君が降りそそぐ雨なら俺は大地になってすべてを受け止めよう
街並が赤く染まっている。
それは、黄昏時の魔術。
夜の帳が降りるまで、数刻の間のみ存在を許される芸術。
落日の最後の一閃が作り出す、禍々しいまでに美しい、朱い情景。
逢魔が刻。
大禍時。
いつの頃からか、人々は夕暮れを、そう呼称する。
昼と夜の狭間にあるこの時間は、あるいは、人間に本能的で迷信的な恐怖を与えるものなのかもしれない。
夕焼けに染まる街を眺めていたルシアは、小さく身を震わせた。
美しく情感あふれる光景というものは、時として、人間の想像力を負の方向に刺激するようである。
瞳を閉じて頭を小さく振る。
長い黒髪が、落日の余光を孕んで踊った。
波の音。
よせてはかえす。
はるか昔から、エオスに人間が生まれるずっと前から続く、星の営み。
紅く紅く、染まる海。
港通りの喧噪と波の音が混じり、このブロック独特の雰囲気を醸し出す。
うつむき加減に歩くルシア。
ルアフィル・デ・アイリン王国の都アイリーン。
彼女はこの地の生まれではない。
それが、なんという運命の悪戯か、この街の居留権を得てしまった。
奇妙なものだ。
もっとも、これはルシアだけの感慨ではないだろう。
アイリーンでは毎年何千名かの「アイリーン酔い」患者を出している。
つまり、この街の栄華が誘蛾灯のように人々を誘い、旅の途中で立ち寄ったものまで永住させてしまう。
自分もまた、アイリーン酔いなのだろうか?
ルシアは自問する。
望んでこの街にきたわけではない。
しかし、離れがたく感じているのも事実だ。
遠く遠く。
建国五〇〇年碑の尖塔が見える。
むろん、瞳をこらしても解答は浮かんでいなかった。
溜息。
ふと、後方から近づく足音に気がつく。
思わず身構えようとするが、その必要はなかった。
聞きおぼえのある足音だったからである。
ゆっくりと振り返る。
金色の髪に絡めたビーズ。
緑の瞳。
少年といっても良いような顔立ち。
キース・クロスハートという。
しばらく前から世話になっている宿屋の店長だ。
そして、特別な存在でもある。
「探したぞ、ルシア」
やや乱れた呼吸が、彼の奮闘ぶりを示していた。
おそらく、街中を駆け回っていたのだろう。
困ったような顔で、
「すみませんでした」
と、ルシアが言った。
さらさらと。
潮風が髪を撫でてゆく。
並んで歩き出す二人。
ルシアの方が少しだけ年長に見えるが、じつは男の方が年上である。
四歳も。
これは、彼女が大人びているのか、彼が子供っぽいのか、微妙なところであろう。
海が見える公園のベンチに腰掛ける。
「この海をずっと辿っていけば‥‥わたしの祖国があります」
呟き。
声もなく見つめる青年。
彼らは恋人同士だ。
だが、座した場所はごくわずかに離れていた。
立ちはだかる心の壁を示すように。
「姉と二人でアイリーンに潜入したとき、こういう結末が待っているとは思いもしませんでした‥‥」
「‥‥‥‥」
「姉さんは殺され、父はセムリナを追放され、わたしだけ幸福を掴もうとしているんです‥‥
許されることでしょうか?生者は許しても、死者は許してくれるでしょうか?」
無口なルシアが、ここまで多弁になるのは珍しい。
なにか言おうと動いたキースの唇が、結局は何も口にできぬまま閉ざされる。
恋人が返答など期待していないことを、理性によらず知ったからである。
独白は続く
「‥‥ずいぶんと汚い仕事もしましたよ‥‥この躰を使ったこともあります。
こんなわたしが 幸福を掴んでも良いんでしょうか」
海鳥たちが鳴きながら家路を急ぐ。
どれほどの時間が流れたのか。
あるいは数秒のことかもしれない。
「ルシア、イーゴラが見える」
キースが指さす。
港の方を、白銀に輝く船体。
誇らしげに掲げられた海鷹の軍旗が遠くに見えた。
「前に乗ったときもそう思いましたけど、綺麗な船ですね‥‥」
「ああ。
ところで、イーゴラってどのくらい旅を続けられるか、知ってるか?」
キースの問いに首を振るルシア。
「セラに聞いたんだけどな、補給なしで六〇日間だそうだ」
「‥‥ごめんなさい。
長いのか短いのかわかりません」
「だろうな、俺もさ」
青年が笑う。
つられるように少女も微笑した。
「でも、ずっと旅を続けることはできない。
いつかは母港に帰る」
「‥‥はい」
「海鷹たちも永遠に飛び続けることはできない。
必ず巣に戻る」
キースの言いたいことが、なんとなくルシアにはわかった。
だから、先回りしたようなことを言ってしまう。
「わたしには‥‥もう帰る家も、母港もありませんから‥‥」
「俺」
「え?」
「俺は、ルシアの港にはなれないかな?」
言ってから照れたよう頬を掻く。
うつむく少女。
「わたしにはそんな資格は‥‥」
「資格か。
それなら、もうルシアは持ってると思う。
俺がルシアを好きになったのは、ルシアだったからだ。
それが一番の資格というか‥‥なに言ってるんだろうな、俺」
自分でわけがわからなくなってきた。
我ながら情けなくなる。
もう少し気の利いたことが言えないものだろうか。
「キースさん‥‥」
困ったような顔で見つめ返す。
やや躊躇ったのち、キースがポケットに手を入れた。
ごそごそと、小さな箱を取り出す。
「これ、受け取ってくれないか?」
「‥‥‥‥」
沈黙した少女が、やがてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「‥‥ちゃんと、言って欲しいです」
「‥‥俺と‥‥結婚を前提に付き合って欲しい」
大きく息を吐くキース。
緑の瞳に泣き笑いの表情をしたルシアが映っている。
「‥‥常勝将軍の秘蔵っ子にここまで言わせたのは‥‥
わたしが初めてでしょうね」
「ああ、もちろんだ」
少しずつ。
少しずつ。
ふたりの距離が近づいてゆく。
夕暮れのベンチ。
「名誉なことです‥‥」
「いや。
俺が名誉なんだ。
ルシアを愛したこと。
ルシアに愛してもらったこと。
全部、俺の誇り、だから」
「キースさん‥‥本当にわたしみたいな女で良いんですか?」
「ルシアじゃなきゃ、いやなんだ」
大きく傾いた太陽。
風が風紋を刻んでゆく。
長く長く東にのびた、ふたつの影。
近づき、やがて、ひとつに重なった。