【第19話】ごめんね
病室の窓際に、小さな鉢植えのラベンダーが置かれていた。
咲良が「退院したら、家でも育てたい」と言っていたものだ。けれどそのラベンダーは、もう何日も水をもらっていないように萎れていた。
咲良が眠る時間が増え、会話が減っていった。目を覚ましても、どこか遠くを見ていることが増えた。
「光…」
ある日、彼女はかすれた声で、光の手を握った。
「ごめんね…守ってあげたかったのに、結局…助けてもらってばかりだったね…」
「そんなことないよ。俺のほうこそ、咲良がいなかったら、とっくに壊れてた…」
涙が込み上げて、声にならなかった。
咲良はふわりと笑った。
「光は、優しすぎるから…誰かを信じると、全部信じちゃうから…」
そして、微かに首を振る。
「でも、そんな光が、私は…好きだったよ」
それが、彼女の最後の言葉だった。
◇
その夜、病院からの着信に、光はしばらく出ることができなかった。
予感がした。あまりにも静かで、冷たすぎる予感が。
通話の向こうで、冷静な声が伝えたのは、心停止とその確認の時刻だった。
何も言葉が出なかった。
スマホを手にしたまま、光は床に崩れ落ちた。頭の中が真っ白になった。泣こうとしても、涙すら出なかった。
◇
咲良の葬儀には行けなかった。
蓮の裏切り、大学での孤立、そして唯一の救いだった咲良の死。
光の心は、もうとっくに限界を越えていた。誰も信じられない。何を信じればよかったのかも、もう思い出せない。
どこで間違ったのかも、わからない。ただ、自分の人生が、もう二度と立ち直れないところまで崩れたのだと――そのことだけは、はっきりと理解していた。
静かな部屋。塞がれたカーテンの隙間から、ほんの少しの光だけが差していた。机の引き出しに入れていた手紙と、一本の封の開いていない睡眠薬と抗うつ剤。
光はそれらを無言で取り出すと、机に向かってペンを握った。
「ごめん」としか書けなかった。




