【第1話】見守ることしかできない場所で
真っ白な廊下に、靴音だけが響いていた。
天井のない空間。壁のようで壁でない透光素材。足元は踏んでいるはずなのに、感触はない。
「……まるで夢の中みたいだな。」
ぽつりと漏らした独り言に、先を歩く案内係の女性──シエルは振り返らない。
「夢ではありません。ここは、現実です。」
返答だけが淡々と返ってきた。
目の前に広がったのは、無数のホログラムが浮かぶ巨大なモニター空間だった。
空中に浮かぶ映像、それを見つめる人影たち。
……いや、“人”ではないのかもしれない。皆、制服を着てはいるが、どこか現実離れした雰囲気を纏っていた。
「ここが……観察室?」
「正式名称は、第七感情観察区。ですが、現場では“ホール”と呼ばれています。」
案内の言葉とともに、光の目の前に一人の女性が現れた。
黒に近い濃紺の制服。前髪を切り揃え、整った表情。鋭くもどこか憂いのある目。
年齢は……二十代後半くらいか? ただし、ここでは年齢に意味があるのかは分からない。
「新任の子?」
その女性が、シエルに視線を送った。
「はい。転送保留対象、高槻光。未練スコア92。観察係適性上位。
初期研修プログラム、あなたの帯同で進めていただきます。」
「了解。」
短く答えると、女性は光に向き直った。
「雨宮燈。ここの古株よ。」
「……よろしくお願いします。」
名乗り返したものの、光の口調にはまだ戸惑いが混じっていた。
雨宮はその様子を見ても、特に驚いたり笑ったりはしなかった。
「戸惑うのは当然よ。私も、最初は納得できなかった。」
「……死んだのに、仕事させられるって意味で?」
「それもあるし──ただ見るだけ、っていうのがね。私は、何かできると思ってた。」
そう言って、雨宮は近くのホログラムに指を差した。
「研修記録、映すわ。まずは“記憶保持者”の観察ケースを見てもらう。」
「……記憶保持者って?」
「死後、前世の記憶を持ったまま転送された特例対象。
未練が極端に強く、希望者に限って認可される。
成功例は稀。大半は──記憶に囚われて終わる。」
映し出されたのは、地方都市のような町。
その片隅で、ひとりの男性がベンチに腰掛けていた。
「記録者名:田嶋俊。享年32歳。
元・都内中学校の教諭。過労と家庭問題で自死。
生前、交際していた恋人を交通事故で突然失い、その喪失感が未練として残った。
未練は“失った恋人と、もう一度出会いたい”だった。」
画面の中で、田嶋がふと立ち上がる。
その視線の先には、コンビニ袋を提げた若い女性がいた。
彼女は気づかぬふりで通り過ぎたが、田嶋はずっと目で追っていた。
「この子が、前世での恋人……だった人?」
「似てるだけ。でも、彼にとっては“彼女”だった。」
次の日も、またその次の日も、田嶋は彼女の行動を追い続けた。
たまたま出会うように話しかけ、連絡先を交換し、交際を申し出る。
映像の中で、女性が首を傾げて笑った。
「えっと……会ったばかりなのに、なんか不思議な人ですね。」
田嶋は、笑っていた。泣きそうな顔で。
──けれど、そこから少しずつ歯車が狂っていく。
前世の“彼女”が好きだった服、音楽、口癖。
田嶋はそれらを執拗に“新しい彼女”に求めるようになる。
「何で、変わっちゃったの?」
「俺が好きだったのは……そんな君じゃなかったよな?」
一方的な期待。歪んだ再現。
彼女は困惑し、恐れ、そして──距離を置いた。
最後の映像。田嶋が、小さなアパートのベランダから街を見下ろしている。
「……やり直せるって、信じてた。記憶があれば、幸せになれるって。」
雨宮は、映像を停止した。
「結果、彼は再び自分を追い詰め、精神崩壊に至った。
私たちが観察した7日目に、自傷ログが検出され、強制ログダウンが実行されたわ。」
光は言葉を失っていた。
「……だったら。記憶なんて持たせなきゃ……」
「そう思うでしょ。でもね、それを選んだのは彼自身よ。
希望を、与えられたんじゃない。自分で掴みにいったの。」
雨宮は目を細めて、かすかに笑ったようにも見えた。
「私たちの仕事は、それを止めることじゃない。
ただ、記録すること──その結果が、どれだけ痛くてもね。」