とくべつな思い
「ぁ‥‥」
小さな声とともに、人形が転がる。
また失敗してしまった。
どうしてもうまくターンさせられない。
こんなに練習してるのに。
レインボウ・アイリスの瞳から、一粒、二粒と涙がこぼれる。
「あああっ!
泣いちゃダメッスっ!
もう一回頑張るッスっ!」
ややあわてて、ミルテ・クレーメルが肩を叩いた。
他人の涙というのは始末に悪い。
まして、その涙の味を知っているなら、なおさらだ。
芸事というものは、華やかな表面とは裏腹に厳しい修行がある。
一人前になることは大変で、一流になることはもっともっと困難だ。
人形劇だろうとダンスだろうと、なんら変わるものではない。
血の滲んだダンスシューズ。
憶えられないステップ。
繰り返し繰り返し、夜が明けるまで練習した日々。
セピア色の記憶。
いまとなっては懐かしい。
大切な財産だ。
あのときの苦しさがあるから、今がある。
でも、と、ミルテは思う。
当時はそんなことを考える余裕などなかった。
修行に明け暮れ、逃げ出したいとすら思っていた。
だから、レインボウの気持ちはよくわかる。
自分には才能がないとか、もうやめたいとか、なんでこんな苦しい思いをして芸を憶えないといけないのかとか、思ってしまうのだ。
「もう一回、最初からやってみるッスよ。
今度は上手くいくッス」
年少の友人を気遣う。
人形と人間がダンスで競演する。
それは、茶飲み話からでたことだった。
レインボウはもとより、ミルテもダンサーとしてはまだ未熟だ。
しかし、それでもこの企画を成功させたかった。
金銭のためでは、むろんない。
ほとんど無報酬だ。
というのも、公演する場所が孤児院だからである。
暁の女神亭に出入りする神父、ゲルト・ランドルフが営む教会兼孤児院が、レインボウにとっての初舞台ということになる。
大舞台ではけっしてないが、身寄りのない子供たちに少しでも楽しんでもらいたい。
それが心からの願いだった。
花の都アイリーンは、魔王ザッガリアの攻撃によって荒廃し、現在は復興途上にある。
戦災孤児が爆発的に増え、ゲルト神父も報酬など支払うゆとりはないが、レインボウもミルテも、その点は気にしていない。
まして、見習い人形遣い少女は、あの戦いを経験しているのだ。
孤児たちの身の上は他人事ではない。
「だから頑張って上手くならないといけないのに‥‥」
繰り糸から手を放し、床にへたり込むレインボウ。
どうしてもターンが決められない。
彼女の師匠がやって見せてくれた模範演技は、あれほど美しかったのに。
「お師匠さまみたいに特別になりたい‥‥」
呟く。
ひっそりと、ミルテが溜息を漏らした。
これもまたよくある心理だ。
彼女も昔、同じ事を考えたものである。
きらびやかな踊り子たちに見惚れ、そうなりたいと望み、けれど道が見えなかった頃。
練習しても練習しても上達しなかった時代。
どうして自分は特別になれないのかと思い悩んだ。
しかし、いまならわかる。
最初から特別な人間などいない、ということを。
世に天才と呼ばれた人たちも、幼少の頃から血の滲むような努力をしているのだ。
彼らに凡人と異なる点があるとすれば、それは才能ではない。
けっして諦めなかったこと。
けっして挫けなかったこと。
このふたつだ。
「あたしには才能なんてないから‥‥」
「レインちゃん。
ちょっとだけ厳しいことをいっていいッスか?」
「‥‥‥‥」
「自分はダメだ。
自分には才能がないなんて思ってる人の陰気くさい芸なんか、誰も喜んでくれないッスよ」
それは、かつてミルテ自身が言われた言葉。
ずっと昔。
故郷に公演にきていた踊り子が、落ち込んでいた彼女に語ってくれた言葉。
だから、ミルテは花の都を目指したのだ。
いつかはあの人と、同じ舞台に立つために。
「とはいっても、どうしようもなく悩んでしまうことはあるッスよね」
にっこりと笑う。
「‥‥‥‥」
黙り込むレインボウ。
「だから私が、元気の出る踊りをするッス」
言って、ミルテが練習場の床にステップを刻みはじめる。
あの人がやってくれたのと同じように。
当時流行していたステップ。
怪我をした脇役に代わって、たった三分だけ踊ったのだというナンバー。
激しく、美しく、優しく、切なく。
縦横にミルテの身体が舞う。
レインボウの瞳が、輝きはじめた。
夢のような三分間。
人体が、どれほどの美を表現できるか、その答えがここにあるような気がした。
自然に拍手が出た。
「すごいすごいっ」
「これ踊れるようになるまで、丸一年かかったッスよ」
照れくさそうに、ミルテが笑う。
たった三分間のダンスのために、一年を費やす。
それが芸事なのだ。
だが、観客の拍手がすべての労苦を昇華させてくれる。
「病みつきになるッスよ」
ウィンク。
「‥‥うん」
わずかなためらいの後、レインボウが大きく頷いた。
まだ始まったばかり。
人形遣いとしての道も、彼女の人生も。
挫けてなんかいられない。
「一緒に頑張ろうッス」
「うん。
もう一度最初からだね」
教会に設えられた小さなステージ。
たくさんの子供たちが客席に座っている。
「‥‥緊張するね‥‥」
「大丈夫ッスよ」
「最高の呪文だねっ。
それ」
頷きあう。
しだいに大きくなってゆく音楽。
「いくッスよ」
満面の笑みをミルテが浮かべ、声援に応える準備をする。
やや遅れて、レインボウがそれに続いた。
幕が、あがる。