【第8話】揺れる境界線
観察ログ、2日目。
陽菜の部屋は静かだった。
彼女は机に向かい、教科書を開いていたが、ページは一向に進まない。
階下から物音がするたびに、肩がすくむ。
扉の外を誰かが通るたびに、手が止まる。
リビングから父の咳払いが聞こえた瞬間、陽菜はペンを握る指に力を込めすぎて、芯を折ってしまった。
光はその一連の映像を見ながら、苦いものを喉に押し込んだ。
観察ログ、3日目。
兄は陽菜の存在を完全に無視していた。
目が合っても無言。
母は、陽菜が洗濯物を畳む手つきにふと眉をひそめる。
「前の子の方が覚えは早かったわね」
その声に、陽菜は何も言わず黙って頷いた。
光は記録端末を閉じ、意を決して通信を開いた。
相手は、研修時代の指導係――雨宮だった。
「久しぶりね、どうしたの?」
画面に現れた雨宮は、淡々とした声で言った。
「すみません。T-1123の件で……少し、困っています」
「観察中に何か異常が?」
「……異常とまではいえない。でも、“空気”が明らかにおかしいんです。
記憶は保持していないはずなのに、彼女は常に怯えていて、家庭の誰も、彼女を歓迎していないように見える」
一拍の沈黙。
「雨宮さん、これ……何か、できませんか?」
雨宮の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れたように見えた。
けれど、彼女の声は変わらず冷静だった。
「……できないわ。観察係は、干渉できない」
「でも――!」
「分かってる。私も何度もそう思った。
けれど、それを越えた瞬間から、私たちは“システムの一部”じゃなくなる。
それは、“転送者の人生を奪うこと”になるのよ」
光は言葉を失った。
「それでも、記録を残しなさい。彼女のためにも、あなたのためにも。
……それが、私たちの“できること”よ」
通信が切れる。
モニターに映る陽菜は、机の上のノートにただ静かに「ごめんなさい」と書き続けていた。
光はその姿から目を逸らせず、手のひらに爪が食い込むほど強く握りしめた。
「見てるだけなんて……」
その声は、誰にも届かない場所で、ただ静かに零れた。




