こころのたび
峠を越えるごとに気温は上がり、景色には緑が増えてゆく。
王都アイリーンから南へ。
セムリナ公国との国境付近。
「ふぅ‥‥」
鞍上、若い男が溜息をつく。
馬を走らせること四日。
ようやくここまで辿り着いた。
疲労の極みだが、
「もう一頑張りだ、急ごう」
乗騎の首を撫でて励ます。
サミュエル・スミスがその報に接したのは、大陸暦二〇〇四年が開けてすぐのことだった。
「なんだとっ!?」
急使を睨みつける。
もちろん、そんなことをしたからといって事実が変わるわけではない。
「落ち着いてください、大使どの」
冷静にたしなめたのは、急使たるセラフィル・サージ。
SSSと呼ばれる若い用兵家が激するであろうことは、最初からわかっていた。
「リアノーンの命には別状ありません」
淡々と報告を続ける。
新年の休暇を故郷セムリナで楽しんでいた副官リアノーン・セレンフィアは、ルアフィル・デ・アイリン王国への帰路、崖崩れに巻き込まれた。
幸い落盤の規模は大きなものではなく、銀の髪の副官も打撲傷を負っただけだ。
ただし、打撲の位置が問題だった。
側頭部を岩石に直撃された彼女は気を失い、一二時間後に目を醒ました。
すべての記憶を失って。
「なんということだ‥‥」
サミュエルが頭を抱える。
リアノーンは、彼にとって単なる副官に留まらない。
将来を誓い合った仲なのだ。
がたりと立ちあがる。
「どちらにおいでです?」
見透かしたような、セラフィルの問い。
「知れたこと。
リアンに会いにゆく」
はっきり答えるサミュエル。
「そういうと思いました」
呆れたような微笑。
だが、セラフィルはかつての教え子を止めようとはしなった。
「こちらに署名してから行ってくださいね」
「これは‥‥?」
「大使どのは急病で倒れました。
業務を代行する人間を本国から呼び寄せます。
二週間が限度ですよ」
それ以上長くなるようなら誤魔化しきれない。
本国だって不審に思うだろう。
そうなれば、職務放棄、背任の責を問われることになる。
「‥‥ご迷惑をおかけする」
頭をさげるSSS。
「迷惑というなら、あなたと知り合ってからかけられっぱなしですよ」
珍しく諧謔をとばし、
「さあ、もうお行きなさい。
時間がありません」
送り出す。
その日のうちに、サミュエルは馬上の人となった。
アイリンからセムリナに向かうなら、海路が最も速い。
風と天候にさえ恵まれれば、三日とかからずリアノーンが療養しているオルロー家の所領に到着するだろう。
あくまでも順調にいけば、の話である。
冬のこの時期、海路は荒れることが多く計算通りに進めるとは限らない。
魔晶船でも使えれば別であるが、むろんそんなものは民間にはない。
身分を隠しての隠密行なのだ。
セムリナの軍艦を使うことだって無理だ。
こうしていくつかの事情から、サミュエルは陸路を取らざるを得なかった。
南へと向かって騎行するのが、せめてもの幸いである。
行動しつつ計画を立案するという離れ技で、四日という短期間のうちにセムリナ国境を越え、オルロー家の別荘に辿り着いたのは五日目の朝である。
セムリナに雪が降ることは滅多になく、たとえ冬でも色とりどりの花が人々の目を楽しませてくれる。
そんな花畑の中に、彼女はいた。
「リアンっ!!」
大声で呼びかけ、走り寄るサミュエル。
びくりと身を震わせるリアノーン。
いまの彼女は勇敢な騎士でも有能な副官でもない。
不安だらけの女性に過ぎないのだ。
抱きしめかけた手を、青年が止める。
「元気そうでなによりだ。リアン」
「‥‥あなたさまは‥‥?」
なんだろう。
とても懐かしい気がする。
金の髪も、空の色をした瞳も。
「私はサミュエル・スミス。
まったく、せめて恋人の名くらいは憶えておくものだぞ」
冗談めかした声。
「恋人‥‥だったのですか‥‥?」
「ああ、恋人どころか婚約者だったんだ」
「そうなのですか‥‥すみません‥‥憶えていなくて」
緑の瞳を曇らせるリアノーン。
胸が苦しい。
ゆっくりと近づいたサミュエルが、優しく髪を撫でる。銀糸よりもなおたおやかな髪。
さらさらと、指の間からこぼれてゆく。
「ぁ‥‥」
頬を染めたリアノーンだったが、なぜか逃げようとはしなかった。
「考えてみれば‥‥」
「え?」
「考えてみれば、こういうのも悪くないかもしれないな」
「なにがですか‥‥?」
半ば男に身を預けながら問いかける。
「記憶を失ったということは、もう一度、リアンと最初から恋ができるということだろ」
「ぁ‥‥」
歯の浮くような台詞に、女の顔がますます紅くなった。
「でもまあ、そういうわけにもいかないからな」
男の右手が輝き出す。
セムリナ神の神聖魔法‥‥奇跡を起こす力だ。
「戻ってこい、私の大切なリアノーン」
やわらかな声。
懐かしい声。
ずっと待っていた、あの声‥‥。
「‥‥閣下‥‥?」
ゆっくりと、唇が音を紡いでゆく。
霧が晴れるように。
「どうして‥‥ここに‥‥?」
「ちょっと飛んできた。
何日もリアンの顔を見ないと禁断症状が起きるんだ、私は」
互いの顔が近づき、
「‥‥ばか‥‥」
唇が重なる。
濃密な花の香りが、ふたりを取り巻いていた。