【第2話】もう一度、生きる
──じゃあ、今日から本格的に研修開始ね。
雨宮燈は、端末を操作しながらさらりと言った。
静かに歩き出す彼女の背を、光は少し戸惑いながら追いかける。
「初日は1人の転送者に付き添ってもらうわ。観察は基本7日間、毎日ログを取るだけ。操作は明日教えるけど、今日は全体の流れを把握して」
「俺は、ただ“見る”だけなんですよね?」
「ええ。“見るだけ”が仕事よ。だけどそれが、意外と難しいのよ」
研修フロアの一角にあるホログラム観察室に入ると、中央の台座に淡い青光の映像端末が立ち上がった。
雨宮が操作すると、表示されたのは1人の少女の転送記録。
「今回の転送対象、星野玲奈。享年78。死因:老衰」
「え、78? でも……この人、高校生?」
画面の中で、制服姿の少女が校庭を歩いている。
ゆるく巻いた茶髪、白いカーディガン、周囲の友人たちと笑いながら弁当を広げているその姿は、どう見てもティーンエイジャーだった。
「非記憶保持者よ」
「……なんですか、それ?」
雨宮は少しだけ笑った。
「説明しようと思ってたわ。いい機会ね」
端末に投影された文字列に目をやりながら、雨宮は言った。
「非記憶保持者っていうのは、前世に強い未練がなかった人。たとえば家族に看取られて満ち足りた人生を終えた人なんかね。こういう人たちは、記憶を保持する必要がないと判断される。だから、“記憶なし”で転送されるの」
「でも……前の人生はどうなるんですか?」
「記録には残るわ。でも転送先の世界は、“その人が最初からそこにいた”前提で構成される。矛盾も違和感もないように、まるで元からいたみたいに」
光は眉をひそめた。
「そんなこと、可能なんですか?」
「哲学的な話だけど──バートランド・ラッセルって知ってる?」
「“5分前仮説”……ですね。世界が5分前に作られたとしても、それを否定する手段はないって」
「その考え方を、システムが現実に使ってるの。記憶と環境が整えば、本人も周囲も“矛盾に気づかない”ようにね」
光は、ホログラム映像を見つめ直した。
玲奈は、教室で女子たちに笑顔を見せていた。
日記を読み上げるシーンが挿入される。
「今日は〇〇ちゃんが一緒に帰ってくれてうれしかった。明日は中庭の花壇を手伝うって約束しちゃった。ふふ、私、頑張らなきゃ」
光はその声に、どこか“おばあちゃんのような穏やかさ”を感じた。
「……この人は、もう一度、人生を始めてるんですね」
「やり直してるんじゃないのよ」
雨宮はぽつりと呟いた。
「“もう一度、生きてる”の」
静かなその言葉が、なぜか光の胸にすとんと落ちた。
「観察ログ、再生する?」
「え?」
「彼女の前世。どうして記憶保持対象にならなかったのか、見てみるといいわ」
雨宮がスライドを操作すると、映像が切り替わった。
ベッドに横たわる老女。周囲には息子、娘、孫らしき家族の姿。
彼女は、目を細めて微笑みながら言った。
「……ありがとう。私は、本当に幸せだったわ」
そのまま、目を閉じる。
呼吸が静かに止まり、周囲がすすり泣き始める。
「……これが、“未練のない死”か」
光は思わず呟いた。
映像が終わる。静寂が流れる。
「そういう人も、いるのよ」
雨宮は優しく言った。
「だからこそ、私たちは“見届ける”の」
光は、再び玲奈の転送先の様子を見た。
同じ制服、同じ日差し、同じ笑顔。
けれど、そこには一切の迷いや悲しみがなかった。
「……この仕事、思ってたより、優しいですね」
その言葉に、雨宮は少しだけ微笑んだ。