【プロローグ】あと一歩、だったのに。
風が冷たくなってきた夜、俺は帰り道の交差点に立っていた。
左手には分厚いブリーフケース。今日の会議で詰め込んだ修正案と進捗表、そして自分の走り書きのメモが詰まった手帳が入っている。
ようやく山場が見えてきた。プロジェクト、完遂まであと少し──
イヤホンから流れていたプレイリストが、ふと途切れた気がした。
直後、視界の右端から何かが飛び込んできた。
何が起きたのか、最初はわからなかった。
世界がぐるりと回転して、音が遠のき、体が宙を舞っていた。
そして──ブリーフケースが開いて、中身がばら撒かれるのが見えた。
手帳が、くるくると宙を回る。
その中の一枚が風にあおられて、ふわりと宙に舞った。
そこには、俺の字でこう書かれていた。
「あと一歩、絶対に仕上げる」
その文字が目に焼きついた瞬間、意識がぷつんと途切れた。
──そして、目を開けたとき、俺は“何もない”場所にいた。
床はあるけれど、感触はない。
音も、風も、匂いも、色もない。
ただ真っ白な空間に、俺ひとり。
「……は?」
口にした言葉が、自分のものとして唯一の実感だった。
「お目覚めですね。お疲れさまでした。」
声がした。振り向くと、白いスーツに金のラインをまとった女が立っていた。
完璧な無表情に見えて、目だけは妙に澄んでいて、こちらをまっすぐ見ていた。
「ようこそ。転送管理局へ。」
「──てんそう?」
「はい。あなたは事故により、死亡しました。」
「……ちょっと待ってくれ。」
唐突すぎて、思考が追いつかない。いや、追いつきたくない。
ついさっきまで仕事のことを考えていた。会議の内容、手帳のメモ、部下の表情。全部、リアルだった。
「俺は……いや、だって、歩いてて……」
言ってるそばから、体の感覚がふわふわと浮いていく。
「とにかく、一回外に出──」
「出られませんよ。」
「は?」
「これは現世ではありませんから。」
心臓の音がしないのに、心が凍っていく感じがした。
「……マジで、死んだのか?」
彼女は頷いた。まるで、申請書にハンコを押すように、淡々と。
「未練が強く、転送リスクが高いため、あなたは“保留”対象となりました。
その代わりとして、ひとつの職務をご提案します。」
「職務? 俺、もう死んだんだろ?」
「はい。でも、“死後にも役割はあります”。
あなたには“観察係”が最適と判断されました。」
その言葉が、じわじわと脳に沈んでくる。
「……俺に何ができるってんだよ」
「観察です。他者の新たな人生を、客観的に見守っていただきます。」
「……見守るだけ?」
「ええ。詳しい業務内容は、後ほど研修担当者から説明があります。」
言葉の意味は理解できても、現実感がまるでない。
だが、この空間に拒否権などなさそうだった。
「では、高槻光さん。観察係としての初期研修にご案内します。」
「……やるって、まだ言ってないんだけど……」
「未練スコア92。転送不適格。
選択の余地はありません。」
そう言って彼女は、無表情のまま手を差し出した。
──こうして俺は、“死んだあと”に働くことになった。
まさか、自分の人生二周目が、他人を観察する仕事から始まるなんて思わなかったけど。
そういえば。
あの手帳のページ、誰か拾っただろうか。
それとも、風に舞ったまま、アスファルトに貼りついていたのか。
「……チッ……死後のくせに、仕事させすぎだろ。」
俺は、小さく吐き捨てた。
けれど、ほんの少しだけ、“生きてた頃の自分”が戻ってきた気がしていた。