女が修道院なんて、辛い目にあっているに決まっている」

「迎えに行ってどうする、使用人にするのか? それとも愛妾に?」

父の言葉にかっと頭に血が昇る。


「使用人? 愛妾? そんなものにするわけがないでしょう!?」

「ではどうするつもりだ、妻にするとでも? フランカ嬢は今や平民だ。第三位とはいえ王位継承権があるお前の妻に迎えられるわけがないだろう。私も許可はせんぞ」

「……侯爵家の籍に戻せば」

「侯爵家が受け入れるものか。侯爵家に限らん、今、貴族達は第二王子と第三王子の派閥争いに必死だ。そのどちらとも敵対するお前の元婚約者を受け入れる家はない」

「っ……」


「彼女を日陰の身で自分の側に置く身勝手さを考えろ」

父はそう言うとライナートを退出させた。


ライナートは一晩考えて結論を出す。



「廃嫡してください」

翌日、父の元を訪れたライナートは静かに願い出た。


「継承権は返上します。王族から除籍してください。その上でフランカを迎えに行きます」

「彼女がお前を受け入れるとは限らない」

「構いません。それならそれでいい」

淡々と告げるライナートに父は渋い顔をした。


「女の為に一生を棒に振るのか?」

「女ではありません。フランカです。それに棒に振るのではありません」

「…………半年前に失敗したばかりではないか」

「あの時は確かに完全に浮ついていました。今回は違います。フランカこそ、俺の一番大切な人だと分かったんです」

「遅すぎる」

「遅すぎますが、だからこそ迎えに行きます。お願いです、父上」

廃嫡してください、と再度嘆願すると父は長々とため息を吐いた。


「……お前のその真っ直ぐな部分を私は買っていたのだ。阿呆では困るが、国のトップには素直さも必要だと。粗はあるが、それはフランカ嬢と周囲で補えばよいと考えていた、残念だよライナート」

父は片手で額を覆い頭を揉んだ。ライナートや弟達が幼かった頃、息子達のおねだりを聞いてくれる時に父がよくしていた仕草だ。


「廃嫡はしよう。だが安易に市井に下ることは許さん。お前は王族として受けた恩恵をきちんと国に返すべきだ。子爵位を与える。領地はやらん。落ち着いたらややこしい仕事を回すから覚悟しておけ」


「ありがとうございます」

ライナートは笑顔で礼を言った。




❋❋❋


子爵となったライナートはすぐにフランカが入っているという辺境の修道院へと向かった。

だがそこにフランカはいなかった。

シスター達は口を揃えてフランカはここを訪れていないと言う。


ライナートはフランカの父であったフォンタナ侯爵にそのことを伝えフランカの行方を聞いたが、侯爵からは「送り出した後のことは知らない」と返ってきた。


「修道院が嫌で逃げ出したのかもしれませんな。どうなったにしろ、あれは当家とはもう関わり合いのない娘です」

派閥争いで忙しい侯爵はそれだけ言うとさっさと行ってしまった。

そこに血を分けた娘への愛は微塵もない。


(こんなにも無関心なのか……)

侯爵家で、先妻の子であるフランカと後妻の子である妹への待遇が違うのは元より有名な話だった。それにしてもフランカの身の安全に関することへのあまりの無関心ぶりにライナートは唖然とした。


一人で必死にフランカの行方を探していると、意外にも助けてくれたのは弟の第二王子だった。

「ここで兄上に恩を売っておくのも一つですしね」と言い、騎士団を動かしてフランカの捜索にあたってくれた。


そうして突き止めた居場所は地方の街の最下級の娼館だった。フランカは修道院へ行く道中に盗賊に襲われ、売られていた。


場所が場所だっただけに情報はひっそりとライナートにだけ伝えられ、ライナートは祈るような想いで一人で娼館に馬をとばした。

夕暮れ時、娼館の営業開始直前に駆け込んだ部屋には薄い夜着に身を包み虚ろな目をしたフランカと、その身支度をしているらしい年配の赤毛の娼婦が居た。


「フランカ!」

呼びかけるがフランカはぼんやりとライナートを見返すだけだ。輝きを失った青い瞳がゆっくりとライナートを辿る。

ライナートの全身を確認してからフランカはこう言った。


「いらっしゃいませ、だんなさま」


セリフは棒読みでその目は何も映していない。


愕然とするライナートに、一緒にいた赤毛の娼婦がフランカは意識が曖昧になる薬を盛られていると説明した。

泣きながら客の相手をするので客がつかず、最近は薬漬けにされているのだと。

淫らな夜着から出ている腕や足には縛られた痕があり、痣も複数あった。


ライナートに吐き気がこみ上げる。

ライナートは浴室に駆け込んで激しく吐いた。えずいて泣きながら吐いた。

胃の中のもの全てを出して口をゆすぎ、涙を拭う。

震えながらフランカの元に戻ると赤毛の娼婦がこう告げた。


「この子、妊娠もしてるんだよ。父親は分からないけどね」

ライナートは真っ白になり、言葉も出ずに床に崩れ落ちた。


(にんしん……)

ライナートの脳裏に、木の上で真っ赤になりながら頬へのキスを返してくれたフランカが甦る。

可愛くて大切だった少女だ。あの時のフランカは確かにライナートのもので、ライナートが一生守っていく女の子だった。


そんなフランカが父親も分からない子を、妊娠している。


ライナートは一瞬、フランカを殺して自分も死のうかと思った。

彼女の首は細く、締め上げればすぐだろう。


暗い気持ちで顔上げると、曇りガラスのようなフランカの青い瞳にうずくまる己が映っていた。


「あんたはフランカの知り合いかなんかかい? 言っとくけど、薬が抜けてもこの子はもうまともじゃないよ。ショックと薬のせいで正気を失ってるんだ。幼児並みの受け答えしか出来ない」

赤毛の娼婦は苦々しく言った。


そんな生に何の意味があるだろう。

ライナートはふらりと立ち上がってフランカに近づいた。


「いらっしゃいませ、だんなさま」

オウムのようにフランカが繰り返す。


ライナートはその首に手を伸ばそうとして、しかし止めた。

彼女の生まで自分の考えで終わらすのは勝手過ぎる。おまけに心中のようなことまでするつもりなのだ。そんなもの、今のフランカにとってはただの迷惑だ。


(終わらせるのは、フランカが望んだ時だ)

ライナートはぐっと拳を握って改めてフランカを観察した。

フランカがこんな目に遭っているのは全部自分のせいなのだ、見せかけの真実の愛に騙されて婚約破棄をした結果だ。ライナートにはフランカを直視する義務がある。


彼女の柔らかな茶色の髪は艶を失い、真珠のようだった肌は乾燥してカサカサだった。全体的に明らかに栄養が足りてない様子で痩せている。頬の下と肩には黄色い痣があった。腕とふくらはぎにも小さな痣、手首には縛られた痕があり、右手には火傷の痕もある。裸足の足には細かな傷がたくさん見られた。


「この娼館では虐待が?」

掠れた声で赤毛の娼婦に聞くと、女はため息混じりに答えた。

「虐待っていうか、殴る客はたまに居るけどね。この子の頬の痣は客がやった。縄の痕は前に逃げようとして捕まった時ので、火傷や小さな痣とか傷はフランカが自分で作ったものだよ。やる事は子どもなのに体が大人だからしょっちゅうケガするんだ」


ライナートはマントを取るとそれでフランカを包んで抱き上げた。フランカはぼんやりとライナートを見上げるだけで、一切抵抗しなかった。


「ちょっと、その子をどうする気だい?」

「買い取る」

ライナートはそのままフランカを買い取った。哀しいほどに安かった。


娼館を出て歩き出すと、先ほどの赤毛の娼婦が追いかけてきた。

「待ちなよ! フランカを買うならあたしも買いな!」

ライナートの腕をきつく掴んで娼婦が言う。


「は? なぜだ。お前に用はない」

「二三日でフランカからは薬が完全に抜ける。そしたらその子は怯えて暴れるよ、今はあたしにか触らせないんだ。あたししか世話は出来ないんだよ、本当だよ」

「…………」

ライナートは少し迷った末に赤毛の女も買った。

こちらは売値はつかなかった。女はもう客が取れる年齢ではなく、ほとんど下女として居座っていたようだ。店主はもらってくれるだけでありがたいと女を追い払った。


赤毛の女に名前を聞くとミンスと名乗った。


ライナートはフランカとミンスを連れて新しく与えられた子爵の屋敷を目指した。


屋敷は王都から少し外れた小さな町の一角にあり、フランカの居た娼館からは馬車で二日ほどかかる。

フランカの薬が抜けると暴れて逃げる、とミンスが主張したのでライナートは二日目に体に害のない弱い睡眠薬をフランカに与えた。

移動の間、フランカは終始うとうとしながら座っていた。


馬車の中でミンスにフランカのことを聞く。

フランカは最初、もう少しランクの高い娼館に売られたが、泣いて暴れるので使い物にならないとミンスの居た娼館に売られて来たらしい。やって来た時にはもう子どものようでミンスは放っておけずに面倒をみていたと話した。

「あたし、病気で亡くした妹がいるからそれと重ねちゃってね」

ミンスはぽつりとそう付け加えた。



屋敷に着くと、ライナートはフランカを自分の部屋の隣の部屋へと連れて行った。ここならライナートの部屋とも奥の扉で繋がっていて安心だ。

屋敷の使用人は廃嫡されたライナートに付いてきてくれた者達で信頼できる者しかいない。

メイド達がフランカを丁寧に湯浴みさせた。


湯浴み後、清潔で柔らかいベットに入ったフランカはすぐに寝入った。移動中はほとんど寝ていたがきちんとは眠れていなかったようで、疲れていたのだろう。

その寝顔は安らかで、ライナートはほっとして医師を呼んだ。


医師の診察が終わる。

医師は、フランカは妊娠約三ヶ月で軽い栄養失調が見られると言った。

体にある外傷や痣は小さなものが多く、問題になるようなものはないとのことだった。


娼館で使用されていた薬について尋ねると医師は顔をしかめた。

常用すると脳に影響のあるものらしい。もちろん胎児にも悪い。ミンスはフランカがそれを使用されていたのはこの一ヶ月ほどのことだと言った。


医師はそれくらいなら致命的な影響はないだろうが、経過をみないことには何とも言えないと答えて帰っていった。


「フランカのお腹の子どもはどうするんだい? 三ヶ月なら堕ろせないこともないけど……」

医師が帰った後にミンスが聞いてくる。

ライナートは眠るフランカを見つめた。 


フランカがミンスの言う通りの状態なら、お腹の子どもについて決断するのは難しいだろう。それならライナートが決めて責任を持つしかない。


(俺は、この子を愛せるだろうか?)

自問してみる。


愛せる。

ライナートはすぐにそう結論づけた。


「堕ろさない。今から堕ろすのは危険だ。産まれた子は俺の子にする」

ライナートがそう答えるとミンスは「ふーん」と言った。





❋❋❋


翌朝、ライナートは隣のフランカの部屋からの大きな物音で目が覚めた。

慌てて奥の扉から飛び込むとフランカが廊下への扉に体当たりをしていた。

その扉は念のためにと外から鍵がかけられていたのだ。


フランカは目が覚めて見知らぬ場所であることにパニックになり逃亡をしようとしたらしい。


「フランカ!」

ライナートが声をかけて近づこうとするとフランカは怯えきった目を向けた。


やー、とか、あー、と意味不明のことを叫びながらフランカはライナートから逃げた。その様子は迷い込んでしまった野良猫のようで、全身の毛を逆立てて威嚇しながら怯えている。


「フランカ! 大丈夫だからっ」

何とか説得しようとするが全く聞いてくれない。

フランカは必死に花瓶や枕を投げて攻撃もしてきた。


「フランカ! 俺だよライナートだ。一緒に遊んだだろう? 木登りをしたのを覚えてないか?」

枕を受け止めて言い募るがフランカは恐怖に顔を引き攣らせながら首を振って、拒絶の言葉を叫ぶ。

そして最終的にはクローゼットの奥へと隠れてしまった。


このクローゼットに押し入るのは絶対に逆効果だと思い、ライナートはミンスを呼んだ。


「フランカ、あたしだよ。ミンスだ。大丈夫、なんか優しい旦那があんたとあたしを買ってくれたんだ。あんたが亡くなった娘に似てるんだってさ。ここではあんたの嫌な仕事はしなくていいんだ。ベット、ふかふかだっただろ? 今日からずっとあれで寝れるんだよ。お腹も空いてるだろ? ご飯もあるんだよ。白いパンとスープだ。スープにはきっとベーコンが入ってるよ」

ミンスの説得に、あー、とか、うー、というフランカの声が聞こえてくる。

ミンスが粘り強く声をかけ続けるとフランカは少し落ち着き、クローゼットの中から意味のある言葉が聞こえてきた。


「さっき、おきゃくさん、いた」


「っ…………」

舌足らずな言葉遣いにライナートは胸が潰れそうだった。

『ライナート様』と柔らかく呼んでくれたフランカの声が、まるで幼子のように頼りなく言葉を紡いでいる。

おまけに自分はフランカにとっては客で恐怖の対象でしかないようだ。フランカはライナートのことを完全に忘れていた。


「あれは客じゃないよ」

「しごとはいや! いや!」

「もうしなくていいんだ」

「でも、おきゃくさん、いた」

「だからあれは違うよ」


“客”と“仕事”を嫌がるフランカの様子にライナートはフランカがどんな目を遭ったのかを想像してしまう。

視界が暗くなるほどの怒りがこみ上げた。

フランカと関係した男を全員殺したかった。


怒りは自分自身へも向いた。

何が真実の愛だ、都合のいい言葉と態度に騙されて浮かれていただけだ。一番大切だったものを傷付けて不幸のどん底に突き落とした。


「ちょっと、怒気を出さないでくれないかい? 雰囲気で分かるんだよ。フランカが怖がってる」

ミンスの注意にはっとする。


「とりあえずフランカと二人にしておくれ、あんたが居ちゃ、また隠れちまうよ」

ミンスが言い、ライナートは力なく頷いて自室へ引き上げた。ライナートが出ていってほどなくフランカはクローゼットから顔を出した。


その日、フランカは警戒しながらも三食食べて、夜もきちんと眠ってくれた。



翌日、フランカは逃げようとはしなかったが部屋に入れるのはミンスだけだった。

食事は美味しそうに食べ、上機嫌で眠った。


そうやってフランカは少しずつ子爵邸に慣れた。

やって来て数日はミンス以外を受け付けなかったが、一週間経つ頃にはメイド達が部屋に入っても怯えないようになった。


二週間もするとフランカの体の痣は薄くなり、細かな傷もなくなった。

三食きちんと食べているので血色もいい。

日中はミンスやメイドと朗らかに絵本を読んだり、双六遊びをして笑顔を見せるようにもなった。


だが男は一切ダメだった。

フランカはライナートが部屋に入っただけで逃げ回ったし、窓から庭師の男が見えただけで体を硬くしてクローゼットに隠れようとした。


ライナートは自分も含めて屋敷の男性全員にフランカの部屋に近づくことを禁止し、出来るだけ視界に入らないようにして欲しいとも伝えた。


最愛の人が壊れたままであるのに胸が苦しく、慰めてやることすら出来ないのは歯がゆかったが、ライナートもひっそりとフランカを見守った。


しかし、フランカが初めて庭まで出てきた日、運悪く休憩中の庭師の男に遭遇してしまう。

フランカは悲鳴を上げて屋敷から逃げ出した。

ライナートと庭師が追いかけてすぐに捕まえたものの、男に体を拘束されたフランカは戦慄して暴れに暴れた。


恐怖が限界を越えたフランカが気を失ったので、何とか怪我をさせずに連れ帰ることは出来たのだが、ライナートは恐ろしくなる。

このままではフランカを守るべき時に守れない可能性があると気づいたのだ。

避難や手助けが必要な時でも、手を差し伸べる相手が男であればフランカは暴れるだろう。


ライナートは何かあった時にフランカを助け守ることが出来る男手が必要だと考えた。そして、それを誰かに任せるつもりは微塵もなかった。決意したライナートは町へと向かった。


ライナートは町の仕立屋で一番大きいサイズのメイド服を買ってくると、それを身に着けた。

ライナートは黒髪黒目の長身の男である。

大柄な父に似て骨格はがっしりしている方だし、身を守る為に最低限とはいえ剣も学んだのでそれなりに筋肉もある。顔立ちは整っている方だが目つきは鋭く、美しいというより精悍な顔だ。


出来上がったのは中性的な妖しいメイドではもちろんなく、得体の知れない明らかに男と分かる厳ついメイドだった。


一番大きなサイズとはいえメイド服はぱつんぱつんで、せっかくの肩のパフスリーブは引き伸ばされて原型を留めていない。

仕上げにと白いふりふりのヘッドドレスを付けると、得体の知れなさは加速した。


「…………で、でん、か?」

ライナートが第一王子であった頃は侍従を勤め、子爵となった今は執事として側にいてくれている男が厳ついメイドとなったライナートを見て唖然としている。

執事はライナートが廃嫡されて子爵となってからはライナートを“旦那様”と呼ぶようになっていたのだが、動揺して昔の呼び方が出てしまっていた。


「もう殿下ではない」

「失礼しました。旦那様、一体どうされたのですか?」

「俺は今日からフランカ付きのメイドになる」

強い意思を持ってそう宣言すると執事は黙った。


ライナートはそのままフランカの部屋に入った。

フランカはちょうどミンスとメイド達と人形遊びをしていた所で、ミンスとメイドは目を丸くしてライナートを見た。


フランカも青い目を大きく見開いてライナートを見る。

その顔には怯えというより困惑が広がっていた。女装した男を見るのは初めてのようだ。そしてメイドはフランカの中では女性なのだろう。


「フランカ、俺は今日からお前に付くことになったメイドだ」

ライナートが迷いなく告げると、フランカはしげしげとライナートを見た。

フランカの様子にミンスが直ぐ様話を合わせてくれる。


「新入りかい? 名前は?」

「ライだ、よろしくフランカ」

ライナートは握手の手を差し出した。


フランカは「らい……」と呟きながらおずおずと握手をしてくれた。


ライナートはメイドの格好をしているだけで、言葉遣いも態度もそのままだ。どこからどう見ても男のライナートがなぜ受け入れられたのかは疑問だが、フランカはライナートをメイドとして受け入れた。


受け入れられてからはライナートは出来るだけフランカの側で過ごした。共にお茶をして庭で花を摘んだし、お人形遊びもした。屋敷全部を使って鬼ごっこやかくれんぼもした。


そうしてライナートはフランカと仲良くなる。

最初の握手もそうだったが、フランカはライナートの大きく無骨な手で触れられても怯えなかった。むしろライナートと手を繋ぐと安心するようで不安が強い時はライナートを求めた。


また、フランカは「らいー」と可愛くライナートを呼んではよく抱っこをせがんだ。フランカが大好きなお姫様抱っこが出来るメイドはライナートだけだからだ。

「仰せのままに、俺の姫」

そう言って抱き上げてやるとフランカはきゃっきゃっと喜んだ。


明らかに厳ついライナートだったがあっという間にミンスと並んでフランカのお気に入りのメイドとなる。


ライナートは、フランカがこんなに自分を気に入っているのは頭の奥のどこかで婚約者だったライナートを覚えているからかもしれない、と考えた。

そう考えついた時、ライナートは自室でちょっと泣いた。


フランカがライナートにすっかり気を許すようになり、屋敷内では1つの変化が起こる。男性の庭師やコックであってもメイドのふりふりヘッドドレスさえ付けていればフランカが怯えなくなったのだ。


フランカはかなり警戒しながら男達の頭のヘッドドレスとその全身を見回し、一定以上の距離は置くが逃げはしない。

その顔には「……もしかして、おんなのこ?」と書いてあって可愛らしい。


庭師とコックと執事はポケットにふりふりヘッドドレスをしのばせて、フランカと出会うとそれをさっと身につけるようになった。


フランカの明るい笑い声が響くようになりライナートは嬉しかったが、いつまでも幼児の状態のままのフランカが心配でもあった。


安全で穏やかな日々を過ごせば幼児退行は戻ると思っていたのだが、フランカには一向にその気配はない。

フランカは妊娠六ヶ月となりお腹も膨らみだしている。

果たして幼児のまま出産を迎えて大丈夫なのだろうか。


お腹の子供についてはミンスやメイド、そして今やふりふりヘッドドレスを付けて往診に来ている医師も丁寧に説明しているのだが、本人はあまりぴんと来てないようで平気で腹からこけたりもしている。


陣痛は痛いし長いのだ、子供のまま何の覚悟もなしで耐えられるのかは甚だ疑問だ。

ライナートは医師やミンスと相談して、フランカが自分を思い出すきっかけを作ってみようということになった。 


その日、ライナートは刺繍セットをフランカの前に広げた。


フランカはきょとんとしながらも色とりどりの糸を嬉しそうに手に取る。


「フランカ、君は刺繍が得意だったんだ」

ライナートは木枠に張った練習用の布をフランカに渡した。そこには簡単な図案が描き込んである。 


「刺してみるか?」

糸を通した刺繍針も渡してみるとフランカは戸惑いながらもそれを受け取った。


「これ、フランカが俺にくれたものだよ。全部君が刺したものだ」

ライナートはフランカからもらった品々を並べた。

途端にフランカの青い瞳が悲しみに染まった。


「っ、やだ」

フランカは木枠を投げると頭を抱えた。

「やだやだ、しないっ、ししゅう、しないっ」

身を縮めてフランカは泣き出した。


しまった、とライナートは後悔した。きっとまだフランカは元に戻る時機ではないのだ。

急ぎ過ぎてしまった。お腹の赤子のこともそうだがライナートには自分のことを思い出して欲しいという欲も確かにあった。


(俺の都合で勝手に進めた、また傷付けた)

ライナートは慌ててフランカの背中を撫でる。

「ごめん、フランカごめん。止めとこうな。刺繍は止めよう」

「ううっ、しないぃ」

「うん、しなくていいから、な」


めそめそと泣くフランカを宥め続け、結局おやつに好物のアップルパイを用意するという約束をして、やっと泣き止んでもらえた。





❋❋❋


「…………?」

フランカが刺繍のことで泣いてしまった晩、ライナートは夜中に小さな悲鳴を聞いた気がして目が覚めた。


身を起こして耳を澄ます。

隣のフランカの部屋から確かに小さな声が聞こえた。


「フランカ?」

奥の扉からそっとフランカの部屋に入るとフランカはベットでうなされていた。


「……やーっ」

細い声をあげながらフランカは両手で寝間着の襟元をきつく握っている。額は汗でびっしょりだ。


「フランカ、フランカ」

そっと声をかけて肩を揺らすが起きる気配はない。


「やだっ、いやっ」

フランカの足が走っているようにバタバタと動く。ぎゅっと閉じた目からは涙が溢れ出した。

「フランカ、起きろ。フランカ、ここは大丈夫だから」

ライナートはあわあわと少し強くフランカを揺すった。


「やっ、助けてっ、助けてライナートさまあっ」

フランカが泣き叫ぶ。

ライナートは思わずフランカを引き起こすと強く抱きしめた。


「フランカ、俺だよ。大丈夫、いるから。もう怖いことはないから」

ぎゅうっと腕に力を込める。

しばらくすると泣き声が止んだので、ライナートは腕の中のフランカを見下ろした。


フランカの涙に濡れた瞳と目が合う。

その青い瞳が信じられないというように見開かれた。


「…………ライナート様?」

フランカははっきりとそう口にした。

呼ばれてライナートの心が震える。

ああ、フランカが戻ってきたんだと涙が出そうになった。


「うん。ごめんフランカ。俺が全部悪かった、ごめん」

謝って許されることではないが謝って頭を撫でる。

しかし頬の涙を拭おうとした所でフランカの顔がさっと青ざめた。


「いやあっ」

強い力で胸が押し返されライナートはフランカから身を離す。


「フランカ?」

「いやっ、来ないでっ、出ていって!」

フランカは金切り声で叫ぶと両手で自身を抱いて後ずさりベットから降りた。


「フランカ、落ち着いて。客じゃない、ライナートだよ」

安心させようとそう声をかけるとフランカの瞳は絶望の色に染まった。


ここで、ばんっと扉が開いてミンスが駆け込んできた。

「あんたっ、何してんだいっ」

ミンスはすぐにフランカを庇うように抱きしめるとライナートをものすごい形相で睨んだ。


「違うっ、襲ったんじゃない。フランカがうなされていたんだっ、フランカ、俺が分かるんだろう? ライナートだ。君と婚約していた」


ライナートは必死に呼びかけてフランカに歩み寄るが、フランカは身をよじってミンスの陰に隠れた。


「来ないでっ」

「フランカ」

尚も足を進めるライナートにフランカは悲痛な声で訴えた。


「いやっ、来ないで、見ないでっ、こんな汚れた私、見ないでっ、見ないでえっ」


ライナートの足が止まる。

ガラガラと足元が崩れる心地がした。

今のフランカは全てを知っているフランカだ。ライナートのこともライナートがしたことも、その後に自分の身に何が起こったのかも。


「フランカ、君は汚れてなんか」

掠れた声で何とかそう言うが、フランカは激しく首を振った。


「見ないでっ、あっちに行って!」


フランカは「見ないでよお」と泣きながら床にうずくまると頭を抱えて身を小さくした。まるでそうするとライナートに見られる面積が減らせるとでもいうようだ。

ミンスがそれにそっと覆いかぶさる。


「あんた、とりあえず出ていった方がいいよ」

ミンスが告げた。


「っ…………すぐ戻るっ」

ライナートはそう言うと急いで自室へと引き返した。背後で「えっ、戻ってこなくていいよ」とミンスが言っているがそれは無視する。


自室に戻ったライナートはクローゼットからメイド服を引っ張りだして着替えた。

ふりふりのヘッドドレスもきちんと装着する。


深呼吸を何度かして再び、フランカの部屋の扉を開けた。

フランカはベットに腰掛けて毛布にくるまれていた。ミンスと数人のメイドが肩をさすり泣き腫らした目を冷やしてくれている。


「フランカ、大丈夫か?」

ライナートはフランカの前にしゃがんで目線を合わせた。


「…………………………らい?」

舌足らずに呼ばれてほっと息を吐く。


「ああ、お前のメイドのライだ。泣いていたのか?」

「うん」

「そっか、怖かったな」

「うん」

「眠れそうか?」

「うん、らい、て、つないでてほしい」

「仰せのままに、俺の姫」

そう答えるとフランカはふふっと笑った。





「ごめんな」

ライナートの手を握りしめてぐっすりと眠るフランカに声をかける。


「ごめん、フランカ。俺のこと思い出して欲しいなんて考えた俺が馬鹿だった。思い出さなくていいよ、フランカ。そのままでいい。出産はきっと何とかなるよ。だからそのままでいろ」


ライナートはそっとフランカの頭を撫でた。



翌朝もフランカは子どものままだった。

昨晩の悲痛な叫びを聞いていたライナートとミンスは、屈託なく笑うフランカに胸を撫でおろした。


これ以降、フランカに無理に己を思い出させるのは止めることとなり、変わりに皆でお腹の赤ちゃんを大切にするようにと口をすっぱくして注意した。


フランカはやはり腑に落ちていなかったが、八ヶ月を過ぎてお腹がずいぶんと大きくなってくるとさすがに感じる所があったようだ。胎動も盛んになってきて自分の中に何かが居ることは理解して話しかけたりするようにもなった。


そして、いよいよ迎えた臨月のある朝ーー


「うーーーーっ」

「頑張って、あともう少しです! 次の波で頭が出ますよ、はい、いきんで!」

「フランカ、頑張れ」

「ぐーーーーっ」

「よし! ここからは力抜いてっ、よーしよしよし」


フランカは一晩の陣痛と闘い、無事に元気な男の子を産んだ。


ほにゃあほにゃあと泣く赤子を、本日もふりふりのヘッドドレスを付けた医師が取り上げて産湯につける。


「フランカ、頑張ったな。ほんと、頑張ったな」

メイド服を着て一晩中枕元でフランカを励まし続けたライナートは泣きながらフランカを労った。

気が抜けたのと嬉しさで涙が止まらない、ミンスやメイド達も全員泣いていた。


おくるみに包まれた赤子がフランカの枕元に差し出される。げっそりしたフランカはそれを不思議そうに見つめた後「ちっちゃい」とふにゃりと笑った。




産まれた男の子はフランカと同じ柔らかそうな茶色い髪で、産後二日目にはうっすらと目を開き、その瞳もフランカと同じ綺麗な青だった。顔立ちもフランカに似ていた。


ライナートはフランカの子どもがフランカに似ていることに深く感謝した。

ライナート自身は産まれてくる子どもがどんな外見であっても愛する覚悟をしていたが、フランカは違う。

望んでいない関係と妊娠だったのだ。もし相手の男を思い出させるような外見であればフランカは子どもを受け入れられないかもと心配だった。


(よかった)

ライナートは男の子をシエルと名付けて子爵家の子として届け出た。


子どものままのフランカがシエルの世話をするのは難しく、シエルは基本的には乳母に預けられたが、出来る限りフランカと一緒の時間を作るようにした。


フランカは周囲が思っていたよりも嬉しそうに丁寧にシエルを抱っこし、オシメもてきぱきと変えた。


そしてフランカの出産を待っていたように、ライナートに王家から仕事が回ってくるようになった。


王家と距離を置いている家門のお茶会への参加や、辺境伯へのご機嫌伺い、急激に勢力を強めた商家への訪問、と本当にややこしいものばかりが回ってくる。

使者が伝える国王の言伝には『成果は期待していない、顔つなぎだけでよい』とのことだが気は遣う。


ライナートは日中は忙しくするようになり、辺境へ赴く際には二週間ほど屋敷を空けたりもした。


ややこしい顔つなぎを何とかこなしたライナートは、ゆくゆくは他国の外交官やお忍びで訪れた王族の観光案内を任せるとも言われてしまう。ライナートは苦手な語学の復習にも勤しみだした。


フランカとの触れ合いが減ってしまい、寂しいし、また心配でもある。

シエルの出産後はフランカの笑顔はますます明るくなり、少し落ち着きも出てきた。これまでは動き回っていることが多かったフランカはシエルをそっと見守りながら「あらあら」などと言ってにこにこしていることが増えている。

お姉さん面しているのが微笑ましい。


だが夜にうなされることは増えていた。


ライナートは何度も夜中にフランカの悲鳴を聞いて、慌ててメイド服を着てから添い寝をした。

背後からそっと抱き込んで頭や背中を撫でるとフランカは落ち着いて穏やかな眠りへと戻る。


そういう夜は、再びうなされることもあるのでそのまま横で寝るのだが、ぱつぱつのメイド服のまま眠るのは体がきつい。

ライナートは町へ出て、今度は女物の寝間着を買った。

買ったのは一番大きなサイズのフリルとリボンとがたっぷりと付いたファンシーな一枚である。


フリルとリボンはライナートの趣味というわけではない。装飾過多でないとがっしりした体つきが隠せなかったのだ。

フランカがメイド服のヘッドドレスを重視していたのも思い出し、お揃いのナイトキャップも購入した。


最近のライナートはファンシーな寝間着を着て揃いのナイトキャップを装着し、フランカの部屋のソファで寝ている。この方がフランカがうなされている時に気づきやすいからだ。


フランカがうなされればすぐに優しく抱き込んで声をかける。名前を呼び、大丈夫だと頭を撫でた。

そうしてフランカが落ち着いた後は、ごめんと謝り、好きだよ愛しているよと小さな声で伝えた。



そんな風にして少々歪だが平和な日々が半年ほど続いたある日、ライナートは大きなミスをしてしまう。


その日、ライナートは庭師を手伝って花壇の植え替えを行っていた。蒸し暑い日で作業が終わる頃には全身汗びっしょりだった。

後は片付けだけになり、庭師が残りは一人で出来ると言うので屋敷に戻ろうとしたのだが、汗と泥がすごいので花壇の近くの井戸で水浴びだけすることにした。


ライナートはメイド服を雑に脱いでヘッドドレスも外し、下履き一枚となって頭から水を浴びていた。


時刻は昼下がりで、汗だくで火照った体に冷たい井戸水が気持ちいい。


(フランカはシエルと一緒に昼寝中だろうな)

ライナートは並んで眠る二人を想像して頰を緩ませる。


昼寝が終わったらフランカと一緒にシエルと遊ぼうと思っていると、背後で「きゃああっ」と悲鳴があがった。


驚いて振り向くとフランカとミンスだった。

フランカはアイスティーを乗せたお盆を持って顔を真っ赤にしている。


「っ、フランカっ」

ライナートは今、ほぼ全裸だ。傍らには脱ぎ捨てたメイド服もある。

フランカはショックに違いなかった。


「いやあっ」

フランカはお盆を落とすと、顔を覆って走り出した。


「フランカっ、待って」

「あたしが追うから、あんたは服を着な!」

思わず追おうとしたライナートをミンスが鋭く止める。

ライナートは大慌てでメイド服を着てフランカの部屋を訪れたのだが、フランカはライナートに会ってくれなかった。


翌日も翌々日もフランカはライナートを避けた。部屋に入ると真っ赤になって「出ていって」と言われてしまう。

部屋の奥の扉は棚で塞がれてしまった。


当然だ。

信頼して添い寝まで許していたメイドの“らい”が男だったのだ。

人間不信になってもおかしくはない。屋敷から逃げ出そうとしていないのだけが救いだった。


ミンスに様子を聞くと、フランカはメイド達とは変わらず楽しく過ごせているようで安心したが避けられるのは辛い。


ほぼ全裸を見られてから三日目、本日もフランカから避けられてしまったライナートは一つの決心をした。

このままフランカから嫌われてしまうのは耐えられない。その信頼を取り戻したかった。


ライナートは一番大きなサイズの女性用の下着を買った。

紫色のシルク素材で品のいい黒のレースが付いたショーツである。

どこからどう見ても女物の下着だ。


それからライナートは下腹部と太ももの毛を剃り、下半身にしっかりと前張りをした。

いざ、女物のショーツを履いてからメイド服に身を包む。


そこまでしたライナートはフランカに頼み込んで、フランカの部屋でフランカとミンスの二人になってもらい、フランカに面会した。


「フランカ、この間は変なものを見せてしまってごめん。その、こ、これで安心出来るだろうかっ?」

子どものフランカにはいろいろ説明するよりは見せた方がいいと、ライナートは真っ赤になりながらメイド服のスカートをたくし上げた。

ライナートの白く艶めかしい脚と紫のショーツが披露される。


フランカのためならばメイド服もファンシーな寝間着も全然恥ずかしくなかったライナートだが、さすがにこれはかなりの羞恥を感じた。

フランカとミンスの方は直視出来ずに顔を背ける。


「……………」

「……………」


息を呑む音がして部屋には沈黙が満ちた。

ライナートが何とかちらりと二人を窺うと、ミンスは目を点にしていてフランカは顔を真っ赤にしていた。


「フランカ、俺、君の信頼を取り戻したいんだ。これだけじゃダメかな? 髪の毛も伸ばそうか?」

「あああああのっ、大丈夫ですっ、大丈夫ですから、スカートを下ろしてくださいっ」

フランカは両手で顔を覆いながらそう言った。


「明日からは避けませんから、今日はもう出ていって」

「本当に?」

「本当です。避けるの止めますから」

「よかった、ありがとう」

ライナートは心底安堵して部屋を後にした。


翌日、フランカは少々ぎこちなくはあるが「ライ」と微笑んでくれるようになってライナートはちょっと泣いた。

そうして屋敷には再び、平和な日常が戻ったのだった。




























❋❋❋


朝食を食べ終わったフランカは再度、新聞の記事を見返した。そこにはフランカの以前の生家、侯爵家のことが載っている。


見出しには〈違法賭博に手を出していたフォンタナ侯爵が代替わり〉とあり、侯爵が違法賭博に関わっていたことと、侯爵家の爵位が甥に譲られ現在の侯爵夫妻と娘は田舎に蟄居することが書かれていた。


「それ、子爵様がいろいろ手を回したらしいよ」

食後のお茶を差し出しながらミンスが記事を指して言う。ミンスの言う子爵様とはライナートのことだ。最近ミンスはライナートへの呼び方を改めている。


「そう」

「フランカを娼館に売った盗賊の一団も捕まったらしいね。こっちは第二王子の手柄みたいだけど。情報を回したのは子爵様だって執事さんは言ってたよ」

「…………」

「そろそろ、正気に戻ってるって教えてあげたら?」


すとんと隣に座ったミンスが言う。

ミンスは一応子爵家のメイドだが、元平民の娼婦だったので礼儀作法はあまりなっていない。

でもフランカはミンスに畏まられる方が困ってしまうのでそのままでいいと伝えていた。


「でないとまた、あんたを子ども扱いしてお土産が可愛いぬいぐるみになっちまうよ。今回行ってるとこは熊が出るらしいからきっと熊のだね。いい加減、ぬいぐるみは要らないだろう?」

ライナートは今、王家からの依頼で地方へ出向いている。帰ってくるのは一週間後の予定だ。


彼は王都の外へ行くと必ずお土産を買ってきてくれる。そしてそのお土産は高確率でぬいぐるみである。


「でも、シエルも喜ぶし」

「シエルの分は別でちゃんとあるだろ」

「そうなんだけど……」

歯切れ悪くフランカは答えた。


「打ち明けるのに、なんか不安でもあるのかい?」

「ライナート様の態度が変わったら、と思うと怖いの」

ぽつりとフランカは言った。


フランカは今やもう、きちんと元に戻っている。

シエルの出産後、フランカは徐々に自分を取り戻したのだ。

ぼんやりと曖昧だった周囲のことが少しずつはっきりと輪郭を持ち出し、遠い夢のようだった自分の過去のこともゆっくりと思い出した。


ライナートについても、じわじわと思い出したが、思い出したもののどうしていいか分からなくてライナートの前では子どものままの振りをした。


ミンスとメイド達はフランカが正気を取り戻したことを知っていて、ライナートが屋敷にいない時は普通に接してくれている。

男性の使用人達はそもそもフランカの周りには近づかないようにしているので、フランカの変化をまだ知らない。


彼らは今もフランカと遭遇してしまうと慌ててメイドのヘッドドレスを装着してくれる。正気に戻ったフランカはもう逃げ出したりはしないのだが、男を見ると身は竦んでしまうのでヘッドドレス装着はありがたい。少し気が紛れるのだ。


「変わらないと思うけどねえ」

「嫌な夢を見た時は、ライナート様の添い寝がないと寝れないし」

過去の夢は時々フランカを苦しめている。そんな時にライナートに包まれると怖い夢はどこかへ行き、安心して眠れるのだ。


「添い寝は続けてくれると思うよ」

「でも、男の格好で添い寝されたら怖いかもしれないわ」

「あんたが望めば、あのファンシーなやつ着てくれるよ、ぶふっ」

ここでミンスは堪えられずに吹き出した。


「ミンス」

「いやだって、初めてあんたの横で眠る子爵様を見た時は衝撃だったよ? あんなふりふりの寝間着どこで見つけたんだろうね。こないだのあの紫の下着もすごかったねえ、あたし、笑いを堪えるのに必死だったよ」

そう言って、ミンスはくくくっと笑った。


「ミンス、笑っちゃ可哀想よ。彼は必死だったのよ。真っ赤になってたじゃない」

擁護しながらフランカはライナートの紫の下着姿を思い出してしまって赤くなった。


「だよねえ、完全に正気のあんたが素の言葉遣いだったのに、それに全然気づかないくらい必死だったもんねえ」

ミンスは再び、ぶふっと吹き出すと「毛の処理までしてたねえ、いやあ綺麗な足だったね」と笑いながら付け足した。


「ミンス!」

ライナートの艶めかしい足が頭に浮かんでしまい、フランカは恥ずかしくなって強くミンスを窘めた。


「ごめんごめん、あんたってば娼婦だったのに初心だね。水浴びしてる子爵様を見て避けてたのも恥ずかしかったからだもんね」

「し、仕方ないでしょう。私の王子様だったのよ」

フランカは赤くなりながら反論する。


ライナートはフランカが小さな頃から恋焦がれた王子様だ。ライナートと一緒であればどんなことでも怖くなかった。

そんな王子様のほぼ全裸を見せられては、恥ずかしくて顔を合わせられなくて普通だと思う。


「王子様だったら、なおさら戻ってるって教えてあげなよ。裸を見ても、“怖い”じゃなくて“恥ずかしい”だったってことは何とかなるだろ」

「あれは、屋外でこっちは見ちゃった側だったからよ」

「子爵様だったからだとは思うけどね…………まあ過去の仕打ちには思う所もあるけどさ、あたしから見て子爵様は頑張ってると思うよ。方向性が合ってるかどうかはさておき」

「誠意は感じてるわ」

「愛もだろ?」

「……それも、感じるけど」

フランカはため息を吐いた。

フランカはライナートが添い寝してくれた時はいつも『ごめん、好きだよ愛している』と言ってくれているのを知っている。


「正直、ライナート様に男として接してこられたら自分がどうなるかが分からないの。拒絶するかもしれない」

嫌な夢の後はとにかく怖くて縋ってしまうが、通常の状態であそこまで距離を近くするのは無理だろう。

ましてや女装していないライナートとなると、上手く喋れるかも分からない。


「あんたが嫌がったらすぐに止めてくれるよ」

「でも通常の受け答えをする私とメイド姿のライナート様の組み合わせは変じゃない?」

「ぶふっ」

ミンスがまた吹き出す。


「想像するとなかなか笑えるね」

「それに、私は自分がまだライナート様を好きなのかも分からないの。いろいろあったし……そもそも彼に相応しくもないし……」

「あんたが汚れてるっていう話なら聞かないよ。あんたが汚れてるならあたしなんか真っ黒だよ」

ミンスは顔を険しくした。


「……ごめんなさい」

「まあ急かすのは止めておくよ。ゆっくり進めればいい。でも、その内にシエルも歩き出すだろうし、そうなるとこのままって訳にもいかないと思うよ」

「そうね」

フランカはそこで、もうすぐ生後七ヶ月になる息子を思う。


元に戻ったフランカだがシエルへの拒絶は起こらなかった。フランカは子どもになっている時にシエルを“可愛いくて大切なものだ”と認識していた。そのせいか、過去を思い出してからもシエルのことは変わらず可愛いと感じている。

ライナートが不在にしている時は乳母とともにシエルに付きっきりになっていて、シエルは守り育てていくべきフランカの息子だ。


ライナートもシエルに愛情を注いでくれていて、それはフランカにとってとても嬉しいことだ。


七ヶ月の息子は最近動きがずいぶんと活発になってきた。

ライナートが傍らにいる時、フランカは言葉少なにシエルを見守るだけにしているのだが、かなりの速さで四つん這いで移動するシエルは危なっかしくてついつい「ダメよ、危ないわ」と止めそうになってしまう。

歩き出したらこんなものではなくなるだろう。フランカが子どもの振りをしている余裕はなくなるはずだ。


だからそろそろライナートには伝えるべきなのだろう。


一週間後、ライナートが帰ってきたら覚悟を決めて打ち明けてみようかと考える。


(……メイド服は続けてもらおうかな)

男装のライナートと上手く接する自分は想像出来ない。メイドの格好は続けてもらいたいと思う。


(女物の下着はさすがに止めてもらおう)


フランカはそのように決めた。







Fin





お読みいただきありがとうございます。


作者的にはいちおうハッピーエンドなのですが……どうでしょうね。女装はしばらく続きそうです。

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― 新着の感想 ―
ランキングに入っているのを見て、読ませていただきました。 フランカさん……運が悪すぎて、前半は泣きそうになりました。ただ、ミンスさんの存在があったことと、過去を悔い改めたライナートが自ら廃嫡を望み彼女…
二人と周辺の人々に穏やかな日々が続いて欲しいと願ってしまうお話でした。 若い時の浅はかな過ちが取り返しのつかないものになるかどうかは、運の要素が強いと思っています。 自身の浅はかな過ちに不運が重な…
色々複雑な気持ちになりますが…、フランカがそう決めたのであれば…。応援します。続編が読みたいです。
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